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優艶なる王達の茶会にて



 陽だまりの下、穏やかな午後はお茶とお菓子を添えて優雅に贅沢に。

 数多の知識の数々を参考に作られた茶器は二つの螺旋を揺らす覇王のお気に入り。

 カチャリ……慎ましやかに鳴った音が、彼女の上品さを際立てる要因の一つに相成って、完成された所作を見れば、それがこの特殊な茶器での作法なのだろうと見たモノは判断してしまう。


「……“紅茶”、とあいつは言ってたかしら?」

「はい。異国の茶葉を取り寄せるのには苦労しました。普通のお茶とは淹れ方も異なりますが、どうにか人に出せるカタチになったかと」

「ふふ、苦労を掛けるわね、店長」

「いえいえ、未だ知らぬ味を求めるのは料理人の本懐。どうぞ、気兼ねなくお茶請けと一緒に召し上がってください。紅茶に合いそうなモノを作って来ましたので」


 店長の笑みは幸せに溢れていた。

 こうして味の分かる人を相手に料理を振る舞う時間は、彼の欲求をこの上なく満たす。

 ちら、と彼は目を他に向けた。華琳の前に座る豪著な金髪を巻いた一人は、僅かに顔を強張らせて恐る恐る茶器に手を伸ばした。

 心を決めた彼女――麗羽が、華琳に倣って静かに、優雅に紅茶を口に運んだ。

 さすがというべきか、彼女の動きは見る者を魅了する程に礼儀正しく、やはり三公を輩出しただけはあるとその所作を見て華琳も内心だけで褒める。


 一口。唇を濡らす程度に留めた。しかしそれだけで、高級品を堪能しつくしたと言っても過言ではない元袁家の当主は、ほう……と感嘆の吐息を吐き出して僅かに呆ける。

 ハッと気づいた頃に華琳からいじわる気な視線を向けられて、気恥ずかしさから麗羽は少し耳を赤らめた。


「……上品なお味ですわね」

「気に入って頂けましたか?」

「ええ、とても」

「それは重畳。覇王様と袁麗羽様のお墨付きとあれば作り手冥利に尽きます」


 すっと手を追って一礼をする店長は、褒められたことが嬉しいと子供のような笑顔を見せた。


「店長、お菓子の説明を」

「承知しました。では右から……“らすく”、“すこぉん”、“しふぉんけぇき”となっております。甘さを控えめにすることで紅茶をより楽しめるように作らせて頂きました」

「ふむ……」


 見た事のないお菓子の数々。やはり未知のモノを見ると胸がときめく。

 興味深く眺めていた華琳は、幾分でやっと手に取り……


「では、頂きましょう」


 軽くラスクを齧ってまた紅茶を一口飲んだ。

 控えめで上品なその味に、華琳も麗羽もほうと甘い吐息を吐き出す。


「さすがね。紅茶との相性を考えた抜群の味付け、食感も焼き加減も申し分ないし、このお菓子なら宮廷で振る舞ってもいいくらいよ」

「ええ、ええ……なんと言ったらよいのでしょう。これほど優雅なお茶の時間というのは経験したことがありませんわ」

「ふふ、麗羽。そういうときはこう言ってあげるのよ。店長……“すごくおいしい”わ」


 暖かい微笑みを向けた華琳。

 にっこりと笑みを返す店長は腕を曲げ、彼に習った一礼の仕方でお辞儀を一つ。


「……感謝の極み」


 華琳のお礼と、店長の返しはここ最近ではこのように行われている。娘娘の中であれば、そしてそこに通っている者達からすれば見慣れた光景。

 しかし完成された芸術品のような空間は、麗羽の胸にときめきを齎す。自身の知らない世界を覗いたような、お伽噺に出てくる物語に自分も迷い込んだような、そんな感覚が彼女を歓喜に震えさせた。


