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黒と繋ぎし想い華

今回は特殊な書き方をしていますがご容赦を。


「おっ、新入りか?」


 アレは黄巾が大陸に跋扈していた時のこと。

 曹操軍と共に行動していた劉備義勇軍の拠点を訪れて、練兵場に案内されて真っ先に出会ったのはいかつい見た目の大男だった。

 俺は義勇軍というよりも賊の方が似合ってそうなその男の風貌にビビっちまってた。


「はい! 劉備義勇軍は向かう所敵無しと聞いてます! 微力ながら自分の力を大陸の平穏の為に役立てたく思い、門戸を叩いた次第です!」


 緊張しながらもちゃんと言えたと思う。

 正直、有名になっていく義勇軍に早い内から所属すればきっとこんな自分だって優遇される……なんて下心もあった。

 片田舎で暮らしてるだけじゃ可愛い嫁さんを貰うことも出来ない。美味いメシにありつくことも、たらふく酒を飲むことも出来ない。

 兵士ってのは戦えば金が貰える。義勇軍はあんまり儲からないらしいけど、こんだけ名前が売れてるのならそのうち何処かで領主とかになるんだと思ってた。だからそれにあやかろうと思ったんだ。


「そうか。んじゃあ聞くが……お前、誰の下に付きたい?」


 最初の質問の意図は理解出来る。

 劉備義勇軍には三人の武将が居たから、その中から選べってことだろう。

 軍神と名高い関雲長、燕人と呼び声のある張翼徳、黒麒麟と謳われる徐公明。

 じ……と見つめる視線は真剣そのもので、それでも視線だけは外さずに考え込み……俺は質問を投げ返した。


「あなたは、誰の……?」


 目の前の大男は誰の下に付いているのか、せめてもの情報収集くらいはしようと。

 僅かに眉を顰めたそいつは一寸の後、ニッと男らしい笑みを浮かべた。


「俺はな、“最強の男”と一緒に戦ってる」


 それだけ聞けば誰の下で戦っているのかは分かった。

 武将は誰しも女ばかりのはずなのに、たった一人だけの異端。あの時分、劉備軍で一番に名前が売れてたのはその男で間違いない。


「男ならぁ、誰かの為に強くなれ。誰にも負けないように強く在れ……ってな。

 お前が誰の下につこうと思ってるかは知らねぇが、あの方みたいに強くなりたいなら俺らんとこが一番だぜ?

 血反吐撒き散らしてでも男の意地を張りたいって奴等ばっかりだ」

「厳しいので?」

「ははっ、そりゃな! 死にたくないなら強くなるっきゃねぇし、簡単に戦えると思ってたら大間違いだ」


 楽しそうに笑いながらその男は頭を掻いた。

 よく見れば腕は傷だらけ。小さい傷も大きい傷も、古傷を上塗りするように幾重もの傷で埋め尽くされていた。

 ゴクリと生唾を呑み込む。どんな厳しい訓練をしているのかとちょっとびびっちまった。


「何より……見ろ」


 見下しとは全く違う、試すような視線。不敵な笑みが印象的に過ぎた。

 クイと親指で差された先には……。


「アレが俺の目指す先で、命を捧げるに足りる唯一の“御大将”……黒麒麟だ」


 練兵場で舞い踊る黒。

 明らかに異質な武力を持つ女を相手に一歩も引くことなく。ギリギリのやり取りは自分達では命を落とすこと相違ない格上の居場所。

 思わず見惚れた。目を奪われるとはまさにこのこと。沸々と粟立つ肌と、じわじわと胸に湧く熱いナニカ。


 無意識の内にぎゅうと拳が握られていた。それは悔しさだったのかもしれないし、羨望だったのかもしれない。


「お前は守られてるだけで満足か? 死ぬことにびびって、格上相手に腰を抜かして、女に守られるような男で満足か? 

 あの方みたいに、極上の女を己の鍛え上げた腕で守りたいって思わねぇのかよ?」


 胸に湧いた感情の理由は言われて分かった。


 女の影に隠れるなんて嫌だった。

 女の背中に守られるなんてまっぴらだった。

 男として生まれたなら……綺麗な女に背中を見せずして、なんの為に生まれてきたってんだ。


 肩に大きな手を置いて、男くさい笑みを向けてきたあいつは……あの時、嬉しそうにこう言ったんだ。


「はっ……意地っ張りの掃き溜めにようこそ。

 俺はいつか黒麒麟の右腕と呼ばれる男……“周倉”ってんだ。仲良くしようぜ、大バカ野郎」





 †

 




 鈍重な大型武器との戦いは猪々子との戦いで慣れていた。

 一合目は見極めに全てを使い、全力の速さを以って、対面する魏延の武器による殴打を掻い潜った。

 遅れて鳴るは轟音と言うに相応しい音。駆け抜けた先、振り返ってみてみれば大地が大きく抉れている。


――やっぱこいつら、バケモンだわ。


 一撃でも喰らえば終わり。当たり前だとは思っていたがいざ目の前にすると、でたらめなバカ力に寒気が走る。

 男では絶対に出せない力。女武将になるモノは大概がこうして異質な力なり速さなりを持っている。生まれからして差があるのだろう。


 しかし……羨ましい、とは思わない。

 こんなデタラメな力が無くとも、自分達は戦えると知っているから。

 こんなデタラメな力を越える為に、いつだって頭を回し、鍛えてきたから。

 感じるモノは羨望とは全くの逆。

 化け物と評するべき武人達を、己たちが倒せる事に対する歓喜があるのみ。


――御大将は俺らと戦うことで教えてくれてたんだ。こいつらと、非力な俺らでも戦う方法を。


 ただ一人の異端と長く戦ってきた者達は、いつだって地獄のような訓練で対処法を練り上げ、彼が戦ったことのある武人達のタイプへの応対すら積み上げてきたのだ。

 例え相手にするのが自分一人であろうと、彼が命じるのならこいつらを足止めしなければならない。

 例え敵が人中と謳われる飛将軍であろうと、彼が抑えろというのなら抑えなければならない。


 兵士としての仕事はいつだって捨て駒。命一つに拘っていては、軍……果ては国の勝利など得られない。

 黒麒麟はその為に兵士を絶対遵守の命令で縛り上げ、彼らが自身の命をいつでも捨てられる最悪の死兵へと昇華させてきた。

 誰だって死ぬのは恐ろしいが、畏れが一寸でも見えれば強大な相手の前では死あるのみ……よって、部隊として所属させるよりも前に、既に自分達は死んでいるのだと覚悟を持たせ、畏れの無い冷静沈着な状態で虎視眈々と敵の命を狙わせる……そんな死兵に仕立て上げた。


 捨て駒で構わない、と部隊長は思う。

 こんなちっぽけな命を使って自分達が決して勝てなかったモノを打ち倒せるのなら、雲の上とも思っていた存在に勝てるなら、男としてなんの悔いがあらんや。

 焔耶の悔しげな表情を見つつ、其処でふと、化け物相手の時だけで自分達はこのように命を捨てるのだろうかと考える。

 答えは……否。


――たった一人で一万の軍を相手にしろって言われても……


 敵が武人でなくとも同じ事。

 それでもやはり、捨て駒で構わないと彼は思った。


――俺らは変わらず命を捨てる。だってよ……


 根拠はたった一つ、たった一人の存在故に。

 見てきた事実。聞いた話。理解しつくしている事柄。


――俺らが憧れるあの人は……“御大将”は……“徐公明”は……


 大怪我をしていようと、望みの欠片も無い絶望的な状況であろうと、裏切りの刃で死ぬ可能性があろうと、己と友と仲間を信じて、自分勝手に突き進む……そんな大バカ者が率いているから、彼らは何時もいつだって……“そうあれかし”。


――敵が十万だろうが百万だろうが……世界全てを敵に回したとしても……世の平穏の為ならたった一人でも抗うんだっ!


