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――ハンガリア領を囲う前門の外壁。わたしはヴァイスくんに抱かれ、その上に降り立った。
そして。オーブライト領との境目になる、丘の斜面を見やると――、
「なによ、あれ……!」
そこには、十万を超える兵士たちがいた。
全速力に近しい速度で、ハンガリアの首都へと向かってきていた……!
「どういうことよ。『地獄狼』の兵数って、一万人そこらじゃなかったの……!? それになによりっ」
魔眼系の異能を持つがゆえ、わたしは視力がいい。
だからこそ望遠鏡を使わずとも判ってしまった。
兵士たちの纏った装備。表面に刻まれた狼の爪撃のようなマークは、『地獄狼』の所属であることを示す刻印だ。
だけど元は……。刻印の下に描かれていた太陽の紋様は、間違いなく、
「隣国――ラグタイム公国のものじゃないのッ!?」
瞬間、カツンっ、と。何かが石畳に落ちる音がした。
「――なんなのだ、この光景は……」
ラグタイムの王子、シャキールくんだ。
いつの間にかわたしの側にやってきていた彼は、瞠目し震えながら、望遠鏡を取り落としていた。
「なッ、なぜだっ! なぜ我の同胞が、『地獄狼』に与しているッ!?」
死にそうな表情で彼は叫んだ。
こんなのは初めてだ。シャキールくんは常に偉そうで、それでいて冷静沈着だった。
認めたくはないけれど……為政者の先輩として、彼の余裕を感じる佇まいは、憧れるところがあった。
そんな彼が。今は瞳孔を震わせて、遠方の光景に絶望していた。
「よもや……兵士たちが裏切ったのか……!? あの悍ましき傭兵結社に、魂を売り渡したのか……?」
愕然とするシャキールくん。背後に控えた従者が「王子っ、どうか冷静に!」と諫めるが、まるで耳には入っていない様子だった。
「シャキールくん……」
わたしに言えることはない。だからどうすべきかと悩んだ時――不意に、パシンッ、と。
シャキールくんの頬から乾いた音が響いた。
「ぬっ、ぁ……?」
「――落ち着け、シャキールよ」
ヴァイスくんだ。彼が前に出て、褐色の王子の頬を、容赦なくビンタしたのだ。
「重ねて言うぞ。落ち着け、シャキール」
「ヴァイス……しかし」
「よく見てみろ。あの軍勢の異様さを」
ヴァイスくんは望遠鏡を拾い上げ、シャキールくんに手渡した。
よく見てみろ。その言葉に戸惑う褐色の王子。国を裏切った兵士たちを見るなど、心にくる拷問だろう。
それでも意を決したように、やがて彼は眼前の親友に従った。
わたしもまた異能を全開にし、超人化した瞳で遠方を見る。
すると――、
「むぅっ!?」
「っ、なんてこと……」
詳細が見えた。見えて、しまった。
よく見れば兵士たちは――死んでいたのだ。
「なんて、むごい」
元々が褐色肌の民族。それゆえに気付くのが遅れた。
彼らの表皮は今や渇き、劣化し、穴が開き、そこから羽虫があふれ出していた。
眼球すらも爛れ落ち、明らかにもう死んでいる。それなのに……ッ、
『アァッ――アァアァアァァァッ……!』
呻きの大合唱を謳い、ラグタイム兵はこちらに走り続けていた。
道中で転んでも。それで足がぼろりと腐れ落ちても。彼らは苦しみ喘ぎながら、進撃を続けていた。
「ヴァイスくん……あれは……」
「ああ、何らかの異能で操られているのだろう。……そういえば聞いたことがある。遠方の『ルクレール聖国』には、死体を弄ぶ能力を持つ元王子がいると」
「元、王子?」
「ああ。凄惨な罪の数々を犯し、罪人として廃嫡。王族としての席と名を失ったらしい」
罪人となってからの名を――『おぞましきエルザフラン』という。
そうヴァイスくんは、怒りに耐えるような表情で教えてくれた。
「……おそらくはその男が『地獄狼』に属しているのだろう。ゆえに、その者を討てば」
「――我が兵士たちは、眠れるのだな?」
シャキールくんが口を開いた。
当初は取り乱し、そして兵士たちの有り様を知った後には、絶句していた彼。
だけど、その顔付きは決意に満ちたものとなっていた。
見つけたのだ。最後の王族として、これより、何をすべきかを。
「よくわかった。我が、そのエルザフランを討とう。そして兵士らを鎮めてみせる」
「……危険だぞ、シャキールよ」
猛る王子を、ヴァイスくんが咎める。
「噂ではその男、少女の死体で自身の身体を構築し、実質的な不死身を得ているという。そんなバケモノをどうやって」
「任せろ」
シャキールくんは強く言いきる。
決して、怒りで冷静さを欠いているわけじゃない。
何かしらの勝機を確信している表情だ。
「レイテよ。これより始まる大戦、総大将はそなただ」
「……ええ、そうね」
こればっかりは逃げられない。
――たとえわたしが領民だけを傷付けるのが大好きな平和的極悪令嬢でも、戦争を仕掛けられたのなら、全力で迎え撃ってやる。
「民衆を集めよ。前に立て。迫る脅威と、対する指針を伝えるがよい。その上で――」
シャキールくんは、片膝をついた。
そしてわたしを強く見上げる。
「このシャキールに命じるがよい。〝敵将が一翼を討ってこい〟とな」
「当然よ」
尊大で偉そうで、あまり戦えるとは思えない王子様。
だけど本人が勝つ気なら、わたしはその背を押すだけよ。
さぁ、
「開戦の儀を始めましょう。王子様たち、この極悪令嬢についてきなさい」
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