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火燃ゆる都に月は沈む


 決戦に向かった皆を見送り自分は城壁の上にて戦場の全てを見ていた。

 前日に連合が取ってきた威圧策はまだこれだけの数と戦わなければならないのかという思考に兵達を陥らせ、士気を見る間に挫いて行った。

 まだ兵の準備が完全には出来ていない状態で流されて戦う訳には行かなかったから今日を選んだが、それは失敗だった。

 開幕に袁紹軍を狙ったのは一番脆い部隊だったから。

 本来なら曹操軍を狙いたかったが、ねねから虎牢関での戦いぶりを聞くと狙うに狙えなかった。

 呂布隊という自分が見てきた限りでは最強の軍に押し込まれてはいたがどこか曹操の狙い通りなように感じたらしい。

 そう聞くと飛将軍がいるから問題無い等と早計な判断はできはしない。恋が抑えられたら全てが終わってしまうのだから。

 では劉備軍はどうか、と彼女らに聞いた時、一番に反対したのは恋で、霞も難色を示していた。

 二人に理由を聞くと恋はただ首を振って答えず、霞はあの軍と戦うとその後が厳しいと答えた。

 決戦での不確定要素との衝突はなるべく避けるべき。

「呂布隊なら蹂躙は出来るのですがその後曹操軍と事を構えると負ける可能性が高いのです」

 と言ってねねは最終的に反対した。

 孫策軍は連続して攻めていたが将の層が袁紹軍よりも厚く、連戦しているのに士気が全く衰えず、むしろ高くなっているように見えたので結局狙えず。

 そうなると残されたのは袁紹軍のみだった。

 総大将の軍であるならば少しは動揺を与えられるかもしれないと甘い見通しもしてしまった。

 決戦が開始されてまず予想外だったのは各軍が乱れもなく瞬時に動いた事。

 欲によって足を引っ張り合い、飛将軍の先頭突撃による威嚇で足並みが揃う訳ないと踏んでいたが全くそんなことはなく、全軍の動きは流れるように包囲網を組んで行った。

 広い包囲網は兵達の体力と気力を奪い、中を縦横無尽に駆け回る将達によってじわじわと数を減らされて行った。

 城壁沿いにねねが突破しようと試みるも袁紹軍の兵による肉壁で足が止まり、その後に曹操軍と孫策軍の接近によって潰されてしまった。

 恋はと言うと、将を狙うよう伝えたが完全に逃げの一手を打たれ思うように蹴散らせず、中に侵入を試みようとする部隊を迎撃させるしかなかった。

 飛び出した霞は最初こそ勢いがあったが公孫賛と馬超の騎馬隊の突入で足止めされてしまった。

「くっ、こんなに上手く連携が取れるなんて……」

 連合はただの寄せ集めではなく、統率の取れたひとつの軍に等しくみえる。

 シ水関や虎牢関での押し付け合いを聞いていたから連携などできるモノではないと思い込んでしまった自分の失態。

 兵達は死に物狂いで戦ってくれているが何か他に手を打たなければもう時間の問題になってしまう。

 逸る思考に没頭していると周りの兵達がざわめき出した。

「賈駆様! ら、洛陽から煙が!」

 その言葉に振り返るとあちこちで煙が細く立ち上っている。

 何故だ。戦況はまだ……厳しいが確定していない。

 しかもボク自身が月の元に行くときに屋敷に火をと指示を出したはずだったのに。

 まさか……弱気に走った者が裏切ったか。いや違う。これはボク達を貶めるための策略。

「慌てるな! 各部隊長に通達! 城壁内一割の兵は火消しに回れ! 急げ!」

 即座に動いてはくれたものの、走り出す前に見えた困惑と焦りの混じった顔を思うと自分の指示をちゃんと完遂してくれるか信用しきれない。

 この決戦で勝てたとしても洛陽の民から反感を買ってしまっては自分たちはここにはいられない。

 迅速に火災に対処し、尚且つこの戦にも勝利しなければいけなくなってしまったからこその指示。

「何が起こってるんだ!?」

「洛陽内に敵が入ってきたのか!?」

「俺達はどうすればいいんだ!」

「こんな状況、負けじゃないか!」

 待機している間も洛陽での長い戦闘により不満が溜まり士気が下がっていた兵達は混乱の渦に呑みこまれ始めていた。

 部隊長達が黙らせようとするがその場に漂う空気は払拭しきる事など出来ない。

「落ち着け!」

 自分も同じように何度も声を上げ、兵達を宥めようとするが近くにいる兵達しか言う事を聞かずそこかしこで統率が乱れ、ついに逃げ出す兵が表れだした。一人が逃げれば続いて二人、三人と。

