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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
第十章 対決

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96 蛇のように冷たく、蜜のように甘ったるい(後)

 島木さんがまたメモ帳に走り書きした。


<調査はツクボウが先約だと言って、反応を見てください>


「製薬関係とおっしゃいましたか。それは困りました。てっきり、大学の調査だと思っていたもので。実は、製薬関係も扱う企業から、先約で調査協力依頼があるんです。いま、ちょっと事情で中断しているんですが、先にお受けした以上、ライバル関係に当たりそうな企業が関わったご依頼を受けたとなると、筋が通せませんから」


『ツクボウが調査に入っていることは知っていますよ。でも、中断しているんでしょう』


「おや、ご存じだったんですか。ツクボウさんはこちらまで直接いらっしゃって、丁寧なご依頼をいただいたものですから、むげにはしたくないんです。日程も、調査範囲も、こちらの言い分を尊重してくださいましたし、中断に関してもこちらの事情を快く聞いてくださったものですから」


 これは多分、いきなり日程を指定したりして無礼な態度をとっていた金山さんへの、父の精いっぱいの嫌味だ。

 父は硬い口調で続けた。


「まずはツクボウさんの調査が中止なり、再開なり、話が進まないことには、他のご依頼の話を先に進めるわけには行かないんですよ。大学ならツクボウさんにもご相談すれば、お互い共同研究などの調整もしていただけるかと思って、お話を伺っていたんですが、出し抜くような真似をするわけには行きません。これは僕の信念と仁義の問題です」


 島木さんが深くうなずいた。首をかしげたわたしに、走り書きのメモで応えてくれる。


<相手の反論を誘ういい切り口です>


 電話の向こうの声は鼻白んだようだった。


『信念と仁義ですか。あなたがそんな風に義理立てしたところで、ツクボウはどうでしょうね。僕は先ほど、悪意のある人間に利用されたら、と申し上げました。まだ、お気づきでないでしょうから、不本意ながら僕から言わせてもらいますが、ツクボウはそんな仁義を通すつもりはみじんもありませんよ』


 ツクモは、身じろぎもせず、甘ったるい声でしゃべり続けるスマホを穴が開きそうなほど強い視線でにらみつけていた。


「どういうことですか」


『神社の周りで、奇妙なことが起こっているのではないですか。しばらく前、お嬢さんが山道で落ちてけがをなさったんでしょう。出かけられた先でも嫌な思いをされたとか。奥様の車に、こざかしいいたずらも仕掛けられていたんでしょう。スズムシでしたか。姑息なやり方ですよ。いくつかの件に昆虫が絡んでいるあたりも浅い。築井の考えそうなことだ』


「何をおっしゃりたいんです?」


『正体の見えない不審ないたずらが周囲に重なって、ご家族が怖い思い、痛い思いをされた頃合いを見計らって、親切そうな顔で、神社を畳んで山林を手放すのであれば引き受けますよ、と水を向けるつもりなんでしょう。神社のご神域の谷にどんなに価値のあるものが眠っているのかをそちらにはきちんと知らせないまま、買い叩くつもりなんです。見つかった新種の植物が、新しい薬品や原料の開発に資することがあれば、利益ははかり知れませんから、ここで少々手の込んだ細工をしたところで十分に見返りはある』


「手の込んだ細工?」


『不審な事件の裏で糸を引いているのはツクボウですよ。ここまでの脅しで宮森家がびくともしないなら、次はインターネットに怪情報を流すような真似でもして、先ほど言ったような、興味本位や批判したいだけの連中を煽り立て、ご家族がその土地にとても住み続けられないと思うまで、騒ぎを大きくするつもりでしょう。娘さんがもっと危ない目や嫌な目に遭う可能性だって、大いにある』


「そんな、まさか」


『ですから、悪意を持った人間に利用されたら大変だ、足元に火がついている、とお伝えしたんです。悪意を持った人間の心当たりなしにそんなことを申し上げたわけではないんですよ。相手の善意を信じたい、宮森さんの純粋なお気持ちはお察ししますが、大切なお嬢さんや奥様に、もしものことがあってからでは遅いのではないですか。今ならまだ間に合う。今すぐ、うちの調査を入れて、うちに山林を売却するように進めていけば、奴らのターゲットはこちらに変わる。ご家族の安全が確保できます』


 ツクモの手が、血色を失うほど強く握りしめられた。横顔を見ると、奥歯をかみしめるように頬のあたりが動いた。肩にもひどく力が入っている。


 そんな言葉、わたしもお父さんも信じるわけないのに。


 でも、そう言ってツクモを責める気にはとてもなれなかった。この二人はどんな学生時代を送ってきて、いまこうして電話のあちらとこちらで対立することになってしまったんだろう、と思うと、悲しかった。


