15 オニヤンマの数え方
谷底の緩やかな流れの沢にたどり着いた頃には、もう二時近かった。
「お腹すいた。お昼休憩は?」
わたしが先に音を上げたからといって、さすがに根性なしってことにはならないと思う。
「もうそんな時間?」
ツクモは腕時計を見てうなった。
「マジか。ごめんねふみちゃん、全然気づいてなかった」
わかってくれればよろしい。
わたしはツクモの視界に昆虫が入ってきて気が変わらないうちに、と、急いで木陰の大きな岩の上にピクニックシートを広げた。上がちょうどテーブルのように平らになっていて、座りやすそうだったのだ。休憩中は帽子を脱いで、自分のリュックサックに結んでおいた。風が吹いて川に落としでもしたら面倒なことになる。
わたしは自分で用意してきたおにぎりを、ツクモは途中で買ってきたらしいパンをほおばりながら、ここまでの記録を確認した。傷むといけないし、荷物になるので、おかずはなしだ。それでも、さんざん動き回って汗を流した後に、刻んだ梅干しを全体にきかせたおにぎりは飛び上がりたいほどおいしかった。昔ながらの梅干しを毎年持ってきてくれる、氏子のツギエおばあちゃんに心の中で感謝を送る。こんな日には最高です。
「今ここでしょ」
わたしが地形図を指さすと、ツクモは小さく拍手した。
「正解。よくできました」
「だから、地図ぐらい読めるって。あんまり子ども扱いしないでよ。で、調査としてはどうなの? 今日、ここからここまで、直線で三百メートルくらい? しか進んでないじゃん」
わたしはスタート地点から現在地まで指を滑らせた。この広い山の、ほんのとば口のところにすぎない。
「今回は予備調査だから、大体どんな種類が見つかりそうか見当がつけばいいんだ。林間を集中的にやるつもりだったから問題ない。今日の残りの時間は、沢沿いを下見。次に沢と池をやるのに、足場や植生の状況を見て、そろえる装備の参考にしたいから。実際の予備調査の順番として、沢と池を先にやるか、草地や田畑をやるのが先か、は、そろえる装備の具合とスケジュールしだいかなあ。それと並行して記録を精査していって、後は追加で見たいところをやっていくことになる。本格的な調査は、他の研究者の人にも協力をお願いできるか相談して、来年に計画することになるかな」
わたしは胸をなで下ろした。
「この調子で神社の裏山全体をやるわけじゃないんだね」
「オレはやりたいけど、それやってるとすぐ季節変わっちゃうからね」
ツクモは残念そうに言った。
夏がずっと続けばいいのに、と思っているのは学生だけではなかったらしい。
まあこいつは自称会社員という割に、予定の組み方を聞く限り半分自由業みたいなものだと思うけれど。
沢の水の上を、流れに沿って下り方向にトンボが飛んでくるのが見えた。朝一番に見かけたのと同じような、大きくて黄色と黒の派手なカラーリングのやつだ。
ちょうどツクモは背を向けていたので、指差して教えてあげた。
「ツクモ、トンボ」
「え、どこ!」
ツクモは網に手を伸ばしながら振り返った。すぐに目視できたようで、ふみちゃんはまだ休憩ね、と言い置いて、岩の上から軽くジャンプして飛び降りる。そのまま敏捷な身のこなしで沢の岸辺の茂みに身を隠しつつ、待ち構えて狙った。だが、そこは敵もさるもの。ツクモの捕る気満々のオーラを感じとったのか、すいっと高度を上げて通り越すと、そのまま下流に飛び去ってしまった。
「逃げられましたねえ」
わたしはにやにやしながら言ったが、ツクモは戻ってこなかった。その場に立って、トンボが飛び去った方をじっと見ている。
「ツクモ、パンまだもう一個あるよ。食べないの?」
ふもとの国道沿いにある道の駅には、隣町の天然酵母にこだわったベーカリーが出店している。ツクモは羽音木に上がってくる前、道の駅に立ち寄ってパンと帽子を買ったのだろう。わたしにはおなじみのロゴがプリントされた手提げには、お店自慢のレーズンクルミパンがまだ残っていた。
「あいつは縄張りをパトロール中のオスだ。絶対戻ってくるはずなんだ」
「ツクモがいらないなら、パンもらっちゃうよ?」
軽口を叩くと、意外な答えが返ってきた。
「ふみちゃんのおにぎり、一個残しておいてくれるんならいいよ」
梅おにぎりと、レーズンクルミパンのトレードか。となりの芝生は青い、ではないが、他人のランチがおいしそうに見えるのは、ツクモも同じだったのかもしれない。
わたしは、アルミホイルの中に残った三個目のおにぎりを睨んだ。どっちも好物だ。
「その取引で手を打とう」
おごそかに言って、おにぎりをホイルに包み直し、手提げの中のころんと丸いパンと交換した。パンもおにぎりも両方食べられるなんて、ちょっと得した気分。
わたしがパンをかじっているうちに、ツクモはほくほく顔で捕虫網を押さえながら戻ってきた。
「二頭も一網打尽。別のオスが縄張り争いで絡んできてた。幸先がいい」
空になっていたバタフライネットに慎重に移し替えた。その一言にふとひっかかりを覚えた。
「トンボって、一頭二頭なの? 匹じゃなくて?」
「そうだよ?」
それが何か? というように首を傾げられてしまった。
「いや、昆虫は匹とか、羽があるヤツは羽とかじゃないかなあと、これまで生まれてこの方二十年考えてきたもんだから」
「え?」
ツクモもはたと考え込んでしまった。
「でも、トンボもチョウも、頭だよ。匹、羽か――」
「物語や児童向け書籍では、匹や羽なのかな」
「そうかな。専門書では頭。虫屋はだいたいそう呼ぶ」
「虫屋?」
「ふみちゃんが言うところの、ガチオタ」
「なるほど」
「そういうところ気にするあたり、ふみちゃんは文学部っぽいよね」
「素人ですから」
「それはそれでいいよ。オレは楽しいから」
「何が?」
「こうやって話しながら調査するの。記録つけてもらえるから、ものすごくはかどるし」
ツクモは笑うと梅おにぎりのホイルをほどいてかぶりついた。うんおいしい、と呟いている。
役にはたってるのかな、と、少し嬉しくなった。どうせお給料を頂くなら、自分でも仕事に貢献したと思ったうえで頂きたい。
バタフライネットの中で、トンボがぶんと羽音をたてた。間近で聞くと、かなり迫力のある音だった。
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前話でふれたドクガの毒について、リサーチが甘かった部分があり、初掲載時の記述より改稿しました。ストーリー上は変更なく、築井さんのうんちく部分の変更のみです。
科学関係、古文関係、どちらも筆者は専門外なので(それでよくこんな話を発表する気になったものだというツッコミをいただきそうですが・汗)、お気づきの点があった方、メッセージなどでこそっとお伝えいただけると、とてもうれしいです。
ブックマーク、評価、ご感想など、とても励みになっております。続けて読んでくださって、本当にありがとうございます!