 それぞれの小隊の長が止めに入るがそれでも混乱は収まらない。逃げる兵を捕まえて留めようとしても反撃され、さらに混乱が広がっていく。切れてしまった糸はもう元には戻らなかった。

 集団の心理掌握は出来ない。これでは兵の補充はままならず、すぐに敵が洛陽内に入ってきてしまう。

 敗色に染まった軍はもはや烏合の衆ですらなく……ついに仲間同士での殺し合いにまで発展し始めた。

 暴動が起こり、軍が変貌を遂げる。董卓が悪と言った連合の言のままに見えるだろう。

 霞がいれば、恋がいれば……その圧倒的武力で兵達の心を掌握しきれただろう。

 ねね操る呂布隊がいれば……乱れの無い統率によって暴動など起こる事も無かっただろう。

 しかしここには力も無く、シ水関にも虎牢関にも向かわなかった自分がいるだけ。

 兵の掌握の為の時間は政務と政略に捉われ、信頼も薄くなってしまった自分だけ。

 連合に対抗するために急遽集めた新兵も多く混じってしまったのも理由の一つだろう。

「賈駆様、お逃げください!」

 近衛兵達が暴動を止めに向かう中、一人の兵士が自分に向かって言い、その言葉にはっとする。

 今ボクのするべき事はなんだ?

