第24話 お手伝い?
普段であれば身支度を終えてから一日の予定表を持ってくる女官長が、今日はレティシアがベッドから身を起こしたタイミングでやってきた。
本日の予定は変更です、と渡された書面を受け取る。ベッドに腰掛けたまま女官長のサインが入った予定表に目を落としたレティシアは、九時から十八時まで王太子の執務の補佐という記載に、別段驚かなかった。
昨夜時間通りに起こしてくれたドロシーが、事前に教えてくれたからだ。ウィリアムの従者が訪ねて来て、予定の変更を告げてきた、と。ウィリアムの筆跡で執務を手伝って欲しいと書かれたカードもあったから、疑う余地はなく。今日予定していた王妃教育に備える必要がなくなったので、レティシアは明日使う教本を少し頭に入れてから就寝した。五時間近く睡眠を取れたので、昨日ほどの辛さはない。それでも頭はちょっとぼんやりしているし、眠いけれど。
「殿下はレティシア様でも処理が可能な書類をお任せするとおっしゃっていましたので問題ないとは思いますが、困ったことがあればヘレネにお尋ねください。あれは領地運営や財務処理に詳しいので、多少はお力になれるかと」
いつもは厳しい面持ちの女官長が心配そうに助言してくれる。一応、一通りの教育は受けているのだがやってみないとわからないこともあるだろうから、悩む書類があったらヘレネを呼ぼう。
頷いたレティシアに、女官長が困ったように言う。
「まさか、殿下の執務までお任せすることになるとは……。レティシア様には負担をおかけしますが、今回限りとのことですので……」
「それだけ殿下もお忙しいのでしょう。わたくしで力になれるのでしたら、本望ですわ」
ウィリアムが期限内に執務を片付けられないなんて信じがたい話だけれど。慣れない仕事を任されて大変な想いをしているのかも。彼の負担を減らせるのなら、手伝いは大歓迎だ。
女官長の伝言に従って飾りも締め付けも少ない簡素なドレスに着替え、朝食を取り、レティシアは時間通りにウィリアムの私室を訪ねた。
大きな窓から差し込む朝陽に照らされた婚約者様の麗しは、安定の眩さ。四日ぶりに大好きな人の顔が見れて、自然と頰が緩んでしまう。朝の挨拶を交わすと、ウィリアムが自身の従者とドロシーを部屋から退出させた。
二人きりになった途端、ふわりと距離を詰めたウィリアムがレティシアの頰に手を伸ばしてくる。温かな手のひらに促されるまま、上を向く。覗き込んでくる青空の瞳は怖いくらいに真剣で――緊張よりも戸惑いを覚えた。
見つめ合うこと、数秒。そっと手を離したウィリアムが嘆息を漏らした。
「嘘つき」
「はい?」
なんの話だろう。首を捻ったレティシアに注がれるのは、じっとりとした眼差しだ。
「このあいだ、無茶はしてないって僕に言ったよね?」
――あら、まぁ。
どうしてわかったのだろう。レティシアの目許にはうっすらと隈ができているけれど、ドロシーに化粧で誤魔化してもらった。血色も悪くないはずだし、察せる要素があるとは思えなかったから、すっ惚けることにした。
レティシアはにっこりと微笑む。
「嘘つきだなんて心外ですわ。無茶などしていません。そんなことより、わたくしは何をお手伝いすればよいのでしょうか? 期限の迫った書類がたまりにたまっていると聞き及んでおります」
仕事を優先してくださいと遠回しに仄めかせば、ウィリアムも笑みを浮かべた。見た者を蕩けさせるような極上の微笑みと共に、言う。
「レティにお願いしたいのは、僕の心の安寧を保つ手伝い――だね」
「はい?」
――心の安寧を保つ?
それはつまり、何をすればいいのだろう。
「目を瞑って欲しいな」
「……はぁ」
レティシアが目を瞑れば、ウィリアムの心が穏やかになるのだろうか?