「て、店長、さん? その……とても、おいしかったですわ」

「恐悦至極にございます、“まどもあぜる”」


 不思議な響きの呼び方が店長から零れた。

 甘くて暖かく感じるその響きに、麗羽の心もまた一寸跳ねる。

 華琳は初めて聞いたその言葉の意味が分からず、僅かに眉を寄せた。


「“まどもあぜる”?」

「未婚の女性に対する敬称、とのこと。余り詳しくは知らないと“あの方”も言ってましたが、響きがいいので偶に使ってます。特に袁麗羽様にお似合いかと思いまして」

「まぁ……わたくしの為に呼んで下さったんですの?」

「雰囲気というか纏う空気と言いますか……覇王様の品位も確かなのですけども、呼びたいなと思わせる気品を貴女に感じまして」

「……ふぅん、そう……麗羽には似合う、ね」


 ジトリ、と店長を見据える華琳の瞳が冷たく輝く。麗羽だけというのが気に喰わないと、誰が見ても明らかだった。


「おや? ご機嫌が悪いようで。せっかく“らすく”に乗せて楽しむ果物漬けも持ってきたのですが……出せませんね」

「……私を相手に脅しなんて……あなたといい“あの男”といい、本当にやりにくい」

「脅しとは恐れ多い。まあ、私の科白でもあるのですよ。私も“あの方”も、あなたを相手取るのは必死ですから」

「……だからこそ面白いのだけれど」


 これ以上は無駄だと、ため息を一つ。覇王曹孟徳相手に此処までふてぶてしく接するのは店長の他にはもう一人しかいない。

 どちらも男。華琳や麗羽としては取るに足らない存在と思っていた存在である。

 上から目線なわけではない。あくまで二人の男は彼女達と同じ土俵に立って話を持ちかけてくるのだ。


 店長は料理人としての好敵手。そして覇王と共に利を追及せんとする商売人。

 では秋斗は……と考える前に、華琳の話を全く気にせず、麗羽が不思議そうに口を開く。


「まどもあぜる、というのは秋斗さんが御教えになられたのですわよね?」

「はい」

「何処の言葉なのか知りたいですわ」

「大陸の外、とあの方は言っておりましたよ。絹の道を遥か西、羅馬よりも少し先、葡萄のお酒と芸術に目を惹かれる国らしいです」

「羅馬よりも西、ですの……」


 行った事もないが途方もない距離だ。麗羽は思う。

 絹の道から来る珍しい品々の美しさを思えば、なるほど、そういった国があるのだろうと直ぐに予測出来た……が、さすがに遠すぎた。

 それでも、と彼女の瞳に光る憧憬の輝きは、まるで恋する少女の如く。


「いつか行ってみたいですわね」

「いいわね、新しい世代が育ったなら……ふふ、行ってみたらいいじゃない」


 途端、ぎょっと目を開いた麗羽は華琳を見やる。

 楽しそうに笑みを深めた覇王は、ぺろりと唇を一つ舐めた。


「長くて短い人生の中で何かをしたいと望むなら、それを諦めてはダメよ。手が届くかもしれないなら掴むべきでしょう?」

「いえ……まさか貴女からそんな言葉が出るとは思いませんでしたので」

「当然、自分が決めた責務は全うしてこそよ? でもたった一度きりの人生だもの、どうしてもしたいのなら欲しがっていい。その為に努力することは悪いことじゃないわ。国にとっても、あなたにとっても、皆にとってもね」


 言い切り、しゃなりと華琳が立ち上がる。

 遠く南西の空を見上げたまま、唇に指を当てた。


「そう……たった一度きりだからこそ、人の命とは大切にするべき宝物。それでもあの大バカは小さな戦場であっても命を賭ける。付き従う大切な兵士達も同じように。ほんと……呆れるくらい……」


