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安息の住処

 あなたが傍にいるだけで、こんなにも幸せを感じてしまう。


 あなたが笑顔を向けてくれるだけで、こんなにも暖かくなってしまう。


 違うと分かっているのに


 傷つけていると分かっているのに


 愚かしい事だと知っているのに


 私は嬉しくて


 私は哀しくて


 それでも、これしか……


 あなたと、好きな人達と、『あの人』を救いたかった皆の想いを掬う方法は無い。


 背反した感情を抑えつけながら微笑みを向ける。



 ごめんなさい


 ごめんなさい


 ごめんなさい



 あの時のように抱きしめる事は出来ません。


 あなたの苦しみを軽くも出来ません。

 



 そうしている内に……あなたがまた一歩、『あの人』に近づいた気がした。










 †




 幾多の傷が走った身体、さらりとした灰色の髪を三つ編みに括り、眉を寄せて街を巡回する少女。

 その隣を歩くのはおしゃれな服を着こなし、茶髪を同じく三つ編みに括って、エビの尻尾のように愛らしく跳ねさせる少女。

 普段なら此処にもう一人いるのが華琳の治める街での日常であるのだが、その最後の一人は特殊な業務の為に今は居ない。


「ふぁぁ……やっぱりこの街が一番なのー」


 のんびりと言葉を宙に溶かしたのは茶髪の少女于禁――――真名を沙和という。

 大きなあくびをしながらも周りを気にして両手を添える仕草からは、やはり女の子なのだなという感じが見て取れる。


「沙和、帰ってきた途端にそんな気の抜けた様子では警備隊としてダメだと思う」


 目を瞑り、厳しくも優しく諌めたのは灰髪の少女楽進――――真名を凪。

 袁家の策略によって方々へと戦に赴いていた彼女達であったが、数奇な事に、帰還したのはほぼ同時期であった。

 戦後処理業務から数日後、自分達の隊の兵達に幾日かの休息を言い渡し、しかし彼女達はそれだけが業務では無いのでこうして街に繰り出している。

 平時に於ける彼女達の仕事は街を守護する警備隊。

 劉備軍の治めていた平原で扱われていた区画警備隊、それを参考に華琳と桂花が独自に昇華させたモノの隊長達である。

 凪は東区、沙和は西区、ここにいない少女――――真桜は中央区の担当である。

 ただ、真桜だけは他にも工作兵を扱う為に、新しい兵器や新規の絡繰りの開発に時間も取られ、彼女達二人が中央区まで手を回す事が多い。

 そして真桜がいつもの如く工房に籠った為に、今日は二人で中央区の巡回をしている真っ最中であった。


「ぶー。戦が終わったのに厳しい顔のまんまじゃ街の人達も心配になっちゃうの」

「……でもわたし達が居なかった事で緩くなり過ぎてるかもしれない」

「むむむ……」


 互いに意見を言い合い、どちらも一理ある為に引くことは無く、厳しく見つめ合う二人であったが、


「えへへ、じゃあ沙和が緩くして、凪ちゃんが引き締めたら丁度いいの♪」


 ふんわりと笑った沙和によって凪も思わず微笑み、二人の間の空気も直ぐに緩くなった。

 数瞬、ハッと気づいて直ぐにキリと表情を引き締める凪。その慌てた様子に耐えきれず、沙和はおかしそうに笑いだす。


「あははっ♪ 沙和の勝ちー♪」

「う……。ふふ、やっぱり沙和には勝てないな」


 苦笑を零す凪であったが、彼女の張りつめた心は柔らかく、もう厳しい空気になろうとしてもなれなかった。 

 沙和の独特のペースに巻き込まれてしまうと、凪はいつもこうして砕かれてしまう。

 フンス、と自慢げに胸を張りながら歩く親友を見つめながら、凄いな、と凪は尊敬の色を瞳に浮かばせた。

 生来の生真面目さから、自然と周りが近付き難い雰囲気を作り出してしまう凪ではあるが、沙和が隣に居てくれるだけでそれも打ち消される。真桜にしても、傍にいるだけでその軽い気質から巻き込んでいく。