 にやり、と不敵な笑みが漏れた。

 斜め上に行った思考の果て、自分のバカさ加減に呆れながらも、憧れの主に近付けることが嬉しくて仕方ない。


 比べてみろ、目の前に居るモノは一万の兵士に勝るか?

 思い出せ、目の前に居るモノは自分達の主よりも強大か?

 なんのことがあろう……所詮はか弱き女で、自分達が戦う敵達と比較すれば取るに足らない相手である。

 ならば、そんな相手一人に負けることこそ、こんな所で無様に命を落とすことこそ、男の恥……そして、愛しい主の期待に対する裏切りだ。


「たかが一撃を避けただけで何を笑っている?」

「へへっ、お前にゃ分からねぇさ。俺らの気持ちなんて」


 侮辱とは違う声音だが、焔耶の心に苛立ちを募らせるには十分。轟と立ち上がる闘気は勢いを増し、反して鋭く研ぎ澄まされる瞳は憤慨に呑まれず未だ冷静。

 深く、深く息を吐く。

 嘗てない程に集中力を研ぎ澄ませている部隊長は、今まで繰り返してきた全ての経験を脳髄から引きずり出していく。

 此処からは一つも間違ってはいけない計算式。侮りも、優越も、歓喜も、高揚も、何もかもを捨て去り、この身この命この魂を、唯一つの刃へと変えんとす。


「……ずっと見てきた」


 ぽつりと零した。焔耶は訳が分からずにどうでもいいと耳を傾けない。話すことすら無駄と断じた。

 部隊長も、別に聞いて欲しかったわけではない。自身を切り替えるスイッチを押す為に、言の葉を零しただけなのだから。


「バカでへたれで優しくて厳しくて弱くて強い……あの人のことを」


 いくら憧れても追いつけない。

 いくら鍛えても辿り着けない。

 いくら積み上げても同じになれない。


 失われた最強の右腕でさえ……彼と肩を並べるには足手まとい。

 軍神のように、燕人のように、昇龍のように、自分達は為れないのだと……徐晃隊の全ての兵士は“知っている”。

 でも諦めきれないから、彼らは考えた。


 すっと、部隊長の構えが変わる。

 だらりと降ろした両腕はゆっくりと上がって行き、右手の剣を前に、左手の槍を後ろに。


「一つでいい。たった一つでいいんだ。俺らはバカだから誰だって……あの人の真似してぇって思っちまう」


 後ろで見ていた秋斗は、一寸だけ目を見開いた。

 寸分違わぬその構えは、その姿は、誰有ろう彼が一番よく知っているモノだったから。


 子供が英雄に憧れるように、彼らは黒に憧れた。

 必殺技の一つでも真似をしたくなるように、第四の部隊長はその構えを真似ていた。

 俊足の縮地など出来ない。最速の刺突など絶対に出来ない。しかしこうして構えるだけで、まるで自分が強くなったかのように感じる。

 自己暗示の効果は極限状態であればある程に増していく。部隊長の心身は、決死突撃の時と同じく最高潮に高まっていた。


「へへっ、かっこいいだろ? 括目しろよバカ野郎共、御大将に勝ってゆえゆえを嫁にする為のとっておき……見せてやらぁっ」


 気合一拍。

 憧れになりたいと願った最果て、皆に内緒で磨いてきた自分だけの姿に誇らしげな部隊長と、昨日に見た苛立ちを生む構えにギシリと歯軋りをした焔耶。

 相対する静寂の間は僅かに……パチリ、と篝火の爆ぜる音を合図に、再び二人の影が動き出した。





 †





 泡沫のまほろばのように、遥か彼方に追いやられてしまった昔の記憶。


「……居なくなっちまった」


 焚き火の側、星の下。器に入れられた酒にゆらゆらと揺れる赤を眺めて零した。

 同じように火を囲む野郎共の顔も、何処か寂しさにやりきれない。

 黄巾の終わりかけ、一つの戦いが終わった夜のこと。仲良くなった仲間の幾人が死んでしまった。俺が受け持った小隊での死者は初めてだった。


「あいつ、黄巾が終わったら結婚するって言ってたのに」

「御大将が企画してる警備隊、だっけか? 劉備様が領主になれたらそれになるって言ってたな」

「そうさ、守りたいもん出来たならそれがいい」

「兵士なんざ辞めて街を守ってる方が安全だし、恋人も安心させられるわな」


 その時、一人の男が声を荒げた。


「一人身の俺らよりも、あいつが生き残るべきだったんだっ!」

「おい、やめろ」

「だってっ……だってよぉ……」


 感極まって涙を零す一人が、大地に拳を打ちつける。


「せっかく、幸せになれるってのに……哀しい、じゃねぇかよぉ」

「……」


 答えを返せるモノは居なかった。其処に居た皆、同じ気持ちだったから。


「俺が守れたはずなのに……小隊で肩を並べてた俺が、守ってやらなきゃなんなかったのにっ」


 それなら責は什長の俺にある、とは言えなかった。死んだ奴と一番仲が良くて、隣で戦っていたのはそいつだった。

 庇っても何も満たされない。失った事実は変わらない。自分達の力不足で届かなかった幸せは……戻らない。


「あいつは……――は、貧乏な村に生まれて、こっから頑張れるって時だったんだぜぇ?」


 呼ばれた名前。はっきりと覚えてる。そいつがどんな生き方をしてきて、どんな想いを持っていたかも。

 いつだってバカな事を繰り返して来た俺達は、家族だと言っても過言では無いほどの信頼に結ばれていて。

 隣の誰かが呆気なく死ぬことが当たり前の戦場で……俺達は隣の誰かではなく“あいつら”を確りと認識したまま、次は“あいつ”が死ぬんだと理解を置く。

 別の小隊であっても、名前も知らない奴等が死ぬのとは違った痛みが、いつだって俺達を襲いやがる。

 真っ二つに切り裂かれたような、ぽっかりと穴を空けられたかのような……そんな痛み。


 同じ釜の飯を食って笑い合ってた“あいつ”が今日は居ない。

 明日の最前列は“こいつら”だから、今夜が笑い合える最後かもしれねぇ。


 戦の度にそれを繰り返して、俺達は誰かを失ってばっかりだった。

 初めから仲良くならなけりゃこんな想いを感じずに済んだのかもしれない。


「……そうさな、――は力があんまり強くないくせに必死で強くなろうとしてたっけ」


 背後からの声に全員が振り返った。

 ゆったりと歩いてくるその人は、後ろに小隊長達と大きな瓶を担いだ周倉を引き連れて……感情の読み取りにくい顔で緩く語った。


「徐晃様……」

「な、なんで此処に?」