 この状況では自分達の敗北が確定してしまったも同然。外の戦いも直に収束に向かうだろう。

 月の所に向かわないと……。

「ごめん……」

 必死の形相で自分に向かい来ようとする元軍兵を止める兵士に聞こえるかも分からない呟きを一つ漏らし、月の隠れている所に向けて走り出す。

 そうしてボクは戦場を逃げ出す卑怯者になった。


 †


 戦況は厳しく、しかしまだ続けられる状態だというのに煙が見えた。

 上がっている場所は予定の場所ではなく、その数は十を超える。

 思考を高速で回転させ予測を立てると一つの絶望に行き着いた。心が怒りに燃え、悔しさにのた打ち回り、それでも思考をどうにか繋ぐ。

 自分達が助けに行くか。それともこの戦場を離脱するか。

 城内にて逃げ場がなくなれば自分達はどうなる。敵兵がこぞって押しかけ、その場で乱戦になってしまうと洛陽の街はどうなる。民にも被害が増えるだけだ。

 今は、こうなってしまったら……彼女達を信じるしかない。

「呂布隊、飛将軍に集え!」

 自分の命令に隊の皆は応の一声と共にそれぞれ自分の掲げる将に向かい駆けだす。

 自分は愛する人と友を天秤にかけた。

 その上で何がなんでも逃げ切ると言った彼女の言を信じる事にした。

 六対一でも戦っている飛将軍に呂布隊が突っ込んで行く。

 近づく呂布隊を見て敵将達が即座に離れて大きな距離を取った。

「恋殿、逃げるのです。連合の非情な策によりもはや戦に勝ちは無く、城内に助けに行ったとてねね達も危ういのです。詠を……信じましょうぞ。」

 こちらの言葉を聞いた彼女は絶望を瞳に宿らせ、いやいやと首を横に振る。

「聞き分けてくだされ! 自分も皆も、死んでしまっては意味がないのですよ!」

 大きな声でそう言うと愛する人は口を横に結び必死に耐えながらも考えている。

「……ねね……逃げる」

 慄く唇から漏れ出たのは苦渋の選択。涙を必死に堪えながら血を吐くように紡がれた。

「了解なのです。連合を出来る限り蹴散らして去るのですよ」

 自分達にできるのはこれくらい。

「……霞は――――」

「霞は敵本陣に向かったかと。こちらは逆側を狙うのです。神速の張遼は助けよりも共に戦ってくれる事を願うのですから」

 霞なら大丈夫だ。うまく逃げ切れる。あちらのほうが将も薄いし兵も少ないのだからこちらのほうを優先したい。

「……わかった。呂布隊、蹴散らせ」

 全てを呑みこむような返答は空気を轟かせ敵兵を恐怖に染め上げる。

 そして修羅の軍は蹂躙を開始した。

 どうか皆が無事で再会できることを願って兵達と共に進んで行く。


 †


 あの人は朱里ちゃんには自分の考えの全てを話さなかった。

 連合の策で洛陽に火が上がるというもう一つの可能性の話を。

 自分達が悪を為す手伝いをしていたと知った桃香様や愛紗さん、朱里ちゃんの善に凝り固まった思想が崩れてしまい、どんな状態になるかある程度予想が着くからこそ。

 正義と信じて疑わなかった彼女達は責任を持ってしまった事で自分達が正義であるという前提が崩壊すると理想を迷ってしまう。

 その程度なんだというのか、予想される策の全てを話さない事は間違っている、と言われるだろう。

 だが私達の軍にとっては恐ろしい事態になる。

 正義がこちらになく、知らなかったとはいえ自分の都合で理不尽を行ってしまった。

 あの人は再三こちらに忠告していたのにそれを見ない振りをして貫き通してしまった。

 秋斗さんが最初から参加を渋っていたのはこの事態になる事を避けたかったから。もしくはそれを知って尚進む覚悟を持ってほしかったから。

 掲げた理想は敵が善だった時点で脆くも崩れ去る。桃香様達はその時自身の矛盾に潰れてしまう。

 一番酷いのは……耐えたとしても秋斗さんと桃香様が真っ向から対立してしまう事。全てを話した上で彼は殺した善人の屍を越えて進めと言ってしまう。いや、言わざるをえない。あの人の目指す先には絶対に必要な事だから。

 二人は一度対立してしまうともう共にはいられない。無理に共に居ても軍が瓦解する要因となってしまうし、戦を終えて帰ってから時間が経つと平原の民に不安や猜疑心が芽生えてしまう。

 だからこそ秋斗さんは言葉を呑みこんで耐え、桃香様の成長を助けている。自分自身が悪を肯定して桃香様の理想を守っている。

 騙していると言われればそうだ。しかし戦の最中の今、話してしまう事ではない。

 だけど私にだけは話してくれた。

 私は桃香様達と比べてどうか。

 敵が善だろうと悪だろうと力を行使する事に違いはないと割り切ってしまっている。乱世を上り詰める為に必要な事だと覚悟が出来ている。どれほど敵が民から慕われていようとも治世の平穏のためならば踏み台にすることを躊躇ったりしない。