 凪の中身を知った人であれば、優しい心を理解している為に何の警戒も無く近づく。しかし警備隊隊長をしている以上は、街に出て人と触れ合う機会も多い為に、初対面の人は彼女の作る雰囲気と、身体に走る傷跡から怯える事が多い。

 ありがたい、といつも感じていた。自分が持っていないモノを持っている少女達が隣に居てくれる事を。

 

 真桜に対しても思う所はあるが、凪にとって沙和は憧れの対象。可愛らしい仕草、精一杯、心より女の子としての自分を楽しんでいる彼女に、嫉妬や羨望では無く憧憬を向けていた。

 ただ、凪はそうなりたいとは思っていない。

 彼女は守りたいのだ。自分が傷つこうとも、女としての自分をかなぐり捨ててでも、誰かを守り抜きたい。

 同じ村からの付き合いである二人を守りたくて武に身を窶し、傷だらけになりながらも力を得てきた。今は彼女達と共に、多くの人を守りたくて此処にいる。

 だから、彼女は沙和に憧れるも、そうなりたいとは思わず、必ず守り抜こうと意思を高めていく。

 今回も同じように、親友である沙和の凄さを知って、グッと拳を見えない所で握りしめた。


「そういえば……凪ちゃんも徐晃さんが記憶を失った事は聞いたの?」


 ふと、歩きながら零された言葉に、凪は一寸だけ思考に空白が齎された。

 既に主からソレは聞いていた。帰って来てから戦後処理業務に取り掛かる前に。

 客分として仕える事になった彼は記憶を消失している、と。


「……っ……ああ、聞いた」


 ギリと歯を噛みしめ、その隙間から漏らしたような声音は……怒り。

 哀しそうに見つめる沙和は、その先の言葉を聞かず、自分から何かを直ぐに紡ごうともしなかった。


――なんで……あの人が壊れなければならなかった。


 沙和に向けていたモノとは同一でありながら方向性の違うモノが溢れ出す。


 彼女は彼に憧れていた。それは羨望に近い。


 元より忠義溢れる武人の在り方に重きを置いていた彼女ではあったが、何よりその根幹には誰かを守りたいという想いを携えていたが為に。

 そうやって戦い続けてきた彼女にとって、一番の指標を彼に見ていたのだ。

 初めはその冷徹なやり方に納得出来なかった。

 彼は彼女の目の前で、昨日まで同じ釜の飯を喰らっていた仲間を切り殺せと言ったのだ。優しい気質の彼女がソレを止めないわけが無い。

 そんな凪に対して、あの時の彼は鋭い怒りを向けて理を説いた。

 よく考えても納得出来ず、華琳に報告した時も不満を全面に押し出した……が、華琳はそれを聞いて楽しげに笑った。

 その時は主に対してさえ不信感が沸き立つも、それを為さなかった場合に何が起こるかを細部まで説かれて……凪は衝撃を受けた。

 最後に華琳が言ったのはこんな言葉。


『凪、理解したなら心に刻み付けなさい。感情のままに一つの命を助ける事で、自分の守りたいモノさえ殺してしまい、為したい事さえ失わせる事もあるのよ』


 小を切り捨てて大を取る……では無い。

 守り抜きたいモノを殺させない為に誰かを殺す。それは戦の論理と同じ、そして自分の為したい事の末路と相似であった。

 時と場合によりけり。規律の在り方は一律では無い為に、日常に於いては安易に殺すなどは有り得ない。されども戦時、さらに幾多の事柄が絡み合ったあの時だけは、彼の選択は一つの答えであり、華琳に対しては最良。

 それからの彼女は思考を止める事無く、悩みながら親友たちとも相談して、心と規律の両立を重んじた。沙和や真桜に和まされ砕かれながらも警備隊を出来る限り律して、彼女達それぞれの色はあれども、警備隊を『曹操軍とほぼ同じモノ』に仕上げてきた。

 自身の甘さを見つめなおした一件の後には反董卓連合、そして洛陽のあの出来事である。

 羨望を向けないわけがない。

 飛将軍に瀕死の重傷を負わされて尚、彼は少数の部隊だけで民を救うために戦場を駆けた。曹操軍が協力しなければ、孫策軍が同意しなければ、敵のど真ん中でどうなるのかも分かっていたはずなのに。