――愛おしい。


 心の中での呟きは誰にも聞こえない。

 その在り方が、その生き様が、その意地が……一瞬の煌きだけを残して消えてしまうモノだと分かっているからこそ、美しいと華琳は思う。

 短い間だけで散ってしまう華のように美しい、儚く尊いその想い。

 誰に理解して欲しいとも思わない。ただ真っ直ぐに、自分の思ったまま行動し命を賭ける彼らに、華琳は魅せられてしまった一人なのだ。


 だから欲した。黒麒麟を、黒麒麟が作る全てを。


 黒麒麟に毒されたモノは、彼女が語る“誇り”を体現していると言えよう。

 決して折れない想いを胸に抱いて突き進む、理不尽だろうと無茶だろうと抗い踏み倒す、それでいい……それでこそ、彼女が求めた黒麒麟そのモノ。


 きっと益州でも何かしらしている事は分かっていた。

 黒き大徳が、あの道化師が、ただ言われただけの任務で満足するはずが無いのだから。

 一つ二つと何が出来るか考えてみれば予測が立つ。戻った時に強い身体で居てくれればいいが、やはりその数は減るはずだ……と。


 遠くを見つめたままそれ以上語らない華琳に、麗羽は小さく息を吐く。

 覇王が何を思っているのか、どんな表情をしているのかは覗いてはいけない気がした。

 せめて、と。麗羽は疑問に思っていることを唇から流した。


「華琳さん? あなた、随分と柔らかくなりましたわね?」

「……そうかしら?」


 僅かに肩を竦めた華琳から、背中越しに疑問が返される。

 麗羽は、自覚なしか、と心の中でごちた。


「ええ、昔の華琳さんは……何処か気を張ってばかりでしたわ。私塾でも、都でも、余裕は確かに持っていたのでしょうけれども、今ほどではなかったと思いまして」

「……そう」

「先程のお話もですわ。貴女が饒舌に、それも恋する乙女のように語るなんて有り得なかったのではなくて?」


 ぴくり、と華琳の身体が跳ねた。


「恋する乙女、ね。店長もそう思う?」

「……私にとっては些か難しい質問ですね」

「感じたままを答えてくれたらいのよ」

「では……言い得て妙かと。袁麗羽様のご意見も尤も。しかし私としては、やはり貴女があの方の作り上げたモノに向ける感情は、恋とは少し違う気がしますね」

「正解……アレらのような大バカ者に向けるのは、恋心と言うには余りに種類が足りない」


 振り向くことなく語る。けれども空を見上げた華琳は、小さなため息を吐き出した。

 対して麗羽は思考に潜る。


――ほら、そんな所も。昔なら聞き返して質問の意図から何から納得しようとしたはずですもの。自身で何か思う所があるからこそ、聞き返すことをしないのでしょう?


 こんな穏やかに会話が出来ることは無かった。自分も仮面を被ってはいたが、華琳は昔から自分をそのまま出していた筈なのだ。

 だというのに、僅かばかり引っ掛かるような言葉を投げても、今の彼女は動じずに、過去をしっている麗羽からすれば不気味な程に落ち着いていた。


 自分も変わったように、きっと華琳もこの乱世で変わったのだと麗羽は思う。

 胸の内に持つ望みや願いは変わらずとも、華琳自身も成長したのだろう、と。

 それがいい事なのか悪い事なのかは麗羽には分からない。けれども……今の彼女とのこういった時間は、ずっと続けて行きたいと、そう思える。


「まあ、覇王様は乱世に恋をしておいでですからね。徐晃隊のような者達に向けるモノは恋心とは違いますか」


 クスリと小さな笑いを漏らした店長は、唐突に言葉を投げやった。

 やっと振り返った華琳は、楽しそうに店長の瞳を覗きこむ。


「あら、中々に面白い表現じゃない」

「乱世に恋……わけがわかりませんわ」

「……誰もが夢を携え、誰もが夢を語り、誰もが夢を叶えようと切磋琢磨するこの時代。名も語られない小さな星々の輝きと、自らと共に輝く綺羅星達と紡ぐ一つの物語のようなこの乱世が、覇王様は愛しくて愛しくてたまらないんですよ」


 机を指でなぞり……それで?とでも問いかける挑戦的な瞳が、店長に続きを促す。


「言葉遊びに思えるかもしれませんが……私も“料理”に恋をしてしまいましたから、覇王様が乱世に恋をしているというのも的を得ているとは思いませんか? まあ……簡単に言いますと、“好き”ってことですかね」