 心が痛もうとも、涙が溢れようとも。

 秋斗さんがずっと予防線を張ってくれていたから、虎牢関の後にあの人自身の願いを教えてくれたから、あの人の願いの為に戦いたいと思ったから潰れなかった。

 今までの世界の継続ではまた乱世が来てしまう事を理解した私は世界を変える手助けをする事を心に誓った。

 私だけに真実の可能性を指摘してくれたのは頼ってくれたからだ。本当の意味で平穏のために並び立って戦っていける相手だと認めてくれた。

 話さないのは覚悟を決めた軍師の私に失礼だ、と彼は言ってくれた。

 その上で自分はどうするべきが最善かと聞いてきた。

 先に反対した。乱世を上るのに不可欠な行動ではあるし語った参加理由を示す為に必要だが矛盾してでも耐えるべきだと。

 ここで無茶を行うことで徐公明という劉備軍にとっての支柱を万が一にも失うようなことはあってはならない。何よりあの人自身の願いを潰えさせるわけにはいかなかった。

 返された言葉は否。

 自身の命を賭ける事で桃香様が乱世を抜けて行く為に心の予防線を張る。誰か将を失う、犠牲にする、見捨てる覚悟を持たせる、と。

 王の理を無理やり叩き込む。そんな方法だった。

 自身の言葉に責任を持たせ、尚且つそれに同意した彼自身の責任も果たすということ。

 ここまでしなければならない。そうしなければ乱世に綺麗事を語る道化のままで叩き潰されるだけだから、と。

 そして多分、言ってくれなかったがもう一つ理由がある。

 それは真逆の事柄。自分達が耐えて他を見捨てる覚悟を持たせる事。

 王は自国の民を犠牲にしてまで他国を助けてはいけない。仁に溢れる桃香様にそれを行わせる、もしくは行わせた後に心が潰れないように予備の心構えを与えようとしている。

「あなたはどうしてそこまで桃香様に拘るんですか」

 そう聞きたかったが聞けなかった。聞いてしまうと彼が壊れてしまう気がして。

 代わりに必ず生きて帰って来てと私は願った。彼は一言、謝罪ではなくありがとうと感謝の言葉を返した。

 朱里ちゃんに話した後、桃香様から了承の意を聞いて長く戦場を見やる私達の視界に煙が映った。

 どうか起こらないでと願った事態は無情にもやって来る。

 私は一番手薄で抜けやすい、敵将が抜けると予想された箇所を指し示した。

「じゃあ行ってくる」

 笑顔で告げる彼にあるのは私への心遣いともう一つ。


 あの人は――――戦場に安らぎを感じてしまっていた。


 †


 朱里からの伝令によって民達の危険を知った。

 兵に指示を出しながらも思考を巡らせ秋斗殿の事を考える。

 彼は無茶ばかりしたがる。まるで自分の命を投げ打つかのように戦場に使い捨てようとする。

 将ならばそれはあり得る状態だ。黄巾の時に夏候惇殿から曹操軍で起こった出来事を教えて頂いたから。

 しかし今回のような場合は違う。

 自分が一番適しているから

 他に誰も手が空いていないから

 自分達の参加理由のためだから

 私は間近で聞いていたとしても止めなかっただろう。桃香様の全てを守るために必要な事だから。将としては当然で、人としては最低だが。

 彼の事は信頼しているし、どうしようもない人だが、認めている。背中を預ける事に迷いは無く、共に理想のために戦ってくれる同志だと思っている。

 しかし……秋斗殿は私達と違う。根本的に、決定的に、はっきりとそう断定できる。

 自分の頭では今それが何かは分からない。

 この戦が終わったら……少し話してみよう。


 †


 雛里の指示通り戦場を駆けると、張遼が袁紹軍に向かった所にぽっかりと穴が出来ていた。

 その場には白蓮が居たが今はそちらを見もせずに全速力で横切る。

 傷が疼くがそのようなモノは無視し、まばらに並ぶ敵兵を斬り倒し、追随する隊は押し広げる事もせずただ鋭く、突きだされた槍の如く戦場を駆け抜けて行く。

 心に浮かぶは焦燥……ではなく歓喜と悲哀だった。

 抑圧されていた自分の心は人を殺すことを喜んで、哀しんでいた。

 愛紗や鈴々が戦っているのに自分はただ見ているだけ。そんな自分の無力さが歯がゆくて、何もできない時間が心を蝕んでいた。

 生きている民を助けるために動けることが嬉しい。生きたいと望んでいた兵を殺すことが哀しい。

 綯い交ぜになった心の内側とは裏腹に思考は戦いのみに集約されていく。

 今はただ戦場で戦い、先の事は考えなくていい。それが自分にとって一番の安息だった。

 門に近づくに連れて敵は増えたが何故か統率が全く取れていない。

 目の前にいるのはただの烏合の衆。兵同士で動きが噛み合わず足を引っ張り合っている。

 そのような部隊は自分達にとってはただの木偶でしかなく、簡単に突破する事ができる。

 被害も軽微で城門まで到達し、愛馬月光の腹を蹴り、スピードを上げて兵の壁を突き破った。

 抜けると目に移ったのは阿鼻叫喚の地獄絵図。

 董卓軍は味方同士で殺し合い、街ではそこかしこで轟々と火が上がっており、民は逃げ惑い、逃げる兵とぶつかり怪我をする者も、殺される者も見えた。

 もはやこれは戦ではない。自分の中で何かが弾けそうになったが、それを堪えて代わりに声を出す。

「偃月!」

 自分が発した短い一言で、追随していた徐晃隊は戸惑いと恐怖に支配さればらばらと乱れ立っている敵を半月型に押し広げる。その間に大きな声で命を下す。

「第二部隊、洛陽内にて民を襲っているか、お前たちに歯向かう董卓軍を制圧しろ! 武器を捨てた者は放っておけ! 火は消せるなら出来る限り消せ! それと民を傷つける事は許さん! 一人でも多く助けろ! 突撃して抜けた後三人一組で散開!」

「応!」

 兵ですら無くなったモノ達への憎悪に燃える徐晃隊の、重く叩きつけられるような声に目の前の敵は怯えて腰が引けたようで、逃げ出すものがちらほらと見えた。

 二次被害を防ぐならば皆殺しが最善だが、桃香の先を考えると皆殺しには出来ない。例えそれが自分の兵も、民すらも危険に晒す事になろうと。矛盾に吐き気を堪えながら急ぎで次の指示を出す。