 誰かを守りたいと願う彼女は、己が身を引き摺ってでも誰かの為に動く彼が、自分の行き着く姿であると感じた。

 だから彼女は彼が記憶を失った事を聞いて、曹操軍の中でも華琳の次くらいにショックを受けていた。

 此処に客分として所属する、と戦中に聞いた時は歓喜に震え、同じように肩を並べて誰かを救うために戦えるのだから、男ながら春蘭とさえ戦える彼のように、自分ももっと強くなろうと気持ちを高めてさえいた。

 兵の扱いにしても、平原を手に入れてからは徐晃隊という絶対服従の特殊な部隊を手足のように扱うようになり、対袁術軍の戦で遂に大きな働きを見せたと聞いて、その技術を盗みたいとも思っていた。

 話して、学んで、師事して……いろいろなモノを吸収して行こうと思っていたのだ。

 しかし現状は……不器用な自分ではどう接していいかも分からず、期待に膨らんでいた心の反動と、臣下である彼を信じ抜かなかったモノへの苛立ちで怒りが心に溢れていた。

 ずっと隣で過ごしてきた沙和は、凪が彼に憧れている事も理解しており、その心を汲み取って幾分かは話しかけず沈黙の時が続く。

 沙和がどうにか空気を変えたいと思った矢先、凪が先に口を開いた。


「今のあの人も……変わらないのだろうか」


 ため息を一つ落とした。

 目指した人であって欲しいと願い、沙和を見つめる瞳は不安を宿している。

 ふっと優しく微笑んだ沙和は、凪の頭を撫でた。


「ちょっ……沙和――――」

「会う前に悩まないで会ってから悩めばいいだけなの。それに、凪ちゃんは凪ちゃんのままで進めばいいの」


 楽天的で曖昧な意見に茫然と見つめること数瞬。凪はふっと口元を緩める。

 沙和は憧れを知った上で、自分らしくあればいいと伝えていた。

 彼がどのようなモノであれ、凪の在り方は変わらないのだから、そのままの自分の想いを胸に突き進め……と。


「……ありがとう。うん……わたしはわたしのままで、皆の為に戦うだけ、か」


 憧れは胸の内に、されども自分のままで。

 凪はまた、親友に感謝した。何処か自分は、求めすぎる事で視野が狭まっていたのだと自覚して。

 想いの在り方を決めるのは自分自身。だから彼女は狂信しておらず、これからも堕ちる事は無い。

 彼の身体のように想いを共有する事は無く、彼女だけの確たる光として想いを胸に宿していた。親友二人が彼女を支え、見守ってくれる両の柱であるからこそ、凪は自分だけの願いの為に戦える。


「ふふ、沙和の好きな優しい凪ちゃんのまんまなの。じゃあ今日は夕方に練兵場で鍛錬してるらしいから会いに行ってみるの! 武で語らえば分かり合えるって春蘭様も言ってたの!」