 それ以上は自分で語るべきだと、店長はやんわりと受け流した。

 クスクスと笑う華琳は気にせず、首を捻る麗羽に安易な答えを続けることもしなかった。


「そうね、私はこの乱世が好きよ、麗羽。

 たった一度の人生で、私という存在をこの世に示し、私の全てを賭けても足りない平穏を思い描くなんて……これほど嬉しくて楽しいことはない。

 ただ、その為に摘み取ってしまう命の華もあるけれど、そのモノ達の命は私達の血肉となっている。数多の命を捧げた大切な大切な乱世を私は……」


 答え合わせをするように、自分のキモチをしっかりと確かめるように、華琳は少しの間を置いて、不敵に笑った。


――愛してるわ。


 言葉には出さなかった。出そうとも思わなかった。語ると軽くなってしまいそうで。この胸に秘めたる想いが、ちっぽけになってしまいそうで。


 あの男と二人きりで話した夜のことを、特別に感じてしまっているようで。


 同じ意味だと知っている。この感情が秋斗が華琳に向けたモノと同じだと、華琳は分かっている。

 穢すことも、貶すことも、蔑むことも出来ない想いの華。故に彼女は彼のことを認めていて、追い駆けることを許したのだ。


 じっと見つめる店長の瞳は、心の中を見透かしているかのように澄んでいた。

 視線を逸らし、カップだけを手に取ってまた背を向ける。


「ねぇ、麗羽。あなたに気まぐれな問いかけをしてあげる」

「……なんですの?」


 唐突な話題変換に首を傾げた麗羽と、また小さな苦笑を漏らした店長。どちらもに聞かせてもいい問いかけを、彼女は投げることにした。


「“例えば”……失われたあなたの王佐と暮らせるように、乱世を遣りなおせるというのなら……あなたはソレを望むのか否か」


 絶対に有り得ないもしもの話。人生のやり直しなど起こるわけが無いと誰もが知っているが、華琳はその問いを麗羽に投げる。

 嘗て、悪龍と語り合ったあの昼下がりであった問答を、今ここに。

 裏を返せば、華琳は麗羽のことを王として認めているとも言える。


 しばしの沈黙の後に、たった一人残された袁家の王は、苦く唇を噛みしめて……緩く笑った。


「そうですわね……“例えば”、夕さんが私の王佐として暮らせるように、本物の袁家の王として振る舞える時期に戻れるのなら、今のわたくしでしたら上手く回せるかもしれませんわ」


 優雅に紅茶を一口。かちゃり、と陶器の音が優しく鳴り響く。


「袁家の文官の二分化、紅揚羽の早期救済、袁家二枚看板の明確な確立、そして且授さんと夕さんをしがらみから解き放ち、さらには桂花さんだってお友達になってくださるかもしれません。

 有力な将が率いる軍事力や暗殺等への対抗を主と出来る紅揚羽、それと飛び抜けた軍師の存在によって袁家を裏返すことも出来て、美羽さんや七乃さんとも結託出来たはず。わたくしがこの大陸を支配してみせようと乗り出すことも出来たかもしれませんわ」


 袁家という巨大な勢力を完全に回すことが出来たのなら、天下に一番近かったのは麗羽なのは言うまでもない。

 それほど世界の流れは袁家に傾いていたはずで、それがあったからこそ袁家の上層部はこの乱世で賭けを打ったのだ。

 答え合わせをするように並べられる“もしも”の話。過ぎ去ったからこそ描ける可能性は、確率は、きっと存在したことだろう。


「“袁紹”と“董卓”は天下を取ることも出来た、と私も過程してるわ。だからこそ聞いてみたい。栄光と輝かしい未来、そして自身にとって最大限の平穏が手に入ると……そうね、人知を超えた何かに誘われたとして……あなたは“やり直したい”?」


 どんな答えでも受け入れると、華琳の瞳が物語っていた。

 人それぞれの答えに口を挟むことはない。ただ純粋に、彼女は袁家の王がどのような答えを出すのかに興味を持っていた。

 しばしの逡巡は瞑目を以ってして。内にある何かを確かめるように、彼女は胸に手を当てた。


「……やり直し。甘美な響きですわね」


 小さな微笑。優雅で優美な彼女の笑みは、己の全てを世界に捧げた彼女だけが持てるモノ。


「ですが……否。わたくしはそのお誘いを断固として拒絶いたします」


 じっと見据えてくる視線には意思の強さが、語る言の葉には……熱いナニカが乗っていた。


「わたくしの大切な王佐、この手に掛けた数多の同胞、そして今もわたくしと共に生きてくれているあの二人や明さんや臣下達……皆が存在したからこそ今この時がありますわ。

 愛しき者達を一人でも多く救えたのなら、夢見た世界が手に入るのなら、それはきっと幸せでしょう、素晴らしいことでしょう。でもわたくしは、“袁麗羽”はそんな“まやかし”の幸福など要りません」