「副長は第一部隊と共に民の救援と……笛を使用し広い場所への逃げ惑う民の誘導も行え。誘導中に敵と判断した者は全て殺せ。第一の動きは全てお前の判断に任せる」

 散開するにしても随時指示を出してくれるだろう。

「御意に」

 俺の命令を聞いてすぐに近づく敵を蹴散らしながら去って行った。副長ならばやりきってくれる。徐晃隊だけでは危ういから城の制圧はいらない。

「残りはここで俺と共に戦う。城門前を広げろ」

 言葉を放つと同時に自分も飛び出す。

 長い剣の一振りで五人近く斬り飛んだ。

 痛む身体に鞭を打ち次々と並み居る兵をなぎ倒し、しばらくして敵兵に恐怖が染み込んだ所で後ろから別の隊が突入してきた。

 曹操軍の楽進、それに于禁か。

 彼女らは城門内の戦闘に突入するや否や兵に指示を出しこちらに向かい来た。

「徐晃殿、我ら曹操軍は多数を連れて参りました。私がここで抑えますのであなたと于禁は民の救出に向かって頂きたい」

 真っ直ぐに俺に向けられる目は怒りに燃えながらも冷静そのものだった。

 怪我をしている自分を気遣ったのか、それとも恩を売る為なのか。どちらもだろう。黄巾の時は甘さが残っていたが彼女も曹操に鍛え上げられている将だ。

「恩に着る。では任せた。徐晃隊、東側の救出に向かう! 俺に続け!」

 声高らかに返事をする兵達は走り出した俺に付き従う。

 一人でも多く民を救う為に。


 †


 気付かれないように、なるべく見つからないように人目を避けて月の隠れている場所に辿り着いた。

 何軒か先の民家には火が燃え移っていた。この隠れ家も火に包まれるのは時間の問題だろう。

 火消しを命じた兵達は案の条逃げ出したのか周りには見当たらず、それが哀しくも好都合ではあった。

 静かに侵入し扉を開き中の様子を確認すると幽鬼のように青ざめている月が居た。

「月……連合の策で洛陽が火に包まれた。ボク達は逃げないと――――」

「詠ちゃん。私はもう逃げない」

 自分の言葉を切って話されたのは否定だった。

 ゆっくりとこちらを見る目には覚悟の光が見てとれる。

「な……何を言っているのよ! そんなこと」

「私が悪を背負えば洛陽に住まう民の心の平穏が大きくなる。憎悪の対象が明確になればこの先安心して暮らしていける。だから……逃げないよ」

 死の覚悟を、自分の命を投げ打って民の心を助ける覚悟を決めたのか。

 責任を放棄することなく受け入れて、自分が生贄になる事を望んでいる。

 これではあの時と同じではないか。洛陽に向かったあの時と。

「私ね、詠ちゃん達が私を助ける話をしてるの聞いちゃったんだ。最初は一緒に逃げようと思ったけど、それじゃだめなんだ。最後まで守りきらないと」

 聞かれていた事に驚愕し、同時に胸に大きな痛みが走る。

 月はボク達の想いを知って尚、その責を果たそうとしている。そこにどれほどの苦悩と絶望があったのかは想像する事もできない。

 ああ、これでこそボクの大好きな、そして守りたい月だった。

 ボクはこの子を狭い籠に押し込めてしまっていた。この子のためじゃなくこの子に幸せに生きて欲しいという自分の願いのために。

 なんて浅ましいんだろう。なんて愚かなんだろう。

 でも……それでもやはり生きて欲しい。

 臣下として願うではなく、友として、家族として、そして……愛しているから。

「ごめんね詠ちゃん。私は友達の想いを、大切な人たちの想いを裏切る。私が……私として最後に出来る事だから。責任を果たさないと私は生きていけない、生きていちゃいけないの」

 王の理を話す顔に迷いは無く自暴自棄なわけではないのが見えた。

「ダメよ! 絶対に死なせない! 月が死ぬ事なんてない! 死んだと見せかければいいじゃない!」

 そうだ。実際に死ぬ事はなくても悪意が董卓という名に集まればいいだけだ。どうして分かってくれないの?