「今日!? しかもあの人と戦えって!?」


 いきなりの提案に思わず素っ頓狂な声を返すも、沙和のにこにこした笑顔は変わらない。

 春蘭の言である。当てになる方がどうかしてると思うのだが、沙和は本気でそう思っているらしかった。

 確かに自分の武の腕を確かめてみたいと思う気持ちもあった。彼の戦い方は体術と剣戟。体術は凪の戦い方の勉強にもなる。

 武で語り合う、というのは霞や春蘭のやり方。

 凪としては真面目に話すだけでいいのだ……が、話せそうにない自分に気付いてそれもありかもしれないと感じてしまう。

 しかしどうにも煮え切らなかった。


「めんどくさい事務仕事も終わったし善は急げなの♪」

「いや……まだ心の準備が……」

「ふふ、それじゃ恋する乙女みたいなのー♪」

「ここ、こいっ!?」


 凪は即座に顔を茹で上げ、思考がぐるぐるとまわり続ける。

 にやにやと笑いの種類を変えた沙和を見て漸く、彼女の思考は正常に回り出した。


「ちがっ……違う! わたしはただ純粋に――――」

「あ! あの服すっごくかわいいのー!」


 言い終わらぬ内に、とててっと駆けて行った沙和。警備中ではあっても彼女がおしゃれを忘れるはずも無く、また空気がうやむやにされてしまった。

 茫然とその背を見やる事数瞬、凪は大きくため息を吐いた。


――そんな浮ついた感情じゃ無い。季衣が春蘭様に憧れているように、流琉が秋蘭様を目指しているように、追いつき認めて貰いたい人がいるだけなんだ。


 あの時、彼は確かに落胆を浮かべていたから。成長した自分を認めて貰いたかった、というのも彼女の内にある一つ。

 ふるふると頭を振るった凪は、瞳を子供の様に輝かせて服を見ている沙和に近付いて行き、厳しく聡してからまた連れ立って歩き出す。



 そんな二人の変わらない普段通りの何気ないやり取りが、街の民からの信頼を強くしているというのは、彼女達も気付いていない優しい事実。

 そして街の警備隊の様子から、秋斗の二人に対する評価がかなり高いのも、まだ知らない。





 †






 夕暮れの斜陽は大地を橙に照らし出す。

 行き交う人々もまばらになり始めるこの時間帯は何処か寂しい。平和な一日で終われたのだ、だから本来は嬉しく思う所であるのだが……活気溢れる街が好きな沙和としてはやはり寂しく思ってしまう。


――夜も皆で元気に遊べたらいいのにー


 叶うはずも無いその願いは宙に消える。

 遠い目をして、てくてくと歩く二人は無言。隣を見ると、凪は緊張からかカチコチと堅い動作で、表情は何時にも増して厳しい。

 警備隊の仕事を終え、練兵場に向かう途中である。

 秋斗がこの一月関わった為に幾分か良さげな改良点が追加されていて、彼女達二人はそれの確認もしていた為に予定より少し遅くなった。まあ、街の子供達から秋斗の情報を聞いている途中に、遊びに引き摺りこまれたのも理由の一つではあるが。

 どうにか緊張を解きほぐしたいと願う沙和。しかし掛ける言葉が思い浮かばない。

 そうこうしている内に練兵場に付き、二つの人影が見えた。

 大きな体躯にすらりと長い手足。振っている剣は長く、長い時間鍛錬をしていたのか甚大な汗を滴らせている。

 その近くには、上品に手を重ねて姿勢よく、優しく微笑みながら、飽きる事無く鍛錬の様子を見ている白銀の髪を流した侍女。

 直ぐに気付いた秋斗はピタリと剣を止め、それを見た月は近づいてくる二人を不思議そうに見つめた。


「徐晃さんと月ちゃん、こんにちはー、なの! 沙和は于禁って言うのー♪」

「お、おひっ、お久しぶりで……い、いやっ、はじ、初めまして? 楽進、です」


 瞬間、秋斗は盛大に吹き出した。


「くっ、あははっ! なんでそんなに噛み噛みなんだよ」


 言われると、凪は恥ずかしさから顔をみるみる内に茹で上げ俯く。

 沙和は凪の様子が可愛らしくて、手を口に当ててクスクスと笑った。

 傍に置いていた桶の中、濡れた手ぬぐいを手に取って差し出した月は、ジトリ……と秋斗に非難の目を向ける。


「あー、ごめん。いきなり笑うなんてさすがに失礼だった。えーっと、警備隊西区隊長の于禁殿、そんで東区隊長の楽進殿、だな。警備隊の野郎どもからいい上司だって聞いてるよ。知ってると思うが俺は徐晃、徐公明だ。楽進殿、笑って済まないな」


 苦笑を零してから、秋斗は柔らかに謝る。


「いえ。構いません。月も久しぶり」

「お久しぶりです、凪さん、沙和さん」


 月とはあの交渉の後、ほんの短い時間出会っており、真名を交換してある為に互いに顔見知りである。沙和は月の救出時の現場に関わっていたので、董卓の真実を聞いて驚愕していたのはお察しである。

