91 謝罪と和解
医院から帰ってきた父は、足首の痛みと、この前邪険に追い払ったツクモが来ているという居心地の悪さからか、かなり機嫌が悪かった。母が簡単に事情を説明して、まずは話を聞くように説得しておいてくれたので、即座に追い返すようなことはしなかったのだが。けがのせいでビールを飲めないというのもよくない。父は飲まない日があっても平気だが、飲めない日があるのは好きではないのだ。
だが、そんな父も、島木さんとツクモが大まかな来意を説明すると、真剣な表情にあらたまり、食事は後回しにして話を聞く、とうなずいた。島木さんが今日わたしに起こった出来事や、自転車のブレーキワイヤに人為的に切られかけた痕跡があったことをてきぱきと説明するのを聞きながら、父は腕を組んで考え込んでいた。
「いつ郁子さんの車にスズムシが入れられたのかですが、郁子さんの行動を伺う限り、医院の駐車場か、スーパーマーケットの駐車場のどちらかだと思います。昆虫をどの程度の時間眠らせるかは、薬品の量の調整である程度コントロールができると、開発者の飯田は言っているんです。郁子さんは、車を停めているときに、空気がこもらないように数センチ窓を開けていたと言っていましたね」
「はい。父も母もそうしているので、習い性で」
わたしが答えると、島木さんは諭すように言った。
「それ、今後はやめた方がいいですよ。その数センチから、先端がかぎ状に曲がった専用の道具を差し込めば、ドアロックは結構簡単に外せるんです。キーの閉じ込みなんかの時にそれで開けたりするんですけど」
両親は顔を見合わせた。
「この辺は車上狙いしようにも人が少なくて効率が悪いからか、被害にあったことがなかったんです。もっと都会に出たときや、この近辺でも長時間とめるときには、気を付けるようにしていたんですが。やっぱり、そういうことってあるんですね」
母が言う。島木さんはうなずいた。
「今回は物盗りではなく、物入れだったわけですが」
わたしがスーパーの駐車場で感じた、そこはかとない違和感は、車内の物の位置がほんのわずかに変わっていたことなどによるのだろう。
「脅迫文は、おそらくここで見る限り、全国どこにでもあるコイン式の複合プリンタで印刷されたものでしょう。研究所に来ていたものもそうでした。そして、ツクボウに来ていたものとここにあるものの、言い回しはよく似ている。スズムシの仕掛けが昆虫麻酔薬を用いて行われたものだろうという推測と合わせると、敵は同一とみなして問題なさそうです」
島木さんの言葉にツクモはうなずいた。先を引き取って父に言う。
「敵の目的は、われわれを調査から撤退させることだけではなく、その代わりに、自分たちが何らかの形でご神域にアクセスすることではないかと思うんです。うちが手を引いた結果、メッセージの内容と送り先が変わったわけですから。何か、お心当たりはありませんか」
腕を組んだままだった父は顔をしかめた。うつむき加減だった顔を上げ、ツクモに向き直る。
「その前に、僕は一度はっきり、築井さんにお聞きしたいんです。なぜ、もう一度来られたんですか。築井さんの目的は何ですか」
「ちょっと、お父さん! また失礼なことを言う気なの? わたしが困ったとき、電話でアドバイスをくれて、家まで無事に帰らせてくれたのはツクモだよ。ツクボウだって脅迫状で困ってるんだし」
父は、わたしの言葉を無視してツクモを見据えた。
「築井さんは僕の言うことに従って手を引いた。それで、もう関係ない、と言ってもよかったはずです。娘にも。なのに、なぜ、まだ関わろうとおっしゃるんですか」
「なんでそんな意地悪な言い方するの?!」
ツクモはわたしを無視しなかった。ちらっとわたしの顔を見て、少しだけ頷いた。
オレは大丈夫。
そんなつもりの頷きだろうか。
ツクモは父に視線を戻した。顔をまっすぐに上げて背筋を伸ばし、父に負けないくらいの、強い視線で見返した。
「私の目的は、郁子さんとご家族の安全です」
父はわずかに目を見開いた。
「うちが手を引いて、こちらへの嫌がらせが止むのであれば、これ以上無理をして調査研究を続けるつもりはありませんでした。でも、その後わかってきたことから、相手が、羽音木山と七曜神社そのものにこだわっているのは間違いない。結果的には、私たちが手を引けば満足するという案件ではなかったわけで、今後もやはり、郁子さんや宮森さんご自身、奥様に、危険が及ぶ可能性は存在するんです。現に、宮森さんの怪我は深刻ですよね。その自転車は、奥様も郁子さんも乗る可能性があったものではないですか。郁子さんも、スズムシでパニックになれば、ハンドル操作を誤ってもっと深刻な事故に遭う可能性があった」
ツクモはいったん言葉を切って、呼吸を整えた。隣にいるわたしには、彼がひどく緊張しているのがよくわかった。
「ですから、うちの脅迫に関わっていた犯人が、昆虫麻酔薬というリンクで神社の脅迫にもつながっている以上、まず、こちらにわかっている情報をすべて、宮森さんにお伝えしなければならないと思いました。ここの主は宮森さんですから」
「ツクボウさんは、手を引いても痛くもかゆくもないでしょう。そうしたところで、文化的研究を一つ、中断するだけなんだから。もう手を引いた、関係ないとはっきりさせれば、ツクボウさんへの脅迫はこのまま止む可能性が高い。むしろ、危害が及ぶ可能性があるのは、僕の家族と神社です。もちろん、僕にもそれはわかっている。だから、それなのになぜ厄介ごとの渦中に戻ってこられたのか、とお聞きしているんです」
父は苦い顔をした。
「うちから無断で持ち出された未発表の研究成果、昆虫麻酔薬ですが、それが人を傷つける目的で使用されているという点は許しがたい。開発者の飯田としても、そんな目的で作ったものではないんです。それに、私個人としては、宮森家に危害が及ぶのは困ります。郁子さんは私にとっても大切な友人です。見過ごすわけにはいきません。私が調査研究に巻き込んだ結果、相手の注意をこちらの神社にひきつけてしまったのだとすれば、道義的責任もあります。ですから、私が持っている情報をお伝えしたうえで、宮森さんにお願いするつもりで来ました。私は、この件については、最後までお付き合いをさせていただきたいんです」
ツクモはまっすぐに顔を上げたまま、言い募った。
父は目をつぶってため息をつくと、のろのろと言った。
「……わかりました。郁子のことを考えてくださってありがとうございます。僕は先日、あなたに大変失礼なことを言いました。どうか、謝らせていただきたい」
そして父はやっとわたしのほうを見た。穏やかな声で言う。
「郁子。これでいいんだろう」
わたしはうなずいた。こらえていた涙が、一筋だけ頬をこぼれた。
「さあ、ちゃんとした話をする前に、腹ごしらえをしよう。郁子はみんなのカレーをよそってきてくれ。食べ終わったら、父さんがお茶を入れるから、みんなの分の水ようかんを出してきてくれないか。先週もらったやつがあっただろう」
「あ、おかまいなく――」
島木さんが中腰で断りかけたが、父は手のひらを見せて押しとどめた。
「僕が気になっているんです。きちんと全員で食事をとった後、甘いものでも食べながらでなければ、これ以上、こんな荒唐無稽な話はしたくない。落ち着いて、エネルギーをちゃんとつけて、その上でじっくり検討しましょう。僕はここで生まれ育ったし、帰郷してからもう二十年以上宮司をしていますが、あんな何もない神域をめぐってこんなわけのわからない事件に巻き込まれたのは初めてだ」














