64 桐江さん
ツクモの御母堂が用意したパーティ会場は、駅から少し離れた場所にある、評判の一軒家の料理宿だった。メニューはシェフお任せのコース料理のみで完全予約制。宿泊客にのみ提供される朝食も絶品だという評判で、県外からのお客さんも多いらしい。一見さんお断りというほどでもないけれど、紹介のある予約を優遇するといううわさもある。こういうパーティも引き受けるとは知らなかったが、いずれにせよ、わたしの家族のような一般庶民には、基本的に縁のないお店である。
わたしはついきょろきょろしたくなる不安まじりの好奇心をぐっと押さえて、ツクモのジャケットの左肘のあたりの生地にかけた指先に力をこめた。
こんなフォーマルな場面は、一昨年、遠縁の親戚のお姉さんの結婚式に招かれたとき以来だ。
若い人が気後れしなくていいように、年配の人たちもファストファッションで遊ぶことにして、カジュアルな会にした、とツクモのご母堂は言っていたらしい。これでカジュアルならフォーマルな会ってなんなんだ。ファストファッションの定義が、わたしや由奈ちゃんと、ここにいる人たちで違ったという残念な事態だけは勘弁願いたいのだけど。
受付で記帳し、父から言付かってきた寄付の反物を渡しただけで、内心はへとへとである。よく知りもしないで、とんでもない安請け合いをしてしまった、と、わたしは二週間ほど前の自分をどやしつけたい気分でいっぱいだった。
とはいえ、今そんな後悔をしても仕方がない。
わたしは意識して細く長い深呼吸をし、おなかに力を入れて肩に入っていた力を逃がした。
母が昨夜わたしに伝授してくれた、どんな場面でも気後れせずに切り抜けるコツは、いい姿勢、はっきりした返事、控えめな笑顔、自分の話はできるだけ短く切り上げて相手に話させる、の四つだった。まさに、金言である。言葉にすればシンプルだが、完璧に遂行することのなんと困難なことか。
冷房が少し強い。由奈ちゃんが選んでくれたかぎ針編み風のゴールドのラメ糸のショールを肘にかけていたが、ネットのような粗い編み目で、ひやりとした風を防いではくれなかった。
ツクモがちらっとこちらを振り返った。小声で尋ねてくる。
「緊張してる?」
「映画が始まる前のツクモくらいにはね」
「じゃあ、相当だ」
ツクモはあっけらかんと笑った。とっさに口をついて出た、八つ当たり気味の小さな嫌味が完全に不発に終わって、自分の器の小ささに気づいてがっかりしてしまう。ツクモは本当に映画は苦手そうだったのに、逃げないでやりとおした。わたし自身がいくら緊張してイライラしているからって、こんな風に当てこするネタにしていいわけじゃないのに。
「大丈夫。今日は、あっちのグループが目立つから。オレは半分裏方みたいなもんだし、ふみちゃんも気軽に楽しんで」
ツクモが控えめに指し示したのは、フロアの向こうの方でわっと楽しそうな笑い声をあげた、ひときわ華やかな集団だった。試写会の会場で、由奈ちゃんが若手のモデル、俳優と教えてくれた辺りだ。
ツクモが由奈ちゃんの美貌に一切動じなかったのも、こういう人達と会う機会がしょっちゅうあるのならなんとなく納得だ。いや、ツクモがその辺に全く興味がない、という理由も大きいんだろうけど。
今さらながら、自分の地味さには気が引けてきてしまう。周りから見ると、俳優さんたちに混ざったって見た目や堂々としたふるまいでまったく引けをとらないだろうツクモに対して、わたしはかなり釣り合わない連れだろう。
「俳優さんやモデルさんたちでしょ」
「ここは県内ローカルのCMやテレビ番組が多くて、東京からの往復もそんなに大変じゃないから、売り出し中のタレントさんにはちょうどいい仕事があるんだって。有望な若手に経験を積ませたい事務所関係の人が、県内企業のトップやローカル局のキャスティングに影響のある人たち、ついでに母が東京から呼んできたテレビや映画の関係者に自分のところのタレントや俳優を売り込みに来てるんだ」
「売り込む方も、人材を探す方も、大変だ。ならきっと、県内の人は半分以下だね。東京でやって県内の人をよぶ方が早かったりして」
東京からこんな地方まで来たついでに観光を絡めようにも、このあたりは温泉や有名観光地には乏しい。試写会と、このパーティーがあれば、県内のもっと観光地化しているところに足をのばす余裕はなくなってしまうだろう。
「母に言わせると、東京組の中には少なからず、違う場所でやるからこそ来たくなる人種もいるらしいよ。それに、テレビや映画の制作側の人たちは、この辺を番組のロケで使いたかったり、小口でもいいからスポンサーが欲しかったりもして、地元企業の人とかとも仲良くしたいんだって」
「ロケ? この辺、珍しいものなんて何にもないよ」
田んぼと畑と山、あとは全国どこにでもありそうなチェーン店、建売の住宅街、無個性な駅前繁華街。羽音木にあるような、古いだけの家並み。地元愛はあるけれど、正直、よそから来た人にとってどれだけ魅力があるのか、とは思う。
「例えば、爆発シーンとかスタントの絡むものは都心だと撮れないから、東京から遠すぎず、土地の広いこういう地域で場所を探すことが多いんだって。それに、昭和の建物がらみの風景とか田園風景ね。そういう話、興味があったら制作関係の人紹介するけど」