 微笑みを向けられ、沙和は同じように笑みを向ける。

 滴る汗を拭っていた秋斗は和んだ空気から穏やかな声を紡いだ。


「なんでわざわざ練兵場に?」


 不思議そうに尋ねる秋斗に対して、二人は一寸だけ逡巡した。

 沙和は凪にコクリと頷き、凪も、意を決したように拳を固めた。


「徐晃殿、わたしと……勝負して頂けませんか?」

「勝負? コレでか?」


 ひょいと自分の剣を持ちあげ、訝しげに眉を寄せる秋斗。その瞳には若干の怯えが見て取れた。


「は、はい。そう、です」


 それを読み取ってしまったが故に、凪は言葉に詰まる。


――もう、前のあの人では無いんだ。


 凪は明確に実感した。

 自分の憧れた徐公明では無い、と。怯えなど無かったはずなのに。

 分かり易く表情に出た凪であったが、どうしようかと考える為に俯いて、目を離していた秋斗はそれに気付かず……ゆっくりと瞳が冷たく凍って行く。


「いいよ、勝負しよう。俺がどれだけ戦えるかも確かめておきたかったんだ。一人でする鍛錬じゃあ出来る事も限られてくるからな」


 渦巻く瞳の色は黒一色。感情は揺れ動いていない。怯えも消えた。

 どうして切り替えられたのか秋斗には分からない。しかし何故か、酷く懐かしく、まるで戦う事が安らぎであるかのように感じた。


 ただ……誰かに止められたような気がして、哀しみも少し湧いた。


 あの時怒ってくれた“彼女”は、今ここに居ない。

 誰も、彼の変化に気付くことは無かった。


 ぐっと幾多の感情を押し込めた凪は、キッと戦う意思を見せている秋斗を力強い瞳で見据えた。


「では徐々に力を上げて行きます。不慣れな武器では扱いづらいと思いますので抜き身で構いません。危なくなったら沙和が止めてくれます」


 コクリと頷いた秋斗と幾分かの距離を取り、沙和と月もその場から離れる。

 ふと心に湧いてきた不安から、月は心配そうに彼を見つめるも、


「月ちゃん大丈夫なの。凪ちゃんは無茶なんてしないの」


 柔らかく笑う沙和に宥められ、ほっと息を一つついた。

 それでも、もやもやと渦巻く心の不安は軽くならなかった。


 ジリ、と互いに地を踏みしめる音が鳴り、幾分かの静寂を切り裂いて、二人はほぼ同時に駆けだした。






 †






 春蘭様と試合をしている所は、黄巾の時に何度か見た事があった。

 記憶を失っているから、彼は他の動きもするやもしれないと警戒していたがそんな事も無く、わたしの知っている不規則な動きを以って戦っていた。

 片刃の長剣は目付けをしっかりと行えば槍と同様で懐に入りやすい。しかし彼には体術がある。

 剣を躱して懐に入り拳を叩きこもうとしても……合わせるように膝を打ち上げて弾かれたり、腕ですり抜けたようにいなされる。

 どうして剣を振りながらここまで出来るのか。

 戦ってみて再確認した。彼は春蘭様と違い、理合いで戦う人なのだ。

 数手先を予測し、組み立て、追い詰め、追い込む。

 計算を駆使して行われるその武は美しく、他者から見れば舞っているように見える。

 関羽との試合も見たことがあった。

 それは正しく武であり舞。一つの芸術品のような戦いは、全ての武人を魅了してしまうモノ。実力伯仲にして理合いで戦う者同士が築き上げる最高の舞台。

 わたしでは……悔しい事にそれは作れない。

 手甲でいなし弾く姿は武骨で味気なく、他者を魅了することなど出来はしない。

 拳や脚で叩き伏せる様は美しいとは言い難い。