「あなたはどうしてそんなことまで知っているんですか?」


 父がとっさにした質問に、島木さんは再び大きくうなずき、ひざの上においた手をわずかに握って軽く親指を立てた。いい切りこみだ、と言いたいのだろう。


『……僕は同業他社につながりがあると申し上げたでしょう。蛇の道は蛇です。他の連中が何をやっているか、お互いにそれなりに把握はしているものなんですよ』


 島木さんはすこし口の端を上げた。小さい字で書いたメモを、隣に座ったツクモに見せる。わたしにもちらっと見えたそれには、<ひるんでいる>と書かれていた。島木さんはすぐに手帳の新しいページを出し、急いで次の言葉を走り書きして父に見せた。


<一度直接会いましょうと提案してみてください。おびき出しましょう>


 父も軽くうなずいて、混乱したような調子で、うなるように言った。


「一度、直接会ってお話しするわけには行きませんか。僕も、あなたの言うことを電話だけで鵜飲みにはできない。顔を見て話がしたい」


 父にも多少の芝居はできたらしい。その言葉は、本当に困惑して、決断しかねているように聞こえた。


『ようやく、話を聞く気になってくれましたか。おけがでは大変でしょうから、こちらから伺いますよ』


 電話の向こうで、舌なめずりをするような気配がしたような気がした。


「明日、入院して手術なんです。さすがに、その前後では時間が取れないんですが」


 父は目顔で島木さんに助けを求めた。

 島木さんがすかさずメモを見せる。


<あさって、病院の面会時間の午後三時に、病室で>


「明後日、午後三時くらいには、もうお話しできる状況になっていると思います。病室まで来ていただくわけにはいきませんか」


『いいでしょう。病院はどちらですか』


「L県M市立病院の整形外科です」


『わかりました。では、明後日の午後三時に。くれぐれも、他の人間によけいなことは言わないように。ツクボウにこちらの動きが気取られたら、厄介なことになるのはそちらですよ。こちらが秘密を守ることに関しては、信頼していただいて構いません』


 そして電話は切れた。


「お疲れさまでした。ばっちりです。必要な情報はかなり取れました」


 満足げな島木さんとは対照的に、ツクモが泣きそうな顔で父を見た。


「宮森さん」


 父はツクモを見て破顔した。


「わかってますって。僕はそういう意味で築井さんを疑ったことはありませんよ。築井さんがうちを罠にかけようとしているなんて、あんな与太話、信じるわけがありません。あれはおそらく、彼がこうしたいという本音をそちらに押し付けて、人のことのように話したんでしょう。こんな親父ですけどね、人を見る目だけはあるつもりです。先日はちょっと怒っちゃいましたけど、それだって、あの時郁子に言われていた通り、築井さんが悪いのではないことくらいわかっていました。いい年をして、お恥ずかしい限りです」


「……ありがとうございます」


 ツクモは神妙な顔で深々と頭を下げた。

 ツクモが何を不安に思っていたのか、父はツクモの一言ですぐに分かったのだろう。


 父はのんびりした良くも悪くもマイペースなタイプだが、相手の心情の動きに関してはめったに見立てを外さない。神職は神様に仕える仕事でもあるが、参拝客や祈祷を依頼してきた相手の思いや願いに沿って、祀りごとにそれを反映させるという意味で、人の世に奉仕する仕事でもある。代々引き継いできた神職の仕事に向き合ってきたからなのか、若いころは写真家を志して人の外面的な表情と内心の感情を常に観察してきたからなのか、そのどちらでもあるだろうが、ここぞという場面で相手の本意を見抜く直観力という点で、わたしはいつも父を尊敬してきた。


 父の目が曇るのは、親ばかフィルターと愛妻家フィルターが関わるときだけである。それにしてもチャリティ・ガラの日からこっち、わたしに言わせれば錆び付いてしまったんじゃないだろうかと思うほどいただけない態度を取っていたが、やはり父は父だった。わたしは内心で胸を撫で下ろした。

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ヘッダ
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フッタ

― 新着の感想 ―
[良い点] 島木さんの術中に嵌ってしまい、道化芝居を演じているのに気付けない金山さんが哀れですね。 しかし、自分で自分の胡散臭さを誇張しなくても良いのに。 典型的な自滅型で、おまけに承認欲求と自己顕示…
[一言] お父さん頑張りました。 根が優しい人に駆け引きはキツいですよね。
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