何でもないことのようにあっさりと言われて、わたしは慌てて首をぶんぶん横に振った。これ以上緊張の種は増やしたくない。
そんなわたしを見て、ツクモはにこにこうなずいた。くそう、余裕だ。普段、人づきあいが苦手だと言っている人とは思えない。ツクモ自身はここで得るものに何も期待していない傍観者だから、猫かぶりモードにスイッチすれば困らないということなのだろう。
「そんなわけで、そっちはそっちで完結してくれるから、オレは母の個人的な知り合いに挨拶したら、後は、会場運営がうまく行ってるか気を配るだけでいい」
そして、そのご母堂の個人的な知り合いの中に金山さんがいるというわけだ。
わたしは知らず、ツクモのジャケットの袖をきゅっとつかんでいた。
「オレの仕事は準備が九割だから。今日はトラブル対応だけで、あとはここにいることそのものが仕事みたいなものだから、もうほとんど終わったも同然」
けれど、トラブル対応、と言ったときに、その表情が少しだけ曇ったように見えたのは、私の過敏になっている神経が見せた錯覚だけでもないような気がした。
「金山さんは? 来てるの?」
「さっきふみちゃんが書いてた記帳を見るかぎり、まだみたいだね」
ツクモはちょっと顔をしかめた。
「今から気にしてもしょうがないよ。……まず、おふくろに紹介したいんだけど、いいかな」
後半は笑顔になって言う。
わたしは母の言葉を思い出して、もう一度深呼吸した。やっぱりちょっと緊張する。七の段を逆唱しようか。でも、とちったら延々と緊張から抜け出せなさそうだ、と思ってやめた。腹をくくるしかない。
「いいよ」
ツクモはわたしの様子をじっと見ていたけれど、わたしがいいよと言うまでは急かしたりしなかった。
◇
ツクモのご母堂の周りは人でいっぱいだった。今日のホストなのだから当然だ。ツクモのお兄さんはたしか、四つ上の二十八だと言っていたけれど、そんな大きいお子さんがいるとは信じられないほど若々しくて、エネルギッシュな印象の人である。堂々として、明るく張りのある声がよく響く。アップに結い上げた髪はきれいな栗色だし、黒いカシュクールのロングワンピースをまとった体の線はふっくらと肉付きがよいけれど、よけいな贅肉は一ミリもついていないことが伺える。ツクモと切れ長の目元がよく似ている。並んで立っていたら年の離れた姉弟と言っても通ってしまうかもしれない。羽音木にはいないタイプの人種だ。
笑いながら恰幅のいいおじさんとハグをかわして、今日は楽しんでくださいね、などと言っていたご母堂が、ふっとこちらを見た。目が合った瞬間、ものすごい迫力を感じて、思わずツクモの陰に隠れてしまった。塗り壁みたいにしっかりしているツクモの体格に感謝したのは、これを含めて数えるほどしかない。
次の瞬間には、彼女は突進するようにわたしたちの前に来ていた。
「文史朗さん! わたくしにお友だちを紹介してくれるんでしょう?」
ツクモは少し硬い笑顔で片足を引き、陰に隠れていたわたしの背中に左手を添えて、彼女とわたしが向かい合うようにした。
「宮森郁子さん。今、調査でお世話になっている、ここの隣町にある七曜神社のお嬢さん。……ええと」
わたしの方を振り返って、上に向けた右手のひらでご母堂を示した。
「ふみちゃん、母の桐江です」
郁子がこれから行くところは異世界なんだよ、という由奈ちゃんの忠告が、どこかで文字通りのイメージとして頭にこびりついていたらしい。これは、欧米の歴史ものの映画なら、わたしは片足を後ろに引いてスカートの裾が床でふわりと広がるくらい膝をかがめ、淑女の礼をとるタイミングだ。そんな思いがちらりと頭をよぎって、そんな場合ではないのに、笑いそうになってしまった。そのお陰でふっと緊張がほぐれ、わたしは神社の行事の手伝いで覚えた、一番正式な礼をした。
「宮森です。今日はお招きいただいてありがとうございます」
「まああ、なんて可愛らしいお嬢さんなの! 文史朗さん、もっと早く紹介してくれればよかったのに!」
ご母堂――桐江さんの華やかなレッドブラウンの口紅で彩られた口が、丸くOの字に開いた。欧米人のようによく表情の動く人である。
「もっと早くもなにも、まだ知り合いになって一か月とかだから」
ツクモのささやかな抵抗などお構いなしに、桐江さんはわたしの両手をとった。
「こんな素敵なお友だちが、うちの子にいるなんて知らなかったわ。自分から家族のいる席にお友だちを連れてくるなんて、初めてなのよ! 母として、学校や職場でちゃんとやってるか、とても心配してたの! まあまあ、もっとよくお顔を見せてちょうだい」
ツクモとはまた違った意味でテンションの高止まりな人である。そして、思春期の男の子だったら部屋のドアをばーんと閉めて鍵をかけてしまいそうなコメント。
でも、わたしを頭のてっぺんから爪先まで見回しているその視線には、昆虫を前にしたツクモと同じ、子どものような純粋に楽しそうで好奇心に満ちた気配だけが浮かんでいた。この親にしてこの息子あり、といったところか。二人の相性問題はさておいて、どこか似たところのある仕草や振る舞いだった。