 当然の疑問。部隊を預かる将が俺達兵士の所にまで来るとは思えなかったから。今頃は軍師様方は曹操軍の将達と難しい話をしてると思ってた。

 苦笑を一つ、その人は寂しい顔で笑った。


「今回の戦いで――と――と――、それに――。――も死んだ。あとは一番新しく入った――もな。

 なんで此処に居るかって? そりゃ……死んだ奴等の弔い酒をお前ら小隊だけになんざやらせてやるかっての」


 そう言った後、トクトクと酒を杯に注いで、あの人は一つを焚き火の側に置く。自分達の分も注いでいる時に、後ろの小隊長達は死人が出た部隊の奴だと気付く。

 それよりも、皆の驚愕はそんな所ではない。

 彼は寸分違えずに、死んだ奴等の名前を呼んだのだ。新しく入った関わりの少ない男でさえも。


 曹操軍の兵士と話した時に言われた。

 ふざけあったり茶化し合ったりと仲良くしてる俺らを見て、兵士同士で名前なんか覚えるなよ、と。

 なんでだ、と聞くと……いつ死ぬか分からないから覚えるべきじゃない……なんて答えが返ってきた。


 理由は分かる。

 人が死んだ時、悲しむ時間と心に掛かる痛みを少なくするには……“忘れること”が一番だから。

 兵士達は当たり前のようにそうしてた。

 長く戦う内に、その痛みに耐えられないと知ったのだろう。

 俺らだって、今回だけで此れなのだ。この先もずっとこんな痛みが続くなら……兵士なんざ続けていられない。そう思った。


 だったらなんで、安易に辞められる兵士とは違って、才持つが故に主が望むなら戦い続けなければならない彼は、末端の兵士如きの名前を憶えているのか……皆の驚愕は其処にあった。


「徐晃様……あんた、――を覚えてる、のか?」

「ああ、ちょっと背が低くてさ、人懐っこい笑い方する奴だった。立ち寄った村の娘に惚れて滞在中にしっかりと落としやがって、黄巾が終わったら迎えに行くって言ってたなぁ」


 小さく喉を鳴らす彼は楽しそうでありながら寂しそうに。いいようのない不安と、何処か広がる安心感を俺は覚えた。

 たった一人の兵士のことを、なんで其処まで覚えてやがる……言葉で表すならそんな感じ。


 グビリと喉を鳴らして杯を空けた彼は、皆を少しずつ視線を合わせて穏やかに微笑んだ。


「忘れるわけねぇだろ。お前らのことだってな。俺はちゃんと覚えてる。――は前の戦いの後で俺に突っかかってきたよな? ――、お前はもうちょっといびきを小さくしろ、うるさいって苦情が出てるぞ。――は曹操軍とのいざこざですまんことしたな。――は……」


 一人ずつ名前を呼んで、ナニカを語って行く。最後に俺と視線を合わせて、呆れたように微笑んだ。


「――。意地張っちまうお前は結構無茶するけど、そんなお前だから小隊長を任せてる。俺の手は隅々までは届かない。だから、此れからもよろしく頼む」


 はらり、と頬を涙が零れた。見ればバカ共も泣いていた。

 俺らみたいな兵士を、この人はちゃんと覚えてくれている。死んじまったバカ共のことも、この人は忘れることなんてない。


 それがどれだけ……嬉しいことか。


 空を見上げた彼は、震える吐息を吐き出して……感情を殺しているようで殺し切れていない声を紡いだ。


「……繋いだ絆が失われた時、やっぱり胸は痛いと思う。でも、確かにあいつらが此処に居たんだって証明を、自分達の胸に刻んでやれ。お前らの心の中には、そいつらが生きてるよ」


 嗚呼、と嘆息が漏れた。

 やっと分かった。想いを繋ぐってのがどういうことか。


「俺は“忘れない”。忘れてなんかやらない。お前らが俺を憎んで死のうとも、お前らが袂を分かっても、俺はお前らが生きた証を“忘れない”」


 俺らは忘れたらダメなんだ。

 哀しいけど、辛いけど、苦しいけど……確かに在った想いのカタチを、俺達と……あの人が繋ぐ世に咲かせる為に。


 弔いの酒が終わった後、御大将がゆっくりと歩いて行った場に周倉が残ってた。


「部隊の人間が増えても、あの人は俺らみたいな兵士を忘れねぇ。此のまま義勇軍から本物の軍になりゃあ関わりが少なくなるだろうけど、きっとあの人はバカみたいに兵士の名前を覚えると思う。

 俺らは捨て駒だ。たかが兵士だ。だけど、そんな捨て駒を“御大将”は忘れないし、忘れられない。でも俺らは心が擦れ切れちまうからあの人みたいにはなれねぇと思う。兵士やってたら、忘れなけりゃやってらんねぇもんもあるんだから。

 だから、だからよ、せめて近くの奴だけ、一人だけでも多くでいい……俺らはずっと忘れないでいようぜ」


 俺と同じバカ共ばっかりの“御大将”の下、俺達は忘れないことで想いの華を繋いで行く。

 隣の“誰か”じゃなくて、隣の“こいつ”を守ろう。

 後ろの“誰か”じゃなくて、後ろの“あいつ”に任せよう。

 だってよ、“御大将”は……俺らをそうやって信じてくれてるんだ。


 忘れることがイイことなのか、忘れないことがイイことなのかは俺には分からない。

 でも……俺達徐晃隊は、御大将と一緒に“忘れない”選択をして、やっと“黒麒麟”になれたんだ。






 †






「クソっ……何故だっ! どうして鈍砕骨が当たらないっ!」


 憎らしげに声を上げる焔耶とギリギリを見極めて避ける部隊長。

 鈍砕骨と呼ばれる武器は間違いなく当たれば一撃必殺の威力を持つだろう。


 焔耶の表現は正しくない。鈍砕骨は……ある意味で当たっている。部隊長の身体に当たっていないだけ、当たっているが傷を与えられていない、というのが正解。

 真剣そのモノであっても、焔耶は度重なる挑発の類で武器の軌道に乱れがあった。いつもならまだ速く、力強くあったはず。当たらないことへの焦りと、たかだか兵士だと侮る心が招いた結果に過ぎない。

 振られる度に躱しながら刃を重ね、滑らせるように力を流す……敵が何度も大地に武器を打ちつけるように、と。

 部隊長が行っているのはただそれだけ。数多の兵士の刃が行き交う戦場で、徐晃隊が生き残る為にはこうして刃を受け流す動作は必須であり、元々彼が手ほどきした動き。

 防御主体戦術の基礎は、一人が受け流しの役目を負うことにこそある。一人以上の相手の攻撃を見極め、受け流し、もう一人の為に攻撃の隙を作り上げる。それが出来て初めて徐晃隊の基礎戦術は成り立つのだ。