 でも、友達はこの戦い方を好きだと言ってくれた。

 泥臭くても、必死で戦っている姿が、守ってくれていると感じさせてくれると言ってくれた。

 だから否やは無い。ないの……だが、こんなに悔しい。

 心の底から湧き上がる感情は悔しいと伝えていた。

 もう既に、試合としての本気を出して戦い始めた。だというのに、彼には一つとして攻撃を当てられていない事実が、こんなにも悔しい。

 記憶を失っているのは関係ないようで、体術に於いてはやはり自分より上。知っているはずの不可測の動きに着いて行けず、こちらが代わりに打撃を喰らう始末。

 読めないのだ。彼の動きが、彼の次の動作が、彼が次に何を狙っているのかも。

 がむしゃらに攻めても柳に風。計算して攻めても読み通りとばかりに追撃を食らう。


「そうか……俺はこのくらい戦えるのか」


 淡々と、余裕のある一声だった。わたしを苛立たせる程に。

 心底から湧き上がる悔しさは轟々と燃え上がる。だから試合だという事も忘れて、わたしは戦のように殺気を叩きつけてしまった。


 次には氣弾を放ってやろう。わたしの本気を見せよう。そう、心に決めた。


 瞬間、彼が飛びのいた。その瞳は昏く、暗く、落ち込んで行く。彼からも殺気が膨れ上がり、口元が徐々に引き裂かれていく。


――なんて……嬉しそうなんだ。


 ソレはエモノを見つけた獣のよう。わたしはなにか異質なモノを呼んでしまった気がした。


――でも、ほっとしたように、安住の地に辿り着いたように見えるのはどうしてだろう……


 わたしの背筋には寒気が起こる。反して高ぶる心は戦いたいと吠えていた。

 武人の性。守りたい心とは裏腹に溢れ出る、捨てようのない燃え滾る感情。強い者と戦いたいという想いは、抑え付けようも無かった。

 此処は彼の間合いの外。即座に攻撃が届くはずも無い。


 全身の氣を脚に収束させていく。ギシリと身体が警告の軋みを上げた。

 彼は肩の高さまで掲げた剣を水平に構え、その切っ先をわたしに向けた。


 見た事があるから知っている。アレは……間合いの外から俊足で放つ彼の得意技。近付かれた事すら春蘭様並でなければ分からない、必殺の一撃。

 わたしの技は見せた事が無いから知らないだろう。否、記憶を失っているのだから知らないのは当然。放たれるまで分からないから……きっと当てれる。


 受けてくれるらしい。直ぐにでも突撃してきそうだというのに、彼は自身を無理矢理抑え付けているように見えた。


 呼吸を整え、腹に力を込める。

 研ぎ澄まされた意識は彼の動きを見逃すまいと一つの槍の如く収束していく。初めて、世界が遅くなった気がした。

 そのまま、無意識の内に喉から裂帛の声を絞り出した。


「ハァァァッ!」


 脚を振り抜き氣弾が放たれた……まさにその直後、予測しておらずとも避ける動作に移った彼の表情が――――子供のような笑顔に変わったのが見えた。


「うおっ! あっぶねぇ!」


 本当にギリギリの所で彼はわたしの氣弾を避けた。

 後方へ抜けて練兵場の大地に激突した氣弾が爆ぜたのを見送り、お手上げと言ったように彼は降参を示す。先程の殺気など嘘のような緩い空気で、楽しそうに笑いながら。


「あはははは! すげぇ……すげぇよ楽進殿! 俺の負けだ! 脚に力込めてたから何かしてるなとは思ったけどあんなの放てるのか! さすがにアレ喰らったら汚い花火になっちまう! すっげぇ羨ましい! 良かったらアレを教えてくれ!」