 ふっと、華琳も小さな笑みを漏らした。その答えを出せるなら十分だと。

 続き、麗羽が首を振った。悲しげに、儚げに。


「わたくし達は、生き残った者達は、この世界で幸せにならなければ意味が無い。

 名も語られない一人の兵士は誰かの為に命を賭けましたわ。

 愛しき王佐はわたくしの未来の為に命さえ使おうと致しましたわ。

 狂い乱れる紅き揚羽蝶は世界を変える為に絶望を乗り越え悪へと堕ちましたわ。

 わたくしの愛しい愛しい両腕は……このわたくしを幸せにする為に全てを捧げましたわ。

 そんな一つ一つの願いが輝くこの世界で幸せを掴もうとせずして……何が人生っ!」


 胸に残る想いがあった。

 官渡の最後には兵士に叱咤されて激励された。忠義を尽くしてくれた彼らの想いは、やり直しなど望んでいない。

 袁の王佐は麗羽の成長の為に大切だった母を救う事よりも戦を優先した。今の麗羽を信じて、一緒に幸せになりたかったからだ。

 紅揚羽は千を超える袁家を虐殺して悪となった。この世界を変えて、この世界で幸せを掴み取る為に。

 二枚看板と謳われた彼女達は今も尚麗羽の為に戦おうとしている。それも全て……この世界で麗羽が幸せに暮らせるようにと。


 故に、麗羽は拒絶する。そんな“もしも”を拒絶する。

 二度目で幸せになっても彼女にとっては意味がない。

 死んだ者を助けられるとしても、命を賭けて戦った者達はもういない。

 絶望こそすれ、それでも幸せになろうとするのが人間だ。自分だけが幸せになって、それで自身の罪が許されるわけがない。それでも幸せになりたい等とほざけるわけもない。


 何故、名も語られない一人の兵士は救われない。

 自分だけが神や魔物から受ける特別扱いで幸せになって満足か? 否、否なのだ。

 世界に全てを捧げた袁麗羽は、この世界で生きる人の幸福をこそ願っている。


 死に行く想いを掬い、生きる願いを救わずして、彼女はもう許されないし、自分を許すことは出来ない。


「幸せになってくれと、わたくしは袁家が治める地の民に願われましたわ。こんなわたくしに幸せになれと、優しい優しい民達は願った。

 死んだ者達はわたくしの描く未来を願っておりました。わたくしが作る平穏な世を夢に見ておりました。わたくしが生きている限り、彼らの夢に終わりは有りません。終わらせてあげませんわ。縋り付いて縋り付いて、この世界の平穏を見届けるまでは死ねません。

 皆の想いを無駄にして、踏み躙って……“やり直しに逃げる”なんて……わたくしを見縊って貰っては困りますわね、華琳さん?」


 妖艶に嗤う。

 覇王よ、お前はどうだと問いかけるように。

 敗北で叩き潰された袁の王が持つ覇気は、彼女に届き得る刃となる。

 世界に存在を捧げた麗羽の声は、華琳に向ける弾劾にもなる。彼女の声は生きるモノの声、そして……死んでいったモノ達の声でもあるのだから。


――やり直しに逃げることは無い、か。いい答えね。


 華琳は満足だった。

 河北という広大な土地を任せる頭の成長は望んだ通り。昔の麗羽ならば、“逃げる”選択肢を考えたであろう。今の彼女は目の前を見て、背を向けずに真っ直ぐ立っていた。


「私も同じよ、麗羽。逃げない、引かない、顧みない。自分が生きてきた道を恥じることも、後悔することもしない」


 やり直しとは逃げだ。

 現実を受け止めず、結果を受け入れられず、絶望から立ち上がることも出来ない人間の弱さ。愛しいモノの死さえ乗り越えて生きるのが人間であり、人々に希望を与え、世界を回すのはいつだってそういった者達だ。