「ううん。それじゃだめ。人は見えもしないモノには半端な憎しみしか抱けない。私が表に出る事でそれは確かなモノになるから。だから詠ちゃんだけでも逃げて。私の分まで後の世で人を助け続けて」

 必死に懇願する顔は今にも泣き出しそうなほど。

 言い出したら梃子でも動かない頑固なところは昔からあった。

 もうこの子は覚悟を決めた。だから自分が何を言おうと聞きはしないだろう。

 勝手だ。自分は死のうとしているのにボクには助かれと言うなんて。

 本心の優しさから紡がれた言葉が胸に響き涙が零れる。頭を月がゆっくりと撫でつけてくれる。

「お別れを言いたかったから待ってたんだ。ごめんね、最後まで自分勝手で。それとありがとう。ずっと守ってくれて」

 柔らかく微笑む顔は夜空に浮かぶ月のように綺麗に、優しく輝いていた。

 その笑顔を見て自分も覚悟を決めた。

 すっと懐から太い針を取り出し、目を見開いて反応できない彼女の腕に刺した。

「っ! 詠ちゃん……何を……」

 少し経つと彼女からふっと力が抜けその体は床に向けて傾き、慌てて自分の両腕で抱き止めた。

「ごめんね。月。この先ずっとボクを憎んでくれていい。それでも――――」

 言葉の先は紡がずに拳を握り思考を巡らせる。

 ボクはこれで裏切り者になった。


 †


 その武は幾度の戦を越えて研ぎ澄まされたモノ。

 両者共に引かず、その長い戦闘は終わる事がないのではないかと思われた。

 神速の偃月刀と曹操軍の大剣は悉く弾き、弾かれる。

「張遼! 私相手にここまでやるとはさすがだな!」

 息を弾ませながら放たれる夏候惇の言葉に苦笑しながらも次の剣戟でもって応える。

 再度弾きあった所で自分は大きく距離を取り、戦場をちらと確認した。

 左前方には真紅の呂旗が袁術軍を蹂躙し、そろそろ戦場を離脱しようとしているのが見えた。

 自分の隊達は……荀彧操る曹操軍と袁紹軍の連携によって完全に抑えられていた。

 そして自分は――――

 もはや戦の勝敗は決した。そして自分自身が抜けられる事はもはやない。月と詠がうまく逃げ切れるかだけが心配だが信じるしかなかった。

 ならばどうするか。

 自分はどうしたいか。

 強者を求め、戦場で命を投げ出す事も厭わない。それも天命よと覚悟を決めている。

 目の前でただ主のために従い戦う夏候惇の姿が華雄にダブり、シ水関での言葉が甦り自分の心の内側を覗き込む。

 月の誇りを穢されて、最後まで戦えんで何が将や。

「惇ちゃん。最後に闘えるのがあんたでよかったわ。うちの欲も、誇りも、想いも、全部を掛けて戦えるんやから」

「ふはは! 最後とは言わず幾度となく掛かって来い! ……いやダメだ! お前は華琳様の元に来て貰う! それが華琳様の望みだからな!」

 自分で言っておいて自分で突っ込む夏候惇の支離滅裂な発言に思わず吹き出してしまう。

「……あはは! うちあんたのそういうバカなとこ好きやわ惇ちゃん。でもなぁ……友達との約束があるさかい他のとこには行けへん!」

「バカとはなんだ! くそぅ……ならば動けなくして引きずってでも連れて行く! 負けたらいう事を聞いて貰うぞ張遼!」

 そんな自分勝手な言葉を並べるところも華雄に被って見えてしまう。実力は夏候惇のほうがかなり上だが。

「姉者! 無事か!?」