 四番隊の部隊長ともなれば、一介の兵士レベルではなく武人レベルの攻撃も見極めることくらいは出来た。身体が反応するかは別として、であるが。


 例えば春蘭や霞の一撃は、見えようとも防ぐことは出来ない。受け流そうとしても刃が乗った瞬間に叩き斬られる、もしくは神速に反応できない内に斬られるだけ。

 黒麒麟が相手の時は、一人に的を絞らせないようにするから戦える。最速の突きは、やはり部隊長クラスでも避けることは出来なかった。唯一見極めが出来るようになったのは失われた右腕だけ。それも長い時を共に過ごし、血を吐き続ける一騎打ちを繰り返してきたから得た慣れを以ってしてだ。


 故に、相手が焔耶だったのは幸いであった。

 重量武器の一撃は予備動作が見えやすい。軌道を変幻自在に変えることも難しい。だから部隊長は、重い一撃であろうと受け流すことが出来たのだ。


 ただ、これが黒麒麟であったなら、完全に流した後、刃の軌道の反転逆撃や体術での反撃も出来る。しかし部隊長にそれほどの力量などない。

 受け流すだけで精一杯。暴力的な重量武器の一撃一撃は、やはり部隊長が受けるには鈍重に過ぎる……が、致命傷にならないのならそれだけで御の字と言えよう。


 受ける度に腕に痺れが走る。幾重も刃を受けていれば握力も衰えてくる。それならば、痺れが取れるまでは脚で攪乱してやればいい。

 今度は避けることだけに念頭を置いているから当たらない。生き残ることに全てを賭けた戦場と同じく、部隊長はその任務を遂行していた。


「チィッ……避けるだけで私に勝てると思ってるのか!」

「……」


 寒気のするような大振り。余裕で避けられるわけではない。振られる武器を剣と槍で受け流し、やはり地面に何度も叩きつける。

 次第に肩で息をするようになった部隊長は甚大な脂汗を額から流していた。


――まだか、まだこいつのバカ力は衰えねぇのか。


 このままではジリ貧だ。体力も大きく消耗している。

 一撃の度に大地を抉らせ、武器に伝わる反動を変えさせているはずなのに、未だ焔耶の攻撃の威力は衰えず。息は僅かにしか上がっていない。

 力も速さも劣る自分では、無理やり攻めても勝利を得ることは出来ない。一振りで叩き潰され、脳髄を撒き散らして死ぬだろう。

 だからこそ彼が狙っているのはたった一度の好機。

 自分の限界が訪れた時に相手が僅かに衰えていれば、最後の力を振り絞って勝利を治めさえすればいい。


 百回の試行を繰り返しても九十九回の敗北が決定している一騎打ちであるならば、一番最初に勝利の一回をもぎ取ろう。

 一度でも勝つ事が出来れば自分達の方が上だ。本来は有り得ない下剋上なのだから。

 使い捨ての駒である自分達のような兵士が、世界に愛されている武人を脅かす……そんな証明を渇望する。


 避けながらぎらぎらと獲物を狙う肉食獣のような瞳で観察し続ける部隊長は、精神力だけで戦っているに等しい。

 心の燃料が切れない限り戦い続けられる……などとは言うまい。彼は所詮凡人の域を出られず、疲労が己の肉の限界に達すれば脳内麻薬の効果さえ失い地に伏すだろう。


――大丈夫だ……まだ、まだ戦える。だから確り見とけよお前ら。


 不屈の精神を支えているのは己の渇望と、愛しき主への想いと、バカ共から向けられる信頼のみ。


 もう幾重の脅威を避けただろうか。長い長い時間にも感じるし、一重の瞬刻にも感じられる。


「っ……く……」


 ようやっと僅かに、部隊長の肉に鈍砕骨が掠った。掠ってしまった。

 こめかみに掠ったトゲの一つが部隊長の頬に赤を滴らせる。

 にやり、と凶悪な笑みを浮かべた焔耶は、小さな傷を付けられたことで部隊長の状態を理解した。


「ふん、そろそろ疲れてきたようだな。私は……まだまだいけるぞっ」


 言うや横なぎ一閃。

 身を深く沈めて躱した部隊長の身体がギシリと軋む。転がることでどうにか射程圏内から離れたはいいが、荒い息が彼の限界が間近だと知らせている。

 しかしやはり、彼は不敵に笑った。


「……へっ」

「何故笑う?」

「いんや……? まだ、まだ俺は足りて無かったって思ってさ」

「わけの分からんことを……」

「お前にゃ分かんなくていい。やっと、分かり掛けてきたんだ……“あいつ”のキモチが」


 深く腰を落とした。再びとった構えは黒のモノ。俊足は行えない、出来るのはいつでも積み上げてきた連撃の太刀のみ。

 まだ防御主体でいい、と部隊長は断じた。

 まだ耐えられる。これくらいで音を上げていたら……“あいつ”に笑われる、と。


――なぁ……お前はこんな気持ちで、血みどろになりながら毎日御大将に挑んでたのかよ?


 一つだけの問いかけを行うと、彼の心の内に生きている“あいつ”が、男くさい豪快な笑い声を上げて応えた気がした。





 †





「お願いだっ! 曹操様と話をさせてくれ!」


 徐晃隊最精鋭の全滅報告を聞き、曹操軍の元に集った後のこと。

 捨て奸の跡、俺達の最終手段の行く末を見定めてから、天幕の一つに集まったバカ共は残存する徐晃隊の部隊長全てだった。

 押し掛けた俺達の前に立つのは黒髪の麗人。大剣を背中に背負ったその将の一睨みは、戦場に居る御大将と等しい威圧を叩きつける。


「用事なら私が承る。同志の死に思う所があるのは分かるが、さすがに華琳様の元へ直接は行かせられん」


 何か間違いがあってはいけないと、その将は言っている。覇王の右腕は俺達のことを信用しきってはいない。それはきっと正しいことだ。俺達が暴走する可能性なんて、普通の奴等は考えちまうだろうから。別に腹が立ったりもしねぇ。

 御大将の命令は機を待て。命令を破るわけがない。例え……最精鋭が全滅したと聞かされようと。それを他の奴等に理解しろって言っても無理な話。


 ただ、これだけは伝えておかなければならない。そして“動いてくれない”のなら、俺達が動くしかねぇんだから。

 言伝でも構わない。きっと耳に届けば判断してくれるはず。そう願っていたのは他の奴も同じだったようで、真っ先に第三のバカが口を開いた。


「じゃあ伝えてくれ、夏候惇様! 俺ら徐晃隊の最精鋭が全滅しても絶対に死なない奴が居る! 捨て奸の跡は見たが“あいつ”の死体がねぇんだ! “あいつ”は、絶対に生きてる!」

