45 由奈ちゃんふたたび
「何それ。すごい面白いバイトじゃん。郁子いいなあ」
由奈ちゃんはわたしの話を聞いて笑い転げた。由奈ちゃんのバイトが休みの週末、わたしたちは一緒にランチを食べてから買い物に行く計画で、大学近くの駅前のパスタ屋さんにいた。
話せる話と、話せない話がある。ガスクロマトグラフィーの話と研究所の盗難事件の話は、他ではしない、とツクモに約束していた。なので、由奈ちゃんに話せるのは、主に昆虫採集の話、古文書調査の話、よくわからないツクモと金山さんの因縁に巻き込まれて、パーティに行くことになってしまった話くらいだ。試写会のチケットも、ただ、バイトのご褒美でもらったということにしていた。実際のところ、あの実験の話は、ツクモがしてもいいと言っても、わたしのほうでちょっと恥ずかしくてできないと思う。由奈ちゃんは違う方向に解釈してしまいそうだし。
「昆虫オタクかあ。でも、いい人そうだよね。温厚なオタクって感じ」
「温厚かなあ。人遣いは荒いよ」
「そりゃそうだよ。仕事だもん、引き受けたからにはやるしかないじゃん」
由奈ちゃんは大人っぽい仕草で肩をすくめた。
でもさ、と言って、レモンクリームのパスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、由奈ちゃんはちょっと考え込んだ。
「引き受けたからにはっていうけど、郁子よく引き受けたよね、昆虫の調査。苦手でしょ。いつもなら、大学構内にいるセミぐらいでも、すごい嫌がって逃げるじゃん。夏休み前に話を聞いたときには、資料整理くらいの仕事なのかなって思ってたけど、がっつり、虫まみれのバイトみたいだし。そもそも、なんで引き受けたの?」
「うーん。バイトはしたかったけど、お父さんが許してくれそうなバイトがこれだけだったっていうのが大きいんだけど」
「それだけでやる? 昆虫まみれだよ? 足六本だよ? いや、私は郁子ほど昆虫だめじゃないから、状況次第ではやったかもしれないけど、郁子はさ。知らなかったとか?」
うーん。知らなかったと言えば語弊がある。アオスジアゲハの時点で、ツクモの昆虫調査がガチの採集だってことは知ってたわけで。これを言わないと、ツクモが本当にわたしをだましたひどい人みたいになってしまう。しかも、由奈ちゃんは、試写会の会場でツクモと話をする機会もあるだろう。チケットをもらったからには、一言、お礼の挨拶ぐらいしたい、とさっき言われたし。
やっぱり、アオスジアゲハの一件、というか、熱中症放水事件は、そろそろ、黙っているわけにはいかなさそうだった。
「そもそも、最初はわたしが迷惑をかけた面もあるっていうか」
手短にかいつまんで、色々の感想は省いて、わたしは最初の出会いの顛末を説明した。止まっていたチョウに網をかけるつもりで、ツクモがわたしに網をかけてしまったこと。ツクモがぶっ倒れて、とっさに他の策が思いつかず、わたしがホースで水をかけてしまったこと。しょうがないので家に連れて帰って、父の服を着替えに貸したこと。流れで宿題を手伝ってもらって、夕ご飯をごちそうしたこと。神社の古文書の話と、昆虫採集の話をセットでバイトに提案されて、父がすっかり気に入ってしまって断れなかったこと。
端的に言っても、変な話だと思う。
案の定、由奈ちゃんはさらに笑い転げた。
「ヤバい。コメディ映画の冒頭だよ、それじゃあ。……待って。郁子は大事なことを言ってない気がするよ。その築井さん、いくつ?」
「二十四だって。うちの母が聞き出してた」
「若っ。私、もっとおじさんかと思ってたよ。それは話が違うなあ。さてはまだ私に黙ってることあるでしょう。どんな人? 見た目は?」
由奈ちゃんは好奇心に目を輝かせた。
由奈ちゃんも母に負けず劣らず、腕のいい尋問屋である。ポイントは外さない。
「んー、黙ってれば、結構かっこいいかも。表情動くともう落ち着きない。しゃべりだすと、完全に昆虫オタク」
「ふうん。かっこいいんだ。初耳ー」