 急に聞こえた声にその方を見やると、どうやら噂に聞く夏侯淵までもが来たようだ。

「おお秋蘭! こいつが言う事を聞かんからぎったぎたにしてから連れて行く! もう少し待っていてくれ!」

 自身に満ち溢れた声でさも当然のように彼女は妹に話す。

「そうか、ならば私は他の隊の援護をしよう。近くで待ってるぞ姉者」

 そう言って周りの敗走を始めたり、未だに戦っている兵を矢で次々と射抜いていく夏侯淵。

「なんや簡単に言ってくれるけど……うちかて負けるつもりあらへんで!」

 言い放って武器を構え直しあらん限りの闘気をぶつけると、夏候惇は不敵に笑い、喉を鳴らしながらこちらを強い眼光で見返してきた。

「くっくっ! それでこそ私も倒しがいがあるというものだ! さあ、来――――」

 その時……どこからか飛んできた流れ矢が夏候惇の左目を射抜いた。

「ぐっ!」

「姉者ぁぁぁ!」

 視線を蹲る夏候惇の方に向け、呻く彼女に近づいていく夏侯淵の声は絶望に染まっていた。

 振り返り、確認するが乱戦状態になっている戦場では矢を放った弓兵は見つけられなかった。

「くっそぉぉぉ! 誰じゃい! うちの一騎打ちに水差しおったド阿呆は! 出てこんかい! 叩っ斬ったる!」

 あまりの怒りに心が暴れる。ここで、夏候惇と心行くまで全力で戦い散ってこそ自分は満たされたのに。

 華雄の想いに、月の誇りに、殉じる事が出来たというのに。

 その戦いが穢された。

 夏候惇の負傷にそこかしこで曹操軍の兵達に動揺が走り始めていた。

「姉者! 気をしっかり持て! 姉者ぁ!」

「ぐっぅぉおあああああ!」

 大地を轟かせるかと思うほどの夏候惇の雄叫びに水を差した敵を探し当てるのを止めてそちらを見ると、驚くことに彼女は自分で目に刺さった矢を引き抜いた。

「夏候惇!?」

「天よ、地よ、そして全ての兵達よ! よく聴けぇい!」

 ググッと大地を踏みしめ立ち上がり左手で剣を天に突き刺し、傷から血が飛び散るのも気にせず大声で叫ぶ。

「我が精は父から! 我が血は母から頂いたもの! そして今はこの五体と魂は全て華琳様の為のモノ! 断りなく捨てる事も、失うわけにもいかぬ! 我が左の眼、永久に我と共にあり!」

 叫びきると同時に彼女は矢から眼球を口に運び、咀嚼し、嚥下した。

 その光景に鳥肌が立つがそれは武者震いにも似ていた。

 自分はこんな……こんな素晴らしい武人と戦えるのか。

「姉者……せめてこれを」

 差し出されたモノは蝶の形をした眼帯で、それを妹から受け取り着けた夏候惇はさして異常の無い動作で一振り剣を振るう。

「うむ。……待たせて悪かったな張遼よ。どうした? 震えているぞ?」

 何も問題は無いとばかりにこちらに言い放ち、にやりと口の端を吊り上げて不敵に笑う。

 その笑みが華雄とあまりに似ていたからか自分の頭の中で幻聴が聴こえた。


『クク、お前は自分を抑え過ぎだ。胸を張って自分の為に戦って私に会いに来い。その時は互いに一発ぶん殴ってから、酒を酌み交わそうではないか』


 ああ、そうやな華雄。うちらしくなかったよなぁ。月の好きな、あんたら皆が好きって言ってくれたうちやないと意味ないよなぁ。

「ええなあ……あんた最っ高や! もう全てどうでもええ! うちは今、あんたと戦うためにここにおる! あんたみたいな修羅を倒す為に戦うんや! さあ、始めよか! ぜーんぶ賭けて!」