「……え?」


 呆然。

 わたしは彼が何を言っているのか分からなかった。


「さっきのアレだよ! なんだアレ!? 手からも出せるのか!? 手からも出せるんだよな!?」


 早口で興奮気味に捲し立てる彼に、わたし含めて沙和も、月もぽかんと口を開けていた。

 漸く停止していた思考が回り出す。

 既に毒気が抜かれてしまった。悔しさも何も無くなった。彼が子供のようにはしゃぐのを見ていると、心底どうでも良くなったのだ。


「はあ……一応手からも出せるとは思いますが……」

「よっしゃあああ! 最っ高だな! じゃあこういう構えで放てるか!?」


 彼は両手を腰の辺りに持って行って珠を包むような構えを取り、手に包んだモノを飛ばすような動作をした。

 言われた通りに私は構えて、少し疲れるけど掌に少量の氣を集中させて……放ってみたらぼんやりと丸い氣弾が飛んで行った。


「おおぉぉ! やばいやばいやばい! なんでもアリだなこのせか……コホン。うん、とにかくやばいな!」


 宝物を見つけた子供のような笑顔だった。純粋無垢で、夢を追いかける子供。

 そういえば、と思い至る。

 先程、警備隊の連中から、彼が関わったと聞いたから詳細を確認すると、子供達に聞いた方が速いとはぐらかされた。

 子供達に聞けば、同じように遊べる人だという。悪戯を一緒に計画したり、子供にからかわれて本気でへこんだりと……精神年齢が子供なのかもしれない。

 正直、前の彼とは似ても似つかない。さっきの試合での彼ともかけ離れすぎている。

 でも……嫌いにはなれない。

 きっとこれが今の徐晃殿、いや、素の徐晃殿なのだろう。あの悪戯が大好きな店長の友だったのだから。


「ってなわけで、教えて欲しいんだが……」


 尚もそこに拘る彼は、やはり子供に思えた。

 この笑顔を曇らせるのは……少々忍びないが、現実は教えなければいけない。


「その……氣弾は特殊でして通常の人には放てないんです。わたしの場合も何年も修行をして、さらには氣の体外放出の素質があったから手に入れられただけで……ほぼ無理かと」


 愕然と、この世の終わりのような絶望の表情で彼は地に膝を付いた。


「ちくしょう……っ! そうだよな……簡単に出来るわけないよな……男のロマン、だもんな……」


 ぶつぶつと呟いている彼を見ていると。どうしてこうまでも哀しくなるのだろう。

 空を飛べると信じている子供を楼閣の上から突き落として、飛べない事を教えたような……そんな気分だった。


「だ、大丈夫です。男の人でもそこまで武力が高いのは凄く特殊ですから、出来るようになるかもしれませんよ?」

「そ、そうなの! 凪ちゃんみたいに何年も修行して、ちょーっと死に掛けるくらいの無茶をしたら……きっと出来るようになるの!」


 それでも出来なかったらどうするんだ、と頭を掠めたがさすがに言えない。

 しかし下手な希望を持たせて徒労だったと知れば、来る絶望は予測できない程だろうに。

 ただ、彼は直ぐに二人に笑いかけた。目を燦々と輝かせて。


「うん……そうだ。ロマンは諦めないからこそロマンだった! ありがとう二人共。なら楽進殿、修行は集中しないとダメだし、時間が掛かるだろうから乱世が終わった時にでも……クク、『俺』に教えてくれ」