「だから俺らに探させてくれよ! 森の中か、それとも川の下流か……どっかで“あいつ”は生きて俺達を待ってるはずなんだ!」

「……それは出来ん」

「な、なんでだよっ」


 悲痛に眉を顰めたその人は、憂いと悲哀を俺達に向けた。


「……此れから戦場に立って貰うからだ。華琳様は既に、お前達を戦場に立たせよと命じられた」

「そりゃ無理だ。俺らの命令は待機。御大将の命令があるまでは動かねぇし働かねぇぞ。でも出来ることはやる。御大将がいねぇなら俺達には“あいつ”が必要だ」


 即座に言い返した。絶対の命令を破ることは出来ない。御大将が命じない限り動けない。俺達があの方と鳳統様の策を壊すわけにはいかないから。

 そうだ。“あいつ”がいればせめて動いてもいい。“あいつ”だけは御大将の代わりに俺達を使ってもいいし動かしてもいい資格を持ってる。

 俺達御大将が居ない時に黒麒麟の身体を動かせるのは大陸一の軍師様と……俺らの右腕である副長だけだ。


 尚も悲哀を向け続けるその人は、唇を僅かに噛んでから続けた。


「今回の行動はな、鳳統の策なのだ。徐晃が考えていた戦を行うにはお前達を使えと華琳様に献策したのだ。お前達が徐晃の命令しか聞かないことは分かっている……だが、お前達が戦うことは徐晃の為だと知れ」