「おう、張遼! 行くぞ!」

 そして、自分にとっての生涯最高の戦いが幕を開けた。


 †


 誰にも見つからないように街中を歩く。

 住民は避難に忙しいのかどこも人の気配が全くと言っていいほどなかった。

 それでも最大限警戒をしながら慎重に進む。火の上がっていない方の隠れ家へ。

 洛陽の街にいるのは危険だが。戦場に出てしまう方が危険だ。

 ごたごたで抜け出すには用意した民の服が良かったが、月は抜け目のない事に全て隠してしまっていた。

 火が回る時間を考えると探していると間に合わないと判断して仕方なく置いてあった自分の予備に着替えさせて外に出た。

 隠れてやり過ごすのはまず出来ない。落ち着いた頃に抜け出すか、それともどこかに保護を申し出るか。

 保護をしてもらえそうなのは……偽善の塊の劉備軍か温厚そうな公孫賛軍だけだ。

 他は信用できない。袁家はまず無理、孫策や曹操には疑われるのが目に見えているし、馬超軍には顔を見られている可能性がある。

 しかし劉備軍は避けたい。華雄の件もあるし何より掲げるモノが受け付けない。

 こちらの現状も知らず嘘の情報に踊らされ綺麗事で流されるように参加を決め、正義を語って現実を見ようともしない。

 そんな所に少しでも関わるのは吐き気がした。

 何故檄文が飛ばされてすぐにこちらに適当な理由をつけてでも挨拶に来なかった。

 噂の真偽を確かめる為に使者を送ればよかったのに。

 公孫賛は劉備と違う。あれは幽州を守る事が第一目的だから袁家からの侵略の理由づけを防ぐための参加だと容易に想像できる。

 その理由に……ボク達がなってもいいのか。またボク達が誰かを巻き込んでいいんだろうか。

 罪悪感からの思考に捉われ心が落ち込んで行く。

 その時後ろから強い衝撃が襲い前のめりに倒れた。

「っ! ……何!?」

 月は衝撃と同時に投げ出され、振り返るとそこにはにやにやと笑う男二人。

「……」

 無言でこちらを見やる目には得物を見つけた肉食獣の如き獰猛な輝きが光っている。

「へへ……お前……賈駆だな? もう一人は知らねえなぁ。仲が良かった文官ってとこか」

 いやらしい笑みを携えながら下卑た声で自分にゆっくりと近づきながら話す。

 火を放ったのはこいつらか。

 悲鳴を上げようとしたが口に手を入れられて身体が抑え込まれる。

「おっと、どうせここらにはもう誰もいねえが連合の奴らが来たらやっかいだ。おい、隔離場所に連れてくぞ」

 精一杯もがいて抵抗するが力の無い自分はその腕から逃げ出せるわけも無い。

「ああ? こんな上玉すぐに連れてくのはもったいねぇよ。俺らが見つけたんだから最初くらいいいだろうが」

 二人が話す内容は自分達がこれからされる事を表していた。

 獣の欲望に蹂躙され、その後に生贄にされるという事。

「――――――っ!」

「ああ! うぜぇ! 静かにしやがれ!」

 怒号と共に地面に引き倒され衝撃で頭を打った。

 視界が霞み、思考が上手く回らない。

「ふう……まあそっちのだったらいいから楽しんでから来いよ。手早くな、殺してもいいぞ。俺は先に行くわ」

 言うが早く自分は脇に抱えられる。

 待って、ダメ、月は、月だけは止めて。

 叫ぼうとしても声が出ずに口だけが無駄にパクパクと動いた。

「ふひひ、そうこなくっちゃよ! 誰もいねぇ民家に連れ込めばいいしな!」

 自分達は……どうしてこんなにも運が無いのだろうか。

 自分達が何をした。愛する人と仲間と共にただ幸せに生きていたかっただけなのに。

「――――――なの!」

 絶望に包まれ、堕ちて行く意識の隅に、甲高い女の声が聞こえた気がした。




 通路を通っていく最中に逃げ出す民が視界に映る。

 その脇には民のモノとは思えない服装をした少女が抱えられていた。

 急ぎで追いかけ始めるともう一人同じような格好をした少女を抱えた者が飛び出してきた。

 瞬間の判断で足払いをかけて転ばせる。

「徐晃さん! ここは任せてもう一人を追ってほしいの!」

 横道を抜けてきつつ放たれた于禁のその言葉を聞き、頷きもせずに最初に見た相手を追いかけはじめていた徐晃隊の後を追って走り出す。

 徐晃隊を抜き去ったが敵も意外と足が速く、さらに入り組んだ路地を右往左往するため中々追いつききれなかった。

 走りながら考える。

 民ならば于禁が追いかけろとは言わない。俺達連合の兵を見て逃げる事もないはずだ。つまり獣に堕ちたモノなわけだな。

 その時相手は突然抱えていた少女を投げ捨て、先ほどより速く逃げ出した。放っておくわけにもいかず近づいて確認するがどうやら少女は気絶しているらしい。

 もう逃げた相手の姿は見えず、そこでようやく疑問が起こる。

 何故今までこの抱えていた少女を放さなかったんだ?

 少女の服装を確認すると文官がよく着ているモノに似ていた。

 思考が頭の中で弾け、一つの過程が思い浮かんだ。

 急いで自分の羽織を掛け、その服を覆い隠して抱き上げる。

 遅れてやってきた徐晃隊に于禁がその後どうしたか確認を取ると、他の徐晃隊が民の救援場所まで連れて行くと言い、それに従ってもう一人の子もこちらに渡してくれたらしい。

 転ばせた奴も上手く逃げたらしく追いかけたが捕まえられなかったとのこと。

「その子は救援場所まで連れて行くな。姿が他の目に触れないようにし、戦の様子を見て劉備軍本陣まで連行しろ」

 俺の真剣な表情に事の重大さを見たのか報告を行ってくれた兵は短く返事を返し全速力で駆けて行った。

 于禁が気付かなくてよかった。

 二人の内どちらかが賈駆だ。さっきの奴らは獣ではなく火を放った奴等だな。生贄のために董卓と賈駆を探していたんだろう。

 それで仲間の軍師か文官かを連れて逃げている途中の賈駆を見つけ連行しようとしたわけか。

 あいつらが最後まで放そうとしなかったこの子のほうが賈駆である確立は高いな。

 そう考えながら銀髪の少女の頭を少し撫でつけた。



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