第19話 甘えたい気分でも、だめですか?
遠慮がちにコツコツ、とドアを叩く音がした。ソファに腰掛けていたレティシアが顔を上げたのと、部屋主であるウィリアムが入室してきたのはほとんど同時だった。
「待たせてごめんね」
申し訳なさそうにウィリアムが眉尻を下げる。
ゆったりとした白のブラウスにズボン。それからレティシアと同じくガウンに袖を通しただけのくつろいだ格好でも、ウィリアムの佇まいは気品に溢れたもの。湯上がりでも彼の麗しさはそのままだった。
自然と目を奪われてしまったレティシアは、ウィリアムの髪がまだ湿っていることに気づいた。水気を完全に拭き取る前に来てくれたみたいだ。急かしてしまったようで申し訳なく思いつつ、レティシアは緩やかに頭を振った。
隣に腰を下ろしたウィリアムは、レティシアが脇に置いた冊子に目を止める。
「それは?」
「公務の資料ですわ」
呼び出しを受ける前に目を通していたものだ。まだ四分の一も読めていない。また明け方まで夜更かしコース確定だ。
「慣れない仕事で、無理してない?」
ドキリとする。ウィリアムの心配は一種の社交辞令みたいなものであって、レティシアの無茶な生活に勘づいているわけではないだろう。寝不足といっても肌の調子は悪くないし、隈だってできていない。気づける要素はないのだから。
首を横に振って心得ています、と答えたレティシアは、物言いたげに控えているドロシーに気づいた。
「ドロシー。もう下がって構わないわ」
退室を促せば、渋々といった雰囲気で侍女が出て行く。気を遣ってくれたのか、ウィリアムの従者も彼女に続いた。完全に二人きりになると、ウィリアムがクスリと笑う。
「学園では顔を合わせる日の方が珍しいくらいなのに。なんだか、凄く久しぶりな気がするな。一昨日会ったばかりなのにね。同じ王宮で生活しているから、不思議な感覚になるのかな?」
同感だった。レティシア自身、ウィリアムの顔を見るのは久しぶりな感覚があった。懐かしいとすら錯覚するほどに。昨日と今日の密度が濃かったせいだろうか。
そう思うと途端に寂しくなってしまって、なんだか無性に甘えたい気分になった。ここのところ気を張っていたからだろうか。いい加減なことを言ってウィリアムを呆れさせて。ひとしきり戯れあった後に向けてくれる、慈しみに満ちた眼差しが恋しい。
「……わたくしも、ウィル様と同じ想いですわ」
気づいてもらえないかな、と。そわそわしながら煌めく青空の瞳を見つめる。残念ながら、レティシアの想いにウィリアムが気づく気配はなく。肩が触れ合う距離で見下ろしてくる瞳は、甘さの欠片もない真剣なものだった。
「たったの一日で僕は状況についていけなくなってしまったけどね。モニカ嬢は君に対して随分と攻撃的だし、侍女が口裏合わせに付き合っていたり、母上の対応が何かとおかしかったり……おかしなことでいっぱいだ」
「えぇと……」
「僕の知らない事情があったりする?」
ウィリアムが不審を抱くのは当たり前。だが、レティシアもよくわかっていない。わかっているのは、モニカの姿勢だけなのだ。
「モニカ様はわたくしから婚約者の座を奪いたいようで……。昨日から、ちょっとした駆け引きをしているのです」
苛め抜いてやると宣言されました、なんて言ったらひどく心配させると思ったから、表現を変えてみる。考え込むような沈黙の後、ウィリアムがかくりと首を傾げた。
「母上は、モニカ嬢を黙認している?」
「黙認といいますか……わたくしに対応を一任してくださっているといいますか……」
「……もしかして、侍女がモニカ嬢の肩を持つのは今回が初めてじゃない?」
「まぁ……」
曖昧なレティシアの苦笑で、だいたいの背景は察したらしい。ウィリアムが深々とため息を吐き出した。
「母上の命令なのか……。どうりで……」
「先ほどウィル様もご覧になった通り、アデライン様にはこれまで同様にとても良くしていただいております。きっと、わたくしを試しておいでなのだと……。王宮内での悪意を上手くやり過ごすのも、王太子妃には必要な素質ですもの。見極めるために課せられた試練とでもいいますか……」
「だからって、あんな……。モニカ嬢のやり口は度が過ぎたものだよ」
眉をひそめるウィリアムに、ふわりと微笑みかける。
「心配なさらないでください。滞在中、わたくしが付け入る隙を与えなければいいだけのお話ですから」
先ほど、その付け入る隙を与えてしまったけれど。されたら困ることを警戒してはいたが、窃盗の濡れ衣というのは想定外だった。
育ちのいい令嬢だからとみくびっていたのはある。だが、想定していなかった何よりの要因は、あの方法が諸刃の剣だからだ。成功すれば一気に王手。だが、レティシアが上手く躱してモニカの狂言だと証明した時、後々、彼女が失うものは大きい。せっかく宮女が手を貸してくれるのだから、もっと安全圏から手を講じた方が賢いと思うのだ。
「そういえば……モニカ様のブローチは、ウィル様が回収してくださったのですか?」
「うん。レティの部屋に入るところを見られないよう注意してこっそり確かめて欲しいって頼んでおいた。生真面目なレナードのことだから、きっとバルコニーから侵入したんだろうね。頃合いを見て、モニカ嬢の部屋に戻しておくよ」
「まぁ……」
寡黙なウィリアムの従者レナードは、暗部出身で身の回りの世話だけでなく護衛の役目も担っている。夜闇に紛れてレティシアの部屋に忍び込むことなど造作もないだろう。
「今回はウィル様のお手を煩わせてしまいましたが……二度と同じ過ちは繰り返しません。わたくしを信じて、今しばらく見守ってくださいませんか?」
不安そうな瞳をじっと覗き込む。
「その言い方は、狡くないかな……」
学園でのいざこざではレティシアをたっぷりと甘やかしたウィリアムだから、渋るかと思ったのだけれど。彼は拍子抜けするほどあっさりと引き下がった。
「王太子の権力が必要になったら、いつでも言ってね」
「ウィル様のお力添えが必要な時は、お言葉に甘えさせていただきます」
にっこり微笑めば、ウィリアムも柔らかな笑みを返してくれる。微笑み合っていたのはほんの数秒。立ち上がった彼が、レティシアに向けて手を差し伸べた。
「もう遅いし、部屋まで送るよ」
「もう、ですか……?」
咄嗟に口をついて出た言葉に、レティシアはハッとする。
「失礼しました。お疲れのウィル様をこれ以上拘束するのは、よくありませんね」
最小限の会話で終わってしまって寂しいのが本音だったから、送ってくれるという言葉には甘えさせてもらおうと、彼の手を取って立ち上がる。そこまでは、自然な流れだったのに。いざ手のひらを重ねると、ウィリアムは微動だにしなかった。
「ウィル様?」
大きく首を捻ったレティシアを見つめる彼は、弱ったように微苦笑する。
「レティはもうちょっと、危機感を持とうね?」
「危機感、ですか?」
――ウィリアムが一緒なのに?