 茫然。俺も皆も、一寸思考が止まった。

 御大将の命令は絶対。しかし倒れて何も命じられない今、副長や鳳統様の命令に従うことが俺らの次の行動。

 判断が下せない状況では他の誰かが……俺達の在り方は、そうやっていつでも回ってきた。


「……ああ、そうか……そりゃそうだ。黒麒麟と共に戦う鳳凰なら……此処で俺らを戦場に向かわせる。当然だ。それでこそ……俺達の軍師様なんだからよ」


 理解する頭に反して、誰もが歯を噛みしめた。

 あいつが生きてるって分かってるのに、俺達が助けに行けない……それがこんなにも……


「じゃあよ……お願いだ。誰でもいい……あいつを……周倉を、俺達の副長を……探してくれ」


 握った拳から血が滲む。

 やっと紡いで夏候惇様を見つめると、悲哀の色が瞳に濃くなった。


「すまん、それも出来な――――」

「いいでしょう」


 その声は、凛……と鈴の音の如く。

 ゆっくりと歩み来る少女は少女に非ず。孫権と相対した時の御大将と同じ程の覇気を纏った覇王が、現れた。


「か、華琳様っ?」

「そんなに多くは動かせないわよ? 作戦行動の時間に余裕がある将とその部下百人を動かしましょう。出来るわね、春蘭?」

「……いいんですか?」

「ふふ、やっぱり行きたかったの?」

「そ、それは……」


 愛しきモノに向ける慈愛の瞳で夏候惇様を見た覇王の言葉に、俺達の心は驚愕に染まる。

 それを感じ取ってか、覇王は小さく鼻を鳴らして俺達をぐるりと見渡した。


「安心しなさい。徐晃の絶望を少しでも減らしたいと願ってるこの子が、必ずあなた達の右腕を見つけて来てくれるわ」

「ち、違いますっ! 私はこいつらがあまりにも必死だから――」

「素直じゃないわね。まあ、そういうことにしといてあげる」

「うぅ……そんなんじゃないんですよぅ」


 顔を真っ赤にして俯く将軍は、想いを読み取られて恥ずかしげ。どっと安堵が噴き出る。夏候惇様も絶望に堕ちた御大将を想ってくれてるって理解出来たから。

 それなら、この人に任せてもいいと、俺達の心は一つだった。


「どうかよろしくお願いします……夏候惇様」

「副長は死なねぇ。俺達の中でも最強のあいつが死ぬわけねぇ」

「それに御大将が壊れない為には副長も必要なんだ」

「頼んます……」


 一斉に頭を下げ、返答を待つこと幾分……大きなため息を吐いた覇王から声が流れた。


「あぁ、そういえば私も行くわよ?」

「華琳様ぁっ!?」

「あら、不満? 私と一緒じゃいやなの?」

「いえっ、そういうわけではないですが……」

「大丈夫よ。あの子達なら私の指示以上の成果を上げてくれるでしょう。これ以上話してる時間も勿体ない、直ぐに準備するわよ」

「う……くぅぅ……貴様ら、私と華琳様がわざわざ行くのだ! 戦場でしっかり働かなければ許さんからな!」


 踵を返した覇王と大剣の二人の背を見送って、俺達はトンと胸を一つ叩く。


「乱世に華を、世に平穏を」


 任せられたのなら、俺達は俺達の仕事をするだけだ。約束を上げた、俺達の全てに誓って。


「……バカ者どもめっ」

「ふふ、期待してるわ、“黒麒麟の身体”」


 不満があるような声を出した将軍と、楽しげに謡った覇王。

 もし、初めから御大将が此処で戦っていたなら、と思ってしまうのも詮無き哉。

 俺達のわがままを聞いてくれた彼女達の元でなら、きっと御大将は壊れないと……その時はそう思えた。








 得てして、世界は残酷だ。

 深く、深く繋いで来た絆。代わりの効かない唯一の存在。彼の心の一番の支えは……忠義と想念を貫いて旅立ってしまった。

 覇王が大剣の背中に担がれてきた副長を見て俺達は歓喜した。喜ばねぇはずがない。

 しかしピクリとも動かないあいつを見て理解し……どん底に落とされた。


「……すまん」


 優しく、静かに大きな身を降ろしての一言に、誰も返事を返せなかった。

 誰が責められよう。彼女は俺達の代わりに探してきてくれたんだ。一目瞭然、副長の身体の状態を見れば、俺達が行っても助からなかったことくらい分かる。

 何も言うまいと去って行く将軍に対して、示し合せずとも全員が拳を包んだ。一度だけ振り返った彼女の瞳には、悲哀が悔しさが色濃く浮かんでいた。


 大勢で囲んだ。

 誰も泣いていなかった。

 胸に来る激情の炎はあっても、外に放つことすらしなかった。

 震える拳を皆が握る。ポタリポタリと大地を紅く染めた。


「満たされた顔しやがって……御大将と鳳統様の晴れ姿を見るまで死なねぇって、言ってたじゃねぇか」


 第三の部隊長が零した。空っぽの抜け殻のような声が宙に溶ける。

 誰よりも最精鋭の奴等や副長に近付きたいと渇望していたこいつは、口惜しさがより大きいに違いない。


「なぁ副長……お前しか、御大将の右腕には……なれねぇんだぞ」


 全ての始まりより戦い続けてきた絶対の右腕。御大将の次に俺達と信頼を結び続けてきた男。代わりなど、誰にも出来るはずがない。


「なぁ副長っ……お前がいなけりゃ、誰が御大将のバカ野郎を止めるんだよっ」


 間違った時は止めてくれといつでも言ってきたあの人を止めるには、俺達の指標は必要不可欠だった。


「バカやろう……っ……バカ、やろぅ……くっ……ああっ、あああああああああっ!」


 荒げた声に反して、副長の襟元を掴む手は弱々しく。

 膝をついて泣き始めた第三のバカと同じように……俺の脚からも力が抜けた。


 胸に……穴が空いちまった。

 ぽっかりと、大きな大きな穴が。


 じわり、瞼に籠る熱が増していく。頬にナニカが伝った。

 ぎゅうと胸が締め付けられる。痛い、痛いのだ。

 苦しかった。今までで一番、苦しかった。


 ぼやける視界でどうにか見つめ続ける。顔はやっぱり満たされたまんまで変わらない。

 綺麗な笑顔だった。

 俺達徐晃隊が最期に浮かべる笑顔。

 後悔なんざ一つもしてない、生き抜いた証。


 もし、生きてればなんて戯言だ。

 もし、助かればなんて侮辱に等しい。

 もし……戻ってくるならなんて……思えるはずもない。


 例えやり直しが出来るとしても、俺達はソレを望まない。

 あったはずの幸せなんざクソ喰らえだ。

 救えなかった。救われなかった。でも……世界は続いてる。

 こいつらは俺達にこの世界の平穏を任せた。


 こいつらが命を賭けた意味を……無価値になんざさせるかよ。


 空を見上げた。

 雲一つない青空だった。


 ああ、雲なんざいらない。

 俺達は彼と共に駆ける天に、約束を交わす。


「“忘れんな”! 副長と最精鋭は皆、御大将と共に居るっ!

 “忘れてなんかやんな”! 俺らはこいつらと共に世に平穏を作るんだっ!」


 哀しい。苦しい。痛い。辛い。

 残された俺達はいつだって心に傷が増えて行く。

 でも、死ぬ奴等は一人だって後悔していない。


 生き抜いた奴等が繋いでくれたから、俺達はまだ戦える。

 皆の一番の願いは自分が幸せになることなんかじゃねぇんだ。


 俺達は想いの華を託された。

 後悔するくらいなら、前を向いて笑え、俯いてたら綺麗なもんも見れない、御大将と一緒に作る平穏な世を、しっかりと見ろって。

 きっと副長ならそう言うんだ。


 けど……今くらいは……お前の為に泣いたって、いいだろ?






 †






 幾度幾重の剣戟を避けるも、やはり凡人には限界があった。

 都合よく誰かが助けてくれることなどなく、都合よく想いの強さだけで圧倒的な差が埋まるわけもなく、目の前に塞がるのは生まれ持った才能という高い高い壁。

 自負はある。目の前の将よりも努力をしてきたと、部隊長は確信している。


「っ……がぁっ!」


 それでも……血反吐を吐き、命を賭けて尚届かない高み。あれだけ努力しても足りない。これだけ頑張っても足りない。

 横なぎの一閃をついに躱しきれず、受け流すことも叶わず、どうにか防いだ剣と槍ごと、身体が吹き飛ばされた。


 人は平等などでは無い。

 現代で社会的な権利が平等に与えられていようとも、生まれや才能の差は絶対にある。

 追いつきたい、追い越したいと願うから人は成長出来る。

 負けたくないと思うからこそ人は強くなれる。

 ただし、才持つものはいつだって、凡人を嘲笑うかのようにその努力を軽々と飛び越えて行く。


――ちょいと、訓練が足りなかったかねぇ……。


 一撃をまともに受けただけで笑う膝を叱咤しながら、部隊長は緩く笑った。

 理不尽だ、とは言わない。それを言ってしまえば徐晃隊ではなくなってしまう。

 抗うことこそ人の強さ。彼らの指標は理不尽と認めずに抗って抗って強くなってきた。

 足りなかったと思いこそすれ、弱者の弁舌を上げることはない。他人を責めることこそ、彼らにとっては無価値。


「どうした? 最初の威勢は何処にいった?」

「へ……へへ」

「ちっ……まだ笑うのか」


 浮かべるのは笑み。絶望に打ちひしがれた顔など、死んでも見せるつもりはなかった。

 ゆっくりと肩に鈍砕骨を担いだ焔耶を見ながら、部隊長は笑い続ける。


――ああ、でもなんだ……こいつの剣は……


 笑みの意味が僅かに変わる。

 まともに受けた事で、部隊長はあることに気付いた。


「はは、余裕だ。ぜんっぜん痛くねぇ」


 数多く受けた小さな傷からも痛みは全くない。肉体を凌駕した精神が痛みを消しているのだ。

 それでもふらつく脚は、自分が限界だと示していた。


「立っていることがやっとの男がよく言う」


 だらり、と部隊長は剣と槍を下げた。不敵な笑みを顔に張り付けたままで。

 せめて少しだけでも力を残しておこうと。


「へへ……それでもお前には負けねぇよ」

「まだほざくかっ」


 激発の声が場によく響いた。しかし包む空気の質は一筋も乱れない。

 誰が見ても勝敗など明らかであるのに、兵士達の誰一人として部隊長の敗北を信じておらず、勝利を確信していた。


「負けない、負けないんだ。俺らは……“徐晃隊”だからな」


 ついには、部隊長が目を瞑る。深く紡がれる呼吸だけを残し、ぴくりとも動かなくなった。


「おい、徐晃。もうやめさせろ。これ以上は無駄だ」


 もはや決したと言わんばかりに、コキコキと首を鳴らして焔耶が告げる。憎らしい、と秋斗を睨みながら。

 反して、彼は脚を組んだままでつまらなそうに目を細めた。


「無駄? なんでだ? まだ終わってないじゃないか」

「……お前と違って私は軽々と命を扱ったりしない。さっきは苛立っていたから売り言葉に買い言葉で答えたが、この程度の相手の命を奪っても価値が無い」

「へぇ……お優しいことで」


 淡々と言葉を紡ぐ彼の袖を、隣に立っていた猪々子が引いた。


「アニキ、あたいが行ってもいい?」

「あぁ? お前までそんなこと言うのか?」

「だって、だってよ……」


――副長や最精鋭ならいざしらず、第四はあたい相手に十人以上でも勝てなかったんだぞ


 思っても、口には出せなかった。

 下から睨みつけてくる黒瞳が、異常な殺気を映していたが故に。


「お前達が部隊演習で勝てないのはそのせいだ、猪々子」

「え……?」

「……官渡のあの時なら勝てたかもしれないが今は無理だな」

「それってどういう……」

「まぁ見てろ。線引きを越えたもんと越えてないもんの違いを」


 あくまで彼女を出すつもりはないようで、秋斗はふいと視線を切った。

 ゆっくりと焔耶に視線を合わせて、にやりと笑う。


「無駄だと思ってもまだ勝負はついてないぞ魏延。部隊長はまだ負けてないし、命惜しさに戦いを降りるような腰抜けじゃない。自分が行くって言ったなら、死んでも遣り切るのが筋ってもんだ」

「命を無駄に散らさせるなど……よくも貴様、劉備軍に所属出来たな」


 睨む視線は厳しく彼に向く。相も変わらず、秋斗の緩い笑みは崩れない。


「個人の命の使い方にまで口を挟むなよ。男の意地を理解出来ないようだから無理ねぇが」

「ふん、くだらない。その意地の為に命を捨てて、なんになるというのだ」

「男は意地張ってなんぼなのさ。それを穢すことこそ俺には出来ないね。お前にはこう言ってやろうか? “所詮、女如きには俺らのキモチなんざ分かんねぇよ”ってな。

 ほら、殺せるなら殺せ。殺さない限り終わらず、お前は俺と戦えないんだが?」

「……いちいちと癪に障るやつだ。殺す価値もないと言ってるんだぞ、私は」

「価値のある無しじゃなくて結果を示せ。それともアレか?