「そも、人以外の介入を以って作る平穏に価値は無い。私達が生きているこの世界を天の箱庭などに……させてたまるもんですか」


 弱き人々は願う。天に助けを請い、自らの成長を止めてしまう。抗う力を無くしてしまう。

 蔓延し始めた噂が気に喰わなかった。“天の御使い”に縋ろうとする人々に怒りさえ覚える。


――与えられる幸せなど無価値。自らの力で手に入れたモノを愛さずして、何が王か。


 神や魔物に縋って得た“まやかし”の世界で満足するのか。

 自分は幾多も他者の幸せを奪ってきたというのに。自分だけ特別扱いされて満足するのか。

 “同じ名前の別の存在”を幸せに出来たからと満足出来るのか。


 やはり、否。

 覇王に、華琳に逃げは無い。戦での戦略的な逃走はあるとしても、立ちはだかる現実からの逃げなど存在しない。


「それが貴女の誇りですの? 華琳さん」

「いいえ、これは人として、そして人を率いるモノとしての意地よ」

「救いを待つだけでは手に入らない、ですか」


 柔らかく笑った華琳がゆったりと椅子に座る。机の上に肘をついて手を組み、麗羽と視線を合わせた。


「後悔しているかと思ったけれど、あなたは振り返らずにちゃんと前を向いているようね」

「ええ、俯いて前を向かない人間になどなりたくありませんわ。そんな姿を見せてしまえば、夕さんに“無様”と笑われてしまいます」


 二人して笑う。

 クスリ……口に手を当てる上品な仕草は、麗しさからかどちらも大人びて見えた。


「例えこの先で、多くの愛しいモノを失おうと?」

「命を賭けているモノを使わずして、王には足り得ないですわ」

「誰であろうと、必要があるならば切り捨てることは出来るのかしら?」

「幸せの極地に居る人間であろうと、死んでも遣り切りなさい、と命じることでしょう」

「あなた自身は?」

「元より存在の全てをこの愛しい世界に捧げた身。しかれども、世に平穏が齎されるその時までは、泥を啜り根を食んででも生き延びましょう」


 かちゃり、とまた茶器を置いた。どちらも視線は外さず、エメラルドとアイスブルーが交差する。

 黙って事の成り行きを見守っていた店長はそこで……聞こえるように音を立てて紅茶を継ぎ足した。


「盛り上がるのはいいのですが、もう少し場を選んで話して欲しいモノですね」


 せっかく自分の料理の出るお茶会なのだ。乱世のことよりも彼が作る時間のような……くだらないことでも話して欲しいと店長は思った。

 二人して肩を竦めた彼女達は、また茶器を手に取って一口飲んだ。


「ふふ、ごめんなさいね店長。でもこの後は雛里や月と一緒に街を回るし、麗羽と王として話す機会はあまりとれないから、この場だけは許してちょうだい」

「わたくしからも謝罪しますわ、せっかくの優雅なお時間でしたのに」

「いえいえ、私もわがままを言いました。国がなければ美味しいお時間も作れません。あなた方のお話を邪魔するわけにも行きませんし……」


 爽やかに笑った店長が、懐より取り出したのは一つの紙切れ。


「請求書を置いておきますので、ごゆるりと」

「もう帰るの?」

「もう少しゆっくりしてくださればいいのに」

「申し訳ありませんが。

 三号店の建設に伴い、二号店の副店主にいろいろと仕込まないといけませんのでね。ああ、そうでした……この茶器は知り合いに焼いて貰ったモノなのですが、お気に召したのでしたらお安くしておきますよ。では、私は店に戻ります」


 ちゃっかり営業を掛けつつ、取るモノだけは明らかにして去って行く商売人に、抜け目ないと華琳は小さく笑う。

 店長の背を見送った後、麗羽が茶器をじっと見ていた。欲しいのだろう。欲しいに違いない。光沢さえ放つ美しい茶器は、華琳とて欲しいが……首を振る。

 二人で獲り合うよりも、もっといい方法があった。


「店長も忙しいから仕方ない、か。

 で……麗羽はこの茶器が欲しいの? 私は今回はやめておくけれど」

「いいんですの?」

「ふふ……あなたと私のお茶会の記念としておいて。遠路はるばる報告に来てくれたのだから、土産としてあなたに贈りましょう。しっかりと私の留守を守って貰って、勝利後に南皮でお茶会をする時に必要でしょうし、ね?」