由奈ちゃんはにやにやして腕を組み、背もたれにもたれかかると、わたしを頭のてっぺんからじろじろと検分した。
「で、郁子はまんざらでもないわけだ」
「それは違うよっ」
なんてことを言うんだ。
「えー、でも、男の子みたいって言われたとき、かばってくれたんでしょ。それはポイント高いけどなあ。だからパーティーに行くって言ったんじゃないの?」
「わたしのせいで厄介なことになったのに、自分は知らんぷりなのは納得がいかなかっただけだって」
「じゃあ、向こうは? そんな気配、全然なし?」
「ないって。ないない。あったら問題でしょー。社員さんがバイトにちょっかいだしたら」
「まあそれはそうだけど、双方が納得してて、仕事に支障が出ないなら、べつに犯罪じゃないんだよ。郁子が未成年ならともかくだけど。大人同士なら、バイトがきっかけで付き合ったりとかって、むしろよくある話じゃない?」
そんなものなんだろうか。居酒屋バイトに猛反対していた父の顔をふと思い出した。まさかお父さん、そんな心配をしていた訳じゃないだろう……と思いたいけど。
「ホントに手がかりも脈もなし? それは信じがたいけどなあ。だって、そこでかばう必要はないじゃない。その金山さんとやらは放置してさっさと追い返して、後で、そんなことないよって郁子にフォローするだけでも常識的には十分だよ」
にやにやしながら、由奈ちゃんは腕組みをほどくと、頬杖をついてわたしの顔をのぞきこんだ。
「ちょっと待って、双方が納得って。わたしは一ミリもそんな話に納得はしてないからね。手がかりも脈もないってば。かばったのは、多分、うちのお父さんが怖かったせいもあるんじゃない? 親ばかが過ぎるきらいがあるのは、ちょっと話せばわかったはずだし、お父さんが怒ったらもう調査どころじゃないもん」
手がかりねえ。むしろ、反例があるはずだ。あいつは絶対一ミリもわたしにそんな気はない。興味深い研究対象で、お気に入りのいとこみたいな扱いだと結論が出ているはずだ。わたしは少し考えた。
「あ、バイト始める前には、言われたよ。それこそセクハラ寸前のやつ。最初、高校生と間違われてたの。違うってわかったとき、そのナナフシみたいな見た目で二十歳? って。独り言だけど」
「出た、郁子の地獄耳」
由奈ちゃんはくすくす笑った。
「だから、向こうにはわたしはかすりもしてないって。わたしだって、理想のタイプとは程遠い。わたしとしては、今までに会ったことがないレベルで変わった人だから、興味はある。調査はうちの神社についても色々新しいことがわかりそうだから、それに対してはすごく好奇心が働いてるし、絶対最後まで見届けたい。でも、それだけだから安心してってば」
「安心ね。私は自分の目で見て、耳で聞いたことで判断するよ。あー、試写会、ホントに楽しみ。で、郁子はナナフシって言われて拗ねてるわけだ」
「拗ねてないってば! そういう話じゃないって言ってるじゃん、もう。出たよ、由奈ちゃんの恋バナモード」
由奈ちゃんは恋愛話が大好きで、しょっちゅうわたしの話を恋愛方向に捻じ曲げては、火のないところに煙を立てたり、焚きつけようとしたりするのだ。半分冗談、半分本気といった調子でからかってくるので、その手の話題に中学高校時代を含めて一切ご縁のないわたしは、このモードの由奈ちゃんには正直手を焼いていた。ちなみに、由奈ちゃん自身の恋愛話は、のらりくらりとかわして一切情報を出そうとしない。老獪な話術をもっているのである。
「何とでも言いな。この皆川由奈、腕によりをかけてその残念なナナフシ娘をチョウに変えてみせましょう。何にせよ、今回は何としてもキレイに見えなくちゃいけないもんね」
それは確かに間違いない。金山さんもあの口ぶりなら来るのだろう。おそらく、ツクモが失敗するのを見に。わたしにできることなら、ほんの数時間でいいから、非の打ち所のない令嬢のふりをして、鼻を明かしてやりたい。
わたしがそう言うと、由奈ちゃんは胸を張った。
「そういうことなら任せて。腕がなるわ」