よくわからないけれど、言われるままにまぶたを閉じる。肩を抱き寄せられる感覚にほんの少しの緊張を覚えた瞬間、既視感のある浮遊感に襲われた。
目を開けると、ウィリアムに抱きかかえられていた。いわゆるお姫様抱っこだ。つい先日も同じようなことがあったけれど、今日はなんだろう。
彼が足を止めたのは、寝椅子の前。そっと身体を下ろされる。ウィリアムが慎重に手を離すとレティシアはふかふかのクッションに後頭部を沈めることとなった。見上げた先にあるのは、煌びやかな天井。
「これは、どういう状況なのでしょうか?」
すぐ側にあるウィリアムの顔を見上げる。寝椅子の前で片膝をついた彼は、結ばれたレティシアの横髪を解きながら首を傾げた。
「昨日は何時間寝たの?」
硬い声音には確信めいた響きが孕んでいる。はぐらかすのは無理だと悟り、レティシアは観念した。
「えぇと……仮眠を合わせれば、七時間ほどでしょうか?」
「その前は?」
「…………」
押し黙るレティシアを見て、ウィリアムが困ったように眉尻を下げた。
「体調はどう?」
「今日は元気いっぱいです」
昨日は頭痛がちょっと辛かったけれど、今日は体調自体は問題なかった。気を抜くと欠伸が出そうなくらい眠くて、意識がふわふわしているだけ。
じっと見つめてくる瞳が疑わしげだったので、レティシアは本当ですわ、と苦笑した。
「寝心地はどうかな? 眠れそう?」
「……とても快適です。目を閉じたらあっという間に夢の中だと思います」
枕代わりのクッションも、手触りの良いビロードも。ドレスも寝苦しくないし――つまりは、そういうことらしい。
ウィリアムが背もたれにかけてあった毛布をレティシアに被せてくれる。ぬくぬくとした暖かさにますます眠たくなった。だが、このまま睡魔に身を委ねるわけにはいかない。
再び側に膝をついたウィリアムに尋ねる。
「書類がたまっているというのは嘘なのですか?」
「うん。片付けないといけない書類が山のようにあるのは事実だけど、期限が迫ったものはないかな」
なるほど。優等生なウィリアムが仕事をため込むなんてらしくないとは思ったが。レティシアを休ませるための方便だったみたいだ。
「わたくしがあまり寝ていないことを、なぜご存知なのでしょう?」
察しはつくけれど。
答えには間があった。悩む様子を見せながらも口を開いたのは、隠しても無駄だと彼も察しているのか。
「昨夜、君の侍女が僕の部屋に来てくれたんだ。主人の無茶に半泣きだったよ」
案の定だった。あれだけ口止めしたのに。命令違反を叱責すべきか、そこまで心配させてしまった己の非だと今回は目を瞑るべきか。
レティシアの葛藤を見抜いたように、ウィリアムがそっと付け加える。
「彼女にとってレティの命令は絶対だ。公爵家の侍女としてよく心得ている彼女が信念を曲げないといけなくなったのは、僕の気が回らなかったせいだよ」
間近にある綺麗な顔が曇りを帯びる。
「ごめんね、気づけなくて……」
吐露された謝罪に、ツキリと胸が痛んだ。普段の穏やかな彼の声音からは想像もできないほどの、申し訳なさと悔しさでいっぱいな声だったから。
レティシアは緩くかぶりを振った。
「謝らないでください。わたくしの時間の使い方が下手だっただけですわ……。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません……」
公務の進捗に余裕があるのなら、王妃教育の自習のために時間が欲しいと申し出ればよかっただけのこと。意地になって突き進んだレティシアが悪い。
「あんな状況だもの。君から予定の調整を言い出すのは気が引けただろうし、レティの性格上、頑張りすぎるのは知っていたんだから――ぜんぶ、気づかなかった僕が悪い。無理をさせてしまう前に気づけなくてごめん」
「……ただの、寝不足です。体調にも影響は出ていませんし……生活習慣を戻せばあっという間に回復しますわ」
だからそんなに謝らないで欲しい。
「僕としては、しばらく休んで欲しいのが本音なんだけど」
「却下です」
それこそ、モニカの思う壺だ。
レティシアの即答に、ウィリアムが苦笑する。仄かに浮かんだ笑みに心の底からホッとした。
「レティはそう言うよね……。とりあえず、明日予定していた公務の時間も僕がもらったから。手伝うフリをして、ゆっくり休んで。それから、王妃教育は明日で最後にしてもらえるよう母上に掛け合うよ」
「……っ、それでは王妃様からの評価が……っ!」
「レティが呼ばれたのは公務のためなんだよ? 急ぐ必要のない王妃教育で身体を壊したら元も子もないし、無茶な予定を組んだ王室側に非がある。君が倒れたら母上に責任が生じる以上、折れてくれる見込みは高いと思う」
きっぱりと言うウィリアムは、レティシアが何を言っても引いてくれそうになかった。
「……王妃様を、がっかりさせてしまいませんか?」
期待に応えられなかったレティシアに失望しないだろうか。
「それでがっかりするような人じゃないって信じてる。非情な一面もあるけど……それが母上のすべてじゃないはずだから」
なんとなく、ウィリアムらしい言葉だなと思った。これ以上ウィリアムに心配をかけるのは本意じゃなかったから、こくりと頷く。
「……わかりました。ウィル様のお言葉に甘えます」
何から何まで甘えてしまって申し訳ない。不甲斐なさでいっぱいのレティシアの脳裏にふと、アデラインの言葉が過ぎる。
レティシアを庇ってウィリアムが紅茶を被った夜。王妃は言っていた。開き直ってしまえばいい。ウィリアムが庇うのはあなたにその価値があるからだと。
――あの発言は、今の状況にも当てはまるのだろうか?
「長々と喋ってごめんね。ゆっくり眠って。起きたら一緒に食事を取ろう? 食欲は変わりない?」
柔らかなウィリアムの声に我に返ったレティシアは、慌てて返事をする。
「なんでも食べられますっ」
ウィリアムと食事が取れる嬉しさから、とろんとした声音で物凄く威勢のいい返事になってしまった。
クスクスと笑うウィリアムの袖をツン、と引く。どうかした、と首を傾げる彼を真っ直ぐに見上げて。
「ありがとうございます、ウィル様」
たくさんの配慮をしてくれて。複雑そうな顔を見せながらも最後には仄かな笑みを浮かべたウィリアムが、レティシアの頭を撫でてくる。
「おやすみ、レティ」
前髪を梳く手つきは、とても優しいものだった。