 あんぐりと口を開けた麗羽。まさか華琳が譲るなどと、天地が引っくり返っても言わないと思っていたのだ。

 きっと何か考えがあるのだろう。しかし……邪推することこそ失礼に感じて、麗羽は直ぐに目を伏せて微笑んだ。


「ありがとうですわ。でしたら受け取りましょう。わたくしの街でお茶会をする時は良い茶葉を仕入れてきてくださいまし」

「西涼か益州の土産を楽しみにしてなさいな。あのバカも私も、タダで帰るわけもないのだから。今度はあいつを店長のような執事役にしてあげましょう」

「それはいいお考えですわ。それよりも……秋斗さんのこと、よほど信頼しておられるようですわね」

「……」


 問いかけに一寸ハッとした華琳の表情が曇り、何処となく苦々しげなため息を吐き出して麗羽を見つめる。


「信頼? 違うわ。これは信用というモノよ」

「……そういうことにしておきますわ」

「勘違いしてるわね? 私は、頼ってなんか、いない。あいつの仕事の出来高を信用してるだけなの」

「ふふ、そういうことにしておきますわ」

「くっ……官渡を越えてから生意気になったわね、麗羽」

「そういう華琳さんは昔からの意地っ張りも程々にした方がよろしくてよ?」


 まるで遊び相手を待っている子供のようだ、とは口が裂けても言わない。

 こんな華琳の姿を見たのは私塾に入り立ての頃くらいであろうか。麗羽は暖かくなる胸に手を当てて、少しだけ視線を空に向ける。

 これ以上は喧嘩になるだろう。認めない事も知っているし、追求もすべきではない。素のままで語り合うのはいいことだが、機嫌を損ねたままで終わるのは後味が悪い。

 もはやこれまで。喧嘩をするくらいなら此処で終わらせた方がいい。そう考えて、彼女は口を開く。


「では華琳さん。朔夜さんと七乃さんと“あの方”と共に発展を進め、愛しい片腕と愛しい兵士達や民達と共に河北と中原を守り抜いてみせますわ」


 ゆらりと立ち上がった。

 束の間の休息、友達とのお茶会は終わり、また自分は人々の為の存在へと戻るのだ。


「……任せましょう。報告は確かに承った。河北の安定具合から鑑みても、貴女が自由に動いても問題は出ない。風と朔夜、月が帰還次第、曹操軍を動かし西涼を手に入れるから、それまで河北の掌握を深く紡いでおく事。そして私が覇道を征く間、我が愛しき平穏を守り抜きなさい」


 返答と命令。

 指二つでスカートの裾を摘み、麗羽はお辞儀を一つ。

 滞在中に娘娘で少しだけ見たことのある所作が、従僕のような自分には似合っている気がしたから。


「ご随意に、覇王様。

 天たる陛下を頂点に、そして貴女と“妹君”の臣下でもあるこのわたくしにお任せを」


 こういうときはなんというんだったか。

 きっと遠くで暗躍している黒ならば約束を紡ぐのだろう。自分には何かないかと考えて……思いついたのは、覇王の為の兵士達が上げる約束だった。

 華琳の前で、人々に全てを捧げた自分だからこそ言う価値があった。


 小さく微笑む。気品溢れるその美女は、自らの想いと重なる言の葉を捧げた。


「……華々に光あれ」


 気に喰わないと思いながらもその言の葉を華琳は呑み込む。

 最後の紅茶を飲み切って、また大きなため息を吐いて彼女は立ち上がった。


「……仕事だけじゃなくて、次のお茶会も楽しみにしてるわ」

「約束、ですわよ?」

「ん、約束ね」

「では行ってらっしゃいまし。雛里さんや“あの方”との『でぇと』を楽しんでいらして」

「当然。あいつが居ない今がいい機会だわ。しっかり私色に染めないと。じゃあ、またね」

「ええ、また」


 穏やかな午後のこと。

 背中を見送る王と、背中を見せる王が一人ずつ。

 どちらも振り返ることなく、ただ真っ直ぐに前を見ていた。





読んで頂きありがとうございます。

長くなりそうだったので切りました。後一話だけ、物語でも重要な話なので続きます。


兵士達の、果ては人々の生きる想いを汲む二人の王様のお話。

この世界で精一杯の人生を歩まないと彼らが命を賭けた意味が無いですからね。

”繰り返し”や”もしも”はこの物語に於いて重要なファクターですのでお気を付けください。


次は華琳様達のデート。



私情ですが、31日まで仕事や忘年会が入っているのでとてつもなく忙しいです。更新が遅れてしまいましたら申し訳ありません。

年内に最低でも一話は上げますのでお許しを。


お身体にお気をつけてお待ち頂けたら幸いです。


ではまた

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