 何故か間で言葉が止まった。

 自嘲のような笑みを零した彼は一寸何を迷ったのだろうか。わたしには分からなかった。

 月の表情が一寸だけ翳った気がしたが、そちらを見ると、いつものように柔らかく微笑んでくれる。

 問題なさそうだから気にせず、そのまま返答を行おう。


「分かりました。約束します。ではその代わりに乱世の間に体術の稽古をつけて貰えませんか?」

「体術?」

「はい、武器を使いながらはわたしの戦い方ではありません。しかし体運び一つだけだとしても取り込んでみたいと思うんです」

「あー……じゃあ時間のある時に組み手でもしよう。自分の動きに問題が無いように盗んでくれ。教えるの下手なんだ」

「構いません。よろしくお願いします」


 そう言って手を差し出すと、照れながらも握ってくれた。

 多分、武については、というのが付く。見た事も無い動きなので我流で間違いないから、下手に教えてわたしの型を崩してしまう事を気にしてくれたんだ。

 教えるのが下手なわけが無い。警備隊の向上も問題なく行えて、子供達に対しても新しい遊び方を分かり易く説明出来るほどなのだから。


「じゃあ沙和も徐晃さんに一つお願いするのー」


 突然何を言い出すのかと思って沙和を見ると、いつもと変わらない優しい笑み……ながらも、大売出しを見極める女の目をしていた。


「何かな?」

「風ちゃんから羅馬とか大陸の外の事も知ってるって聞いたの。だから……外の国の可愛い服を教えて欲しいなーって」


 がっくりと、自然と肩が落ち、ため息が漏れ出る。

 自分のように武の向上を目指すのか、とも少しは思ったが、案の定というか彼女はおしゃれの事を考えていた。

 この分だと真桜の方も新しい絡繰りの開発を手伝って欲しいとか言いそうだ。いや、徐晃殿が今のお願い受けたら、沙和が真桜にそれを話すから確定だろう。


「……うーん。それも時間がある時になるなぁ」

「全っ然構わないの!」

「じゃあそれで」

「ありがとなのー♪」


 歓喜のままに小躍りしてから、沙和も同じように握手を交わした。


「ま、ゆえゆえと同じで、楽進殿や于禁殿みたいな可愛い女の子なら何着ても似合うだろうし問題ないか」

「へうっ」

「なっ」

「おおー……」


 続けられた彼の発言に、三人共が驚愕に包まれる。

 可愛いなどと……男の人がそんな軽く言う言葉では無いはずだ。

 なのになんでも無い事のように言って、お世辞には思えないような声音で、真っ直ぐわたしと沙和を交互に見据える瞳に嘘はなかった。

 褒められたのが恥ずかしくてわたしの顔には熱が徐々に昇ってくる。自分が可愛くなんかないのは分かってるのに……告げられた言葉は捨てているはずの女の自分を擽る。


――だって……男の人に……か、可愛いなんて言われたのは初めて、だから。


 誤魔化すように隣を見ると月は耳まで赤く染めていた。沙和は……楽しそうな笑みを浮かべた。


「徐晃さんって結構……むふふ」

「どうした? なんかおかしいこと言ったか?」

「なんでも無ーい♪ あははっ、これからきっと楽しくなるなーって思っただけなの」


 訂正しよう。意地の悪い笑みだった。

 彼は不思議そうに首を傾げるだけ。鈍感、と聞いたがまさかここまでとは……。

 このままでは沙和と彼の作る雰囲気に流されてグダグダと時間を浪費してしまう気がする。

 それもいいかもしれない、と感じてしまっている自分に気付き、わたしはため息を一つ落として、空気を切り替える事に決めた。


「徐晃殿、これからこの軍で共に戦う身として、よろしくお願いします」

「あ、沙和も。これからよろしくなのー」

「おう、二人共よろしくな」


 どうにか沙和も乗ってくれたので、ほっと一息。


 それから彼は鍛錬をするというので、沙和は不服そうにしていたが共に付き合い、暗くなる頃に私達は解散したのだった。

 前の彼が居ないというのは確かに落ち込んだ。だけど、どこか新鮮な出会いを嬉しく思っている自分も居た。

 気になるのは試合中に彼が変わった事だけだが、これからは沢山時間がある。ゆっくりと知って行こう。


 もう、わたし達は同じ軍で、華琳様の元で共に戦う軍人なのだから。















 †




 遣り合う前に溢れたのは吐き気のするような重圧と、心打ち震える安息。ほんの僅かな悲哀。


 引き摺るように、何かが心に引っかかった。


 しかしその安息を求めてしまった。




 殺気、というモノを初めて受けた。


 身を突き刺すようなソレは自身の何かを壊した。


 あの時……『待っていた』と誰かが脳髄で囁いた気がした。


 爆発したのは暴力的な衝動とはかけ離れた感情、それは歓喜。


 向かい来る敵を、立ちふさがる敵を、自身の邪魔をする敵を、俺に誰かを救わせないようにする敵を……この手で切り払える事が嬉しく感じた。


 自分の力を明確に理解したから、抑え付ける事は……どうにか出来ていた。だからすぐに仕掛けず受けに回った。


 楽進が普通ではありえないモノを放ったから切り替えて誤魔化せたのもあるが。









 この想いは飼いならせる。


 自身の根幹にあったはずのモノが分かった為に。





 黒麒麟は……



 戦わないと

 人を救わないと

 世界を変えている事を実感していないと



 壊れちまう程に脆かった。そういうこと、だな。





読んで頂きありがとうございます。


凪ちゃん、沙和ちゃんとの出会いはこんな感じで。

忠犬じゃない凪ちゃんって難しいです。彼が戻れば忠犬になりそうな予感。



主人公大はしゃぎ、といっても切り替わりありですが。

ただ、男なら誰でも、凪ちゃんの技を知ればアレを打ちたくなるのは止められないかと。



次も準備回です。詠ちゃんの話とか、です。真桜ちゃんはもう少し後で。


ではまた

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