 劉備様だぁいすき!な魏延ちゃんはやっぱり人の命を奪う事にびびっちゃってんのかなぁ? きゃー、やっさしぃ♪」


 急に切り替わり、からからと笑いを浮かべた秋斗の煽りは、焔耶の苛立ちを増やさせるには十分。

 ビキビキと音が聴こえそうなほど額に走った青筋は彼女の苛立ちをまざまざと表していた。


「き、さ、まぁ~! いいだろう! こいつの後で叩き潰してやるから精々踏ん反り返っているがいい!」


 相手が悪い。人がどうすれば喜ぶかを考え続ける彼にとって、人がどうすれば怒るかは直ぐにはじける。

 曹操軍でも明の次くらいには挑発が得意なのだ。人を煽って思考誘導するのは、悪戯好きな彼としての本質に近い。行き過ぎれば怒らせると分かっているからこそ、丁度良く煽動出来るというモノ。

 桔梗は単純な挑発に乗ってしまった焔耶を見てため息を吐いた。


――しっかりと今の相手を見んか、このバカモノめ。


 兎であろうと全力で狩る虎であれと教えてきたはずが、その体を崩してしまった弟子の姿に額を抑える。

 少しでも成長に繋がればとは思うからこそ、口には出さなかった。

 動かなくなった部隊長を見やり、彼女は思考に潜る。


――部隊長にしてはよくやった方じゃが焔耶の方がやはり上。しかし結果が読めん。黒麒麟が何故あれほど勝利を疑っていないのかも。


 師匠である彼女にも……焔耶の勝敗の行方は分からない。十中八九は勝つと思っていた。しかし場の空気がまるで焔耶の勝ちを霧散させてしまうかのよう。

 誰が見ても負けとしか思えない実力差であるのに、焔耶の勝ちを確信とそう言いたいのに、彼女には言えなかった。


――否……これは“望み”か。時として、紡がれた“望み”は結果を手繰り寄せるものじゃ。


 都合のいい出来事とも呼べるし、積み上げられたナニカの結果と称賛すべきモノでもある……奇跡とは得てしてそういうモノ。

 焔耶と桔梗を除き、此処に居る全ての者が期待し信頼しているから、未来の確率が望みとして収束される。

 面白いモノよ、と彼女は笑った。

 自分でさえ、兵士が将に勝つという確率を見てみたいと僅かに思ってしまっているのだから。




 肩に背負った鈍砕骨が鈍く輝く。黒に所々ついた血の紅が篝火に照らされて色めく。

 一歩一歩と歩み寄った焔耶は、終わらせようと頭を冷まして行った。


「……何か言い残すことはあるか?」


 一応、一応だ。聞いてみるのも一興。

 出来れば殺したくないと思う。戦場で殺すのなら分かるが、こんな仕立て上げられたような場で殺すのは何処か違う気がした。

 だが、殺さなければ諦めないであろうことも事実。こういう敵は命を叩き潰さなければ終わらない。

 秋斗が止めれば殺さないで済んだはず。将の命令を聞くのが兵士の役目であり、絶対の理。いくら自分達から望もうと、である。


 自分が矛盾していることに彼女は気付かない。

 そして……彼の思考誘導で矛盾させられた事にも、彼女は気付かない。

 桔梗さえも気づかない。誰も彼もが気付かない。


 殺さなければ終わらないから殺す、では桃香の理想が叶えられないということに。


 折れない相手を前にして、彼女達の言う救いは何ら機能しない。


 意地だらけのバカ共を前にして、彼女達の語る理想は押し付けにしかならなかった。


 曲がらない想いを持つモノは、理想を語るモノに抗える。抗うからこそ世界は変わる。


 死んでも通したいモノがある……そういった意地っ張りの意思こそがいつだって世界を変えるのだと……彼だけは気付いている。


 そしてそれに気付かずとも……自分達の想いが世界を変えるのだと、徐晃隊の者達は信じて疑わない。


 武での勝敗はまだ出ずとも、矛盾を与えた時点で、そして想いを貫いた時点で……秋斗と焔耶の問答は彼以外気付くことなく勝敗が決した。

 部隊長の生き様が、桃香の理想を打ち砕く証明に足り得た。


「お前は俺達に勝てねぇよ……魏延」


 目を開いた部隊長の瞳には、想いの華を咲かせるバカ共に相応しい光が輝いていた。

 優しい笑みは、憧れた片腕の死に顔と同じような穏やかさ。


 夜風が寂しく吹き抜ける。

 振り上げられた凶器がぎらりと輝いた。

 両の手に持った剣と槍を、部隊長はギシリと握りしめた。正真正銘最後の力で、男の意地を示そうと。


 必殺の距離で振り上げられた武器を見上げながら、部隊長は穏やかな笑みを崩す事なく。

 やけにゆるりと落ちてくる鉄塊と、もどかしい程に遅い自分の身体の動きを自嘲しつつも……誇らしげに小さく、小さく笑った。


 走馬灯のように駆け巡る楽しい時の数々と、悲哀と絶望の記憶達。

 心を燃やすのはいつだって誰かへの想いと男の意地だった。


 死んだバカ共の声が聴こえた気がした。

 遠くで帰還を待ってるバカ共の声が聴こえた気がした。

 周りの奴等の声が響いた気がした。

 副長の声が聴こえた気がした。


 そして……からからと笑う彼の声が……


 轟、と燃えたのはナニカ。

 心の内に深く深く沈めていた負の感情と、自身の身と脳髄を焦がす程の絶望の記憶。


――俺はまだ、“忘れてねぇ”


 金属音と肉の潰れる音が一つずつ。


 ゆるりと黒が濃くなった宵闇の頃のこと。







 †







 なんでだよ。


 なんであの人が壊されなくちゃならなかったんだ。


 誰よりも想いを大切にしてきたのに。


 誰よりも世界を想ってきたのに。


 誰よりも“人”を愛してたのに。


 なんで“裏切り”を受けるんだよ。



――忘れないって約束したから



 俺らは信じたぞ。


 俺らはいつだって信じてた。


 敵になんざならねぇって信じてた。


 なのに、なんでだ。


 なんであいつらは信じねぇんだ。



――皆と一緒に繋いで来たから



 心の叫びが聞こえないのか


 信じてくれ、信じてくれって……


 いつだってあの人は心の中で叫んでた。



――大切に大切に想いの華を咲かせ続けて来たから……



 “忘れない”で繋いで来たから、壊されちまった。


 約束してきた世界を作ろうと、“忘れない”でいたから



――俺達の“御大将”は、俺達への強すぎる想いで壊れちまった。



 信じなかったら嘘になる。あの人は嘘つきだって思っちまう。


 嘘、嘘、嘘……全部が嘘になっちまう。


 あの人が繋いだモノも、あの人がしてきた約束も、あの人が“忘れない”で居ることさえも。



――俺達は……壊れちまうくらいに俺達を想ってくれるあんたと出会えて……世界で一番幸せな兵士になれたんだぜ?