わずかに身を屈めたウィリアムが耳元でそうだよ、と囁き、重ねた手を離したかと思うと、レティシアの身体を抱き上げた。突然の浮遊感に目を白黒させているあいだに、ゆっくりとソファに下ろされる。
退室を促したのはウィリアムなのに、またソファに座ることとなって、レティシアの頭の中は疑問符でいっぱいだ。
ふっと影が落ちる。背もたれに手を置き、身を乗り出したウィリアムの指先がそっとレティシアの頬に伸びてくる。壊れ物でも扱うような慎重さで、優しい手のひらがレティシアを上向かせる。
間近から覗き込んでくる青空の瞳にちろりと灯る色は、初めて目にするもの。甘やかなのにどこか苛烈で、直視したら火傷どころではなく、溶けてしまいそうな――。
「自制のために事務的な話に持って行ったんだけどな。この時間に男の部屋に二人きりなんて、色々と危ないと思わない?」
「……わたくしは今、ものすごくウィル様に甘えたい気分なのですが……それでも、危機感を持つべきでしょうか?」
ウィリアムが言っているのはたぶん、こういう意味で合っている――はず。
男性にしては長く繊細なまつ毛が震え、綺麗な顔にはっきりと苦笑が浮かんだ。
「レティって」
身を離したウィリアムが、彼にしては雑な動作で隣に腰を下ろす。
「やっぱり天然で悪女だよね」
「えっ?」
婚約者に甘えたいという話が、どうして悪女になるのだ。
「さっきは嬉しかったレティからの信頼が、今はちょっと恨めしいな……」
「えぇ、と?」
すぐ側で、ウィリアムが気の抜けた笑みを浮かべた。
「レティが言う甘えたいって、こういう意味だよね?」
肩を引き寄せられたレティシアは、あっという間に彼の腕に包まれる。いつもと違ってコルセットをつけていないから、ちょっとだけ心許ないけれど。それでもやはり、危機感なんてとんでもない。回された腕の優しさは、レティシアに安心感を与えてくれるものだ。
頰をすり寄せると、ふわりと石鹸のいい匂いがした。甘過ぎない柑橘系の爽やかな香りにあれ、と気づく。
「……石鹸」
「え?」
「わたくしの浴室に置いてある石鹸は、ウィル様がお使いの物とご一緒だったのですね。香りがお揃いだと、今気づきました」
同じ王宮で生活しているのだと改めて実感して、なんだかくすぐったくなる。
「……お願いだから、無防備なのは僕の前だけにしてね……」
石鹸が一緒ですね、という話がどうして無防備うんぬんの話になるのだろう。不思議に思いつつ、見上げた先にある瞳が切実だったので、レティシアはきちんと抗議することにした。
「先ほどから、誤解があるように思うのです」
「誤解?」
「わたくしは、ウィル様にされて嫌なことなど一つもありません。ウィル様を信頼しているから、無防備でいられるのですよ?」
ご心配は杞憂です、と微笑めば。ウィリアムが頭痛を堪えるように額に手を当てた。
「……悪女を通り越して悪魔みたいなことを言い始めたね……」
「どうしてそうなるのですか!? わたくしはウィル様の可愛い婚約者のはずです!」
「可愛くて無垢だから、罪深いよね」
頰の熱を冷ますように、横を向いたウィリアムが深々と吐息を吐き出す。あんまりにも悩ましげな様子だったので、レティシアはだんだん不安になってきた。
「わたくし、ウィル様を困らせてしまいましたか……?」
よくわからないけれど、婚約者殿が困っていることだけは伝わってきた。
「んー、そうだね。ものすごく困ってる……けど。二年後くらいには、たぶん僕がレティを困らせているだろうから。ちょうどいいのかもしれないね」
「……わたくしが、ウィル様に困らされるのですか?」
「たぶんね」
仄かな笑みを湛えたウィリアムが、レティシアの額に自らのそれをコツン、と当てた。
「……もったいないから、今はこの距離で我慢するよ」
「十分過ぎるほどに近いと思うのですけれど……」
吐息がかかるほどの距離なのに。
「……やっぱり、天性の悪女だったね」
レティシアの肩口に顔をうずめたウィリアムのぼやきは、とても心外なものだった。




