97 閉ざされた甕の中で
「必要な情報が取れたって、どういうことですか」
わたしは島木さんに尋ねた。
「彼は口を滑らせました。郁子さんが落ちたことと、スズムシの件です。なぜ、そんなことを知っていたのか? 彼自身が、ここに人をやって、指示して嫌がらせをしたのでなければ、郁子さんが警察にも報告していない転落事故のことや、『スズムシのいたずら』が車に仕掛けられたことをどうやって知るんです? スズムシなんて今日の夕方ですよ」
「ああ、なるほど」
「しかも、彼は、宮森さんがけがをしたことを最初は知らなかった。知っていたら、夕方のあの時間に電話を掛けてもまともに話ができないことくらいわかっていたはずです。ということは、仕掛けた人間が誰にせよ、その人物はスズムシの一件を仕込んだ後は、結果を見とどける余裕もなく羽音木を離れて、ここの情報を彼に上げる人間はいなかったということでしょう。奥様が宮森さんを迎えに行って、自転車を置きにもどってと、あわただしく出入りしていたことは、もしもこの近くに潜んで見ていればわかったはずです。そうすれば、何が起こったか探ろうとしたでしょうから」
「ということは、おそらくだけど、オレと島木さんがここに来たことも金山にはまだ伝わってないと期待していいんだね」
ツクモが島木さんに確認した。島木さんはうなずいた。
「はい。知らないと思います。私たちがここに来た、あるいは今もいる、ということがわかっていたら、いくらなんでもあんなに厚顔無恥に、すべての責任をツクボウに押し付けるような物言いはできなかったはずです」
「それがこちらのアドバンテージということですね」
父は腕を組んだ。
「あとは、彼の依頼を受けた人間がどこを拠点に、どう動いていたかを探れば、物証は揃えられます。どこを探すかが分かれば、生きた人間がそこにいた形跡は必ず残っているものなんです」
「あいつがどこに手下を置いていたかはわかるよ。空き家になっている、お祖父さんの量吉さんの家だろう」
ツクモが言った。確かに、言われてみれば可能性は高い。あまり山奥に潜んでいては、集落や神社を見張るには不向きだし、その一方で、集落の人が見慣れない人を目撃すればすぐ噂になる土地柄だ。身をひそめられるところは限られている。だが、あまりに当たり前のように断言するので、わたしは聞き返した。
「何か、根拠があるの?」
「スズムシだよ。量吉さんは、マツムシを飼っていた。集落の人がマツムシを不憫に思って、量吉さんが亡くなった後、マツムシの甕を壊して逃げられるようにしてやったと、ふみちゃん、前に言っていたよね」
「うん。マツムシが大量発生したんだよ。今も鳴いてるでしょ」
窓の外では、気の早い秋の虫たちが大合唱している。ほんのわずかだが標高が上がるせいか、羽音木は秋の虫が鳴き始めるのがふもとより少々早いのだ。チンチロリン、と高く響いて聞こえる特徴的なマツムシの声が、今年はひときわ多かった。
「ここからは推測になるんだけど、量吉さんは、マツムシだけじゃなくてスズムシも飼っていたんじゃないか」
「どういうこと? だって、スズムシは例年通りだよ」
マツムシが多いとみんな噂していたし、ツクモと関わったことで昆虫に意識が向かいがちだったので、わたしも今年は虫の声に敏感になっていた。リーン、リーンと鳴くスズムシの声が特に耳についた覚えはない。
「それが問題なんだ。マツムシとスズムシを庭で飼うのは、中に産卵用の枯草を入れるかどうかくらいの違いで、ほとんど同じ道具と方法でできる。ふみちゃんも前言ってたよね。素焼きの大きな甕を半分土の中に埋めて和紙で蓋をする、日本伝統の飼育方法だ」
わたしは虫が苦手だと公言していたので、直接見せてもらったことはないけれど、その飼育方法は量吉さんや近所のお年寄りたちから聞いていた話と一致する。
ツクモはわたしがうなずいたのを確認して話を続けた。
「量吉さんが鳴く虫を好んでいて、庭に余裕があれば、両方飼いたいと思っても不思議ではないし、庭に埋める甕が一つ二つ増えたところで、世話もそんなに負担にはならないはずだ。もし、量吉さんが昨年からマツムシとスズムシの両方を飼っていたのに、マツムシのことしか知らなかったご近所の人が、スズムシの甕のほうは壊さなかったら、どうなると思う?」
「スズムシは外に出られないね」
「そうだ。閉ざされた狭い甕の中でどんどん増えてしまっていたはずなんだ。そういう状態であれば、とっさに、たくさんのスズムシを用意することができた。数十頭はいたんだろ?」
わたしは夕方の車内を思い出して、身震いした。
「いた。すごくたくさんいた」
