73 顔の見えない敵
会場に戻ると、もうオークションがほとんど終わる頃だった。ステージの上、桐江さんの傍らにあるテーブルには、父が用意した反物にも売約済みの赤い造花がつけられて、他の品物と一緒に並んでいる。
最後の品物は、このオーベルジュの一泊二食つきペア宿泊券だった。由奈ちゃんがさっき、ドラマのプロデューサーだと教えてくれた薄い色つきのサングラスの男性と、地元の中堅食品メーカーの社長が景気よくビッドを重ねていく。社長は県内に限って言えば知らない人のいない有名人だ。夕方の時間帯にローカルTV局で集中的に放送される自社CMに満面の笑顔で出演し、主力商品のドレッシングを掲げて社名とキャッチコピーを連呼しているため、わたしも見ただけですぐそれとわかった。
競り合いの最後は社長が大きく値を上げて、キリよい大台にのせて落札した。会場は歓声に沸いて、ほんの一瞬前まで争っていた男性二人は、笑顔で握手を交わした。プロデューサーの男性は観衆の方に向き直ると、社長の拳を天に上げさせて肩を叩き、勝利をたたえた。さすが映像の仕事をしている人は、見せ方も心得ている。
司会の女性が観客のどよめきをしずめて、凉音ちゃんと小児病院の院長をステージに招き入れた。離れたところからとはいえ、同じ部屋で見る凉音ちゃんは、画面の中やホールのステージ上に見るより、もっとほっそりして華奢で、顔も小さくて、奇跡みたいに愛らしかった。これから、関係者挨拶が始まるのだ。
会場の一番後ろで、人混みから少し離れてステージを眺めていたわたしたちに、桐江さんが静かに近づいてきた。
「ちょっと、文史朗。こちらにいらっしゃい」
圧し殺した声でツクモに言う。
「だめ。さっき言っただろ。万が一のことがあれば、ふみちゃんのご両親に顔向けできない」
ツクモもおなじく圧し殺した、硬い口調で言い返す。
「目は離さなくていいから、わたくしの話をちゃんと聞きなさい。ごめんなさいね、郁子さん。そちらで、親子の話を少しだけ」
桐江さんはずるずるとツクモを引きずるようにして数メートル下がり、何か小声で訴えかけている。ツクモはものすごく嫌そうな顔で何事か相づちをうったり、言い返したりしているようだった。
わたしは、凉音ちゃんの話が聞きたくて、ステージに注意を向けた。
「……ロケで滞在した間、ここの暮らしにすっかり魅了されてしまいました。食べ物はどこでいただいてもおいしいし、景色もきれいで。映画の作中で、夜、屋上のシーンがあったのをご覧いただいたかと思うんですが、思い出していただけますか? あの星空は、監督が、CGではなく本物を撮りたい、と、星空を撮影するためにこだわって高感度カメラを用意して撮影した、特別なカットなんです。私もこちらに来て初めて夜空を見上げたときに、星がこぼれ落ちそうな空ってこういうことを言うのかって……」
凉音ちゃんは、会場の半分くらいが地元の人間なのを聞かされていたのか、ここでの撮影の思い出を語り、土地を褒めてくれた。この心配りが、本物のスターだなあ、などと感動していると、疲れ果てた顔のツクモがわたしの隣に戻ってきた。
「お母さんのお話、もういいの」
「オレはお腹いっぱい。もういい。でも、母は言い足りないらしくて、今度実家に顔出す約束をさせられた」
あの人の言ってることの理屈が意味わかんないんだよ、とぼやく様子は、愛情たっぷりに可愛がろうとするお母さんを邪険にする中学生男子そのままの口調で、わたしは思わず笑ってしまった。ツクモとお母さんが双方かなり浮世離れした人たちだとしても、子どもを心配するお母さんと、ついつい反抗してしまう子どもの構図は結局変わらないのかも。
病院の院長先生は、映画の元になった三十年ほど前の出来事の思い出を語り、病と生きる子どもたちのエネルギーを讃えつつ、社会への理解と協力を訴えかけて、病院への寄付を感謝する言葉で挨拶を締めくくった。
いつの間にかステージ横に戻っていた桐江さんが、院長先生のスピーチにハンカチで目元を押さえてから、明るい声で、パーティーへの参加に感謝して閉会の挨拶をした。
人々はおしゃべりをしながら、ぞろぞろとロビーへ向かい始める。この後、飲み直す相談をしている人々、連絡先を交換する人々などで、流れはあちこちに淀みができていた。いつの間にか会場に入ってきていた島木さんが、クロークでできるひときわ大きな人の流れの淀みの近くに立って、さりげなく視線を配っている。
ツクモも、すぐに出入り口の方には向かわず、壁際にいくつか置かれていた椅子の一つにわたしを座らせると、陣取っていた後方の位置から静かにフロア全体を見守っていた。
ほとんどの客が出て行くまでに、二十分ほどを要しただろうか。桐江さんのもてなしは大成功で、ほとんどの招待客はゆったりした満足感と名残惜しい気持ちを抱えての散会となったようだった。その桐江さんは素早くロビーに出て、客と別れの挨拶を交わしているようだった。華やかな話し声や笑い声が、開けたまま固定された扉の向こうから響いてくる。
「とりあえず、今日のところはもう何も起こらなさそうかな」
ツクモはそう言って、わたしの手を引いて立たせると、クロークに向かった。今手に持っている小さなバッグ以外の手荷物と、試写会の時に着ていたジャケットを預けてあったのだ。
オオミズアオの鱗粉まみれになってしまったショールは羽織るわけにもいかず、畳んで手に持ったままだった。そのショールを受け取った手荷物のサブバックに入れて、麻のジャケットを羽織ろうとしたときだった。
「あれ」
妙な手触りを感じて、わたしは羽織りかけたジャケットを脱いだ。
変に生地がつれるような感覚がある。広げて、やや光量を落とされた会場の照明で確かめようとした。
思わず、息を呑んだ。
「……何これ」
ジャケットの後ろ身頃、左肩からわきの下の方向に向かって、鋭い刃物で切り裂かれたように、大きく生地が裂けていたのだ。
隣からのぞき込んだツクモが顔色を変えた。
かさり、と違和感のある感触と微かな音に気づいた。ポケットだ。
わたしはわずかに震える指でポケットを探った。見覚えのない、四つに折りたたんだA4のコピー用紙が入っていた。
広げてみた。
無機質なワープロ打ちの文字がたった二列並んでいた。
『七曜神社と羽音木山の調査は即刻中止せよ
無用な詮索は奥谷の祟りを招くだろう』
背筋を氷のように冷たいものが滑り降りた気がした。さっき、スカートの裾に刺さっていた、小さいけれど鋭利に尖っていた刃を、喉元に突きつけられたような気がした。ツクモを通して島木さんに預けてしまい、そのことについてなるべく考えないようにしていた自分が、いかに楽天的だったかを思い知らされた。
間違いでも気のせいでもない。それは、わたしにはっきりと向けられた敵意だった。
「貸して、ふみちゃん。島木さんに分析とか頼むから。ちゃんと調べる。誰がこんなことしたのか、絶対突き止めて、後悔させてやる」
顔の見えない敵に叩きつけるような激しい言葉とは裏腹に、ツクモはコピー用紙をわたしの手からそっと抜き取った。
ツクモの手が、もうそこが定位置になったみたいに、背中の下の方に添えられるのを感じた。わたしを慰めて元気づけようとしてくれる温かい体温を感じたけれど、一度背筋を凍らせた悪寒は消えなかった。
帰りの車中、ツクモは口数が少なかった。