 俺達は“忘れてない”


 ちゃんと“ホントノコト”を伝えてやらなきゃなんねぇ。


『御大将が幸せに暮らせる世界になるなら、それが俺達皆にとっての平穏な世界なんだってことを』


 だから……だからよ……













――こんな所で、死ぬわけにはいかねぇな。












 赤が垂れるも、肉片がはじけ飛ぶことは無かった。

 あらぬ方向に折れ曲がった腕、剣の腹を頭に当てて、部隊長は鈍砕骨を無理やり受け止めた。僅かに逸らせた軌道によって、右肩の肉に鈍砕骨の棘が刺さり血が流れていた。


「クク……軽いなぁ」


 苦笑が黒と似ているなと場違いな事を考えながらも、視線を合わせた魏延の瞳を覗きこむ。

 驚愕、焦燥、狼狽……戦場で行ってはならない感情変化を浮かべて、彼女は部隊長を見ているようで見ていない。


「な、何故だ……」


 必殺の一撃を防がれるとは思っていなかった。

 確実に叩き潰したと思っていた……普通であれば叩き潰せていたはずなのだ。

 自分の一撃を受けたのがたかだか部隊長。認めたくない現実、認められない事実に狼狽える。

 否……彼女の驚愕はそこでは無い。


『軽いな』


 耳に反芻される声。自分の一撃が軽いと、この男は言った。他の誰に聞いても重いと言うであろう一撃が軽い、と。


「……意思が足りねぇ、意地が足りねぇっ、想いが足りねぇっ!」


 叫ぶ。覗き込んだ瞳の奥底で、轟々と激情が燃えていた。


「俺は黒麒麟が身体、第四部隊の隊長だっ! 舐めんな魏延! 御大将の剣はもっと重かったぁ!」


 膂力は間違いなく焔耶の方が上であろう。しかしいつも受けてきた剣の“重さ”は……世界を乗せる剣だった。

 比べれば受けられないはずはなく、己の身を無視したならば……こうして受け止めることすら出来た。


「負けるかよぉ! 俺らの大好きな御大将を壊した劉備軍の下っ端なんざに!」


 憎しみと怨嗟、渇望と意地。数多の感情を綯い交ぜにした心は人間としてのリミッターを外し切っていた。


 この時点で徐晃隊としては勝ちだ。焔耶の武器の動きを封じた時点で、彼女は連携連撃の餌食となるのは相違ない。

 しかし部隊長は証明したい。己一人でもこの女に勝てることを。

 故に、彼は尚も言葉を続けた。


「軽いっ! 軽い軽い軽い軽い軽い軽いぜぇ! てめぇの剣には想いが足りねぇ! 可愛いなぁ魏延ちゃんよぉ! 人っ子一人、兵士一人潰せねぇなんて!」


 驚愕と焦燥に支配されていた焔耶を焚き付ける。狼狽から立ち直った彼女は、ギシリと歯を噛みしめた。


「黙れぇっ! 私が潰せない!? 私の剣が軽い!? 冗談じゃないっ! 肉を抉られているモノが強がりを! そんなに叩き潰されたいのならっ……」


 当然、激情の渦は伝播する。この陣に来た時からずっと積み上げられてきた幾重もの挑発が、彼女を激情の渦に呑み込んで離さない。

 この状況こそが、誰かの計算式の一つであるともしらずに。


 挑発は徐晃隊にとっては見慣れた光景。誰有ろう黒麒麟は人の心を操るに長けていたのだ。陣に入ってからの状況や彼の言動を鑑みれば、一人の将の冷静さを失わせるように動かしていたのは彼らから見ても明らか。

 それならば状況を利用するのが徐晃隊の特性であり、彼の思惑に合わせて“独自で動く”のが黒麒麟の身体として相応しい。


 これでやっと部隊長は、最精鋭の小隊長達と同等になったのだ。


「この一撃で果てろっ!」


 再び振りかぶられた鈍砕骨は大振りそのモノ。軌道を読むことなど誰でも容易い一撃に成り果てた。


――待ってたぜぇ……この隙をっ


 ずっと狙っていた。

 まず試したのは大地に打ちつけさせて威力を低下させること。疲れさせることが出来たなら御の字。時機も速さも分かり易い一撃が欲しかったから、部隊長は避けるに留めていた。

 疲れないとなればどうにか隙をこじ開けるしかない。戦いながら考えていたが、終ぞ浮かぶことは無かった。


 やっと得たのは覚悟を決めてから。

 大けがをせずにいる戦い方をしている時点で、自分達のソレとはかけ離れていたと気付く。

 だから誘った。だから力を残した。だから動かずに機を待った……挑発を重ねて合わせてくれた秋斗に感謝しながら。


 剣を持つ腕は折れてしまった。肩も抉られ、もう上がりそうにない。頭も無理矢理の受け流しの衝撃でくらくらする。

 しかし槍だけは……黒麒麟の角の如き槍だけは残っている。左手に持ったこの槍だけが、正真正銘最後の力。

 脚は膝が笑っている。しかしまだ少しだけは動いてくれる。

 見え見えの一撃に合わせるにしても、やはりギリギリとなるだろう。


――これで……この一撃でっ


 精一杯の力を込めて槍を握った。

 軋む身体を無視して右足に力を込めた。


「お前の――――」

「俺の――――」


 上段からの凶悪な一撃は確実に殺す為のモノ。

 下段からの頼りない一撃は勝利を掴む為のモノ。

 焔耶は受けなど考えていない。部隊長は受けるつもりなど元から無い。


 まだ死ねないと心を決めた部隊長は、不敵でありながらも子供のように笑う。


 正反対の言の葉を紡ぎながら、二つの影が交差した。


「負けだ――――っ!」

「勝ちだ――――っ」


 瞬きをする間の出来事で、儚き想いが咲き誇る。

 黒が抱く空の中で、一際輝きを放つ大きな星々よりも……小さな星々が色付ける空が美しかった。


 人の倒れる音が一つ。空に上がるは幾多モノ声。

 野太い声ばかりが張り上がるその最中で、黒はそっと頬を緩める。


 彼らの声に合わせて、秋斗は大切な約束を呟いて贈った。





 乱世に華を、世に――――







読んで頂きありがとうございます。



長くなったので分けます。


今回は部隊長の生き様。

読んで頂いた通りです。


次は結果とおまけ。


ではまた。


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