「いくらマツムシが大量発生していたからって、野外にいる昆虫を一頭ずつ網をふるって捕まえていたら、そんなたくさん、すぐに用意できないよ。スズムシは狭いところに閉じ込められていたから、そんなにたやすく用意できたんだ。むしろ、スズムシが都合よく手に入ることがわかっていたから、ふみちゃんを脅してやろうと思ったのかもしれない」
「わたしを脅す? なんで?」
もう、パーティの時にジャケットを切られて、十分嫌な思いはしている。なぜ、今、もう一度なんだろう。
「ふみちゃんが久しぶりに出かけたのが今日。しかも、医院で、森崎量吉さんとその家族の話を聞いていた。それを、あいつの手下が後をつけるなりなんなりして、立ち聞きしていたら?」
ツクモのその言葉で、わたしはふと思い出していた。院長先生が、最後に言っていた奇妙な言葉。『最後に入ったの誰だい? ドアはちゃんと閉めてくれないと』。最後と名指しされた善三さんは、自分は閉めたはずなのに、と納得がいかない顔だった。誰かが善三さんの後からこっそりドアを開けて忍び込み、待合室の話を聞いていたのだろうか。そして、院長先生が出てくる気配を察して、素早く身を隠した。ありえない話ではない。普段からよく知った顔しか来院しない、のどかな医院のことだ。院長先生だって、辺りにそんなに注意を払ってはいなかっただろう。
ツクモは話を続けた。
「手下は途中経過を報告しただろう。そうすれば、あいつは、ツクボウがこの一件から手を引いたとしても、ふみちゃん自身が持っている情報を繋ぎ合わせて、自分の身元に気が付く可能性があるということを察したはずだ」
「わたしが?」
「あいつはどうも、自分と量吉さんとのつながりは伏せておきたかった節がある。ここの出身者だと分かれば、さっき持ちかけようとした、調査や山林の売却の話に不都合があると思っていたのかもしれない。とにかくふみちゃんの注意をそらして、おびえさせるために、即興で指示して騒ぎをおこしたんじゃないか。オオミズアオに比べて、さらに目的もあいまいだし、仕掛けも行き当たりばったりだ。祭りをやめろなんて、筋が通らない脅し文句も脈絡がない。今の電話の話し方には焦りがあった。おそらく、あいつには時間がないんだ」
「脅迫状は? そんな急に用意できるもの?」
「スマホで作ってPDFデータにして、コンビニの複合コピー機で出力すれば、あの程度の文書は出先でだって簡単に作れる。金山が作って、手下のスマホにメールで送れば、すぐに用意できるだろう。この集落の中はコンビニがないけど、当然、ふもとの駅のほうまで降りれば、一軒くらいあっただろ。スーパーの中にだって、コイン式の複合コピー機が設置してあってもおかしくないし。この菓子箱は、多分、量吉さんの家にあったものだ。ほら、近くのお店の住所が書いてある」
菓子箱の裏に貼ってあったシールをツクモは示した。わたしが今日の昼間、一口饅頭を買ったのと同じ、ふもとの町の和菓子店の名と住所が書いてある。昼間に饅頭を買ったことなんて、もう何日も前のことのように感じられた。今日は色々ありすぎだ。
「消費期限が去年の十二月。量吉さんは年明けに亡くなったと言ってたよね」
饅頭から記憶が連鎖して、さっき医院で聞いた話を思い出した。
「量吉さんの従妹のトラおばあちゃんが、遺品の片づけに雇われた人がこのごろ量吉さんの家に出入りしているって言ってた。きっと、その人たちが金山さんの協力者なんだ」
「そうだろう。遺品整理と言えば、二人組くらいで出入りしていても不自然じゃない。手下が二人以上なら、片方がふみちゃんを見失わないように尾行している間に、もう片方が集落でスズムシを眠らせ箱に入れてから、それを持ってふもとに降り、脅迫状をプリントアウトする。それで、間に合えば医院の駐車場で、時間的に難しければスーパーの駐車場で、自動車に箱を仕込む。ふみちゃんが乗っているときにスズムシが動き出せば、一番効果的だ。でも、そうでなくても、車内を閉め切っていたら、次に自動車を動かそうとしたときに、ふみちゃんかふみちゃんママが大量のスズムシの死骸と対面することになるだろう。それだって、脅しとしてはかなり効果があるんじゃないか」
「……それは嫌だ。絶対悲鳴あげる」
わたしは顔をしかめた。そんなことにならず、ドアを開けてちゃんと逃がしてやれて本当に良かった。
「じゃあ、わたしが自転車ごと斜面から落ちたときの車も、量吉さんの家に止まっていた白い車で、金山さんの関係者だったってことなのかな」
「さっきの脅し文句にふみちゃんが落ちたことまで入っていたんだから、そうなるね。ふみちゃん自身でさえ、周りには自分の不注意で落ちたって言ってたのに、だよ。ドライバーはきっと、バックミラーでふみちゃんが落ちるのを見てたんだ。あいつ、絶対白状させてやる」
ツクモは吐き捨てるように言った。














