124 吾亦紅
一週間が経った。
わたしの足の切り傷はそれなりに治ってきたものの、来週の平日に予定していた、由奈ちゃんや他の友達との日帰り旅行は泣く泣くキャンセルせざるを得なかった。この足で夜行バスに乗り、歩き回って、と考えると、どう考えても同行者に迷惑しか掛からない。
母は父の退院を来週に控え、自分の仕事に、病院への見舞いに、と忙しくしていた。わたしは外に出歩くこともできないし、映画をモチーフにしたテーマパークに行けなかった恨みを少しでも晴らそうと、アトラクションの題材になっている定番映画のDVDをしこたま借りこんで、週末は一人でリビング映画祭を楽しむことに決めていた。
この夏休みの騒動は落ち着くべきところに落ち着こうとしていた。
わたしとツクモが便宜的に七曜蝶と呼んでいたあのチョウについては、父とツクモが相談して、種の同定の研究調査とアレルギー問題をそれぞれの専門家に検討してもらうことになっていた。あの日持ち帰った後、ツクモがしかるべき処理をほどこしていたチョウの標本をもとに、研究が進められるのだという。その結果、これまで学術的に記録されていない、いわゆる新種であるという可能性が濃厚になってきた場合には、令正さんの研究記録も参考に報告をまとめて発表することになるという。
金山さんの大学院での研究の問題も、あまり事を荒立てたくない人たちの思惑が一致して、どうにか穏便に修正をすることになったと聞いた。まだ大きな学術誌などに投稿していなかったのが不幸中の幸いで、大学の中だけの問題ということになるので、修士論文そのものを取り下げて、記録上は修士課程を中退する形になりそうだ、という。
金山さん本人は、この一件が済み次第、鴻巣教授にこれ以上迷惑が掛からないように、学術研究の世界を離れてカナヤマグループに入ることに決めたのだそうだ。お兄さんたちは、きょうだいの中でとくにお祖父さんの風当たりが強くて、肩に力が入ったままの状態が続いていたリョウキさんのことを案じていたこともあり、したこと自体の非は断じつつも、受け入れムードで迎えてくれたようだった。入院の一報に慌てて東京から駆けつけてくれた、一番熱血肌の二番目のお兄さんについて、来年の秋立ち上げ予定のシンガポール支社の始動準備を手伝いながら、修行することになるのだという。お兄さんは、徹底的にしごいてやるから丁稚奉公のつもりでついてこい、しばらく日本には帰れないものと思え、とかなり厳しく言ったらしい。
『あいつは、自分にきつく当たる人の顔ばかり見ていないで、もっと周りを見ていれば、早くお兄さんたちの助力に気づけたし、実験がうまくいかなかったことも研究室で相談できたのに』とツクモは言っていた。
それでも、彼を訪ねてそんな話を聞いた折、開口一番に、ぶっきらぼうではあったけれど、『これまですまなかった』と『ありがとう』を言われた、と、ツクモは嬉しそうだった。
島木さんのチームは、金山さんに聞き取り調査をし、量吉さんの家の調査も行って、金山さんとつながっていくつかの嫌がらせの実行部隊になった人間を突き止めていた。金山家の先代とも付き合いのあったヤクザくずれの二人組である。金山さんが神社の見張りと、いくつかの『おつかい』を頼んだことで、彼らは、すわ地上げかと早合点していたらしい。先代が隠居して、仕事に困っていた二人は、金山さんに気に入られようとして、わたしの自転車をあおるような運転や、うちの自転車のブレーキに小細工をするといった、金山さんの依頼以上の行動に出ていた。金山さんがそれに難色を示しかけると、今度は、金山さんがうちを脅そうとしたことを逆手にとって、これをばらされたくなければ継続的に仕事と金をよこすように逆に金山さんを脅していたのだという。
金山さんは、自分のうかつな行動のせいで、こちらでも、手詰まり状態になっていたのだ。悪い人間を手下として使いこなせる器は、幸か不幸か、彼にはなかったということだ。
海外からチームメンバーを指揮してあれこれの始末をつけた島木さんは、パソコンのオンラインミーティングアプリを使って、わたしと母にそんな顛末を話してくれた。その二人をその後どうするかについては、「末期まで後悔して、二度とこんな所業に及ばず真人間に更生するように、手はずを整えました。きっちり勤めさせます」と、例の絶対に敵に回したくない不敵な笑みを浮かべて言っていたので、恐ろしくてそれ以上尋ねるのはやめた。
わたしは金山さんのお見舞いにはいかなかった。初期対応がよかったせいで症状もほどなくおさまって、二、三日の入院で東京に戻るということだったし、正直、何と声をかけてよいのか、わからなかった。ご縁があれば、いつかまたどこかで会うだろう。父のところには退院前に謝りに来たので、量吉さんのことを少し話した、と父が言っていた。
ツクモはあいかわらず、夜、仕事が終わったであろうころにこまめに電話をくれて、こうした、その後の状況を伝えてくれていた。
数週間つづいたこの一連の騒動や、桐江さんのパーティの手伝いで、研究所の仕事もかなりたまっていたらしく、今週はずいぶんと忙しそうだった。
電話ではツクモが自分の身の回りのよしなしごとを明るくおしゃべりして、事件の後処理にかかわる具体的な問題を議論して、こちらの今の様子を聞いて、というだけで、あの日、奥谷であった諸々のことには、二人とも触れないままでいた。
今にして思えば、夢だったのかと思うくらいだ。あんなにたくさんのチョウが飛んでいて、日常生活ではまず出会わなさそうな危険に出くわした。わたしは、切羽詰まっていて、行動がだいぶおかしくなって、絶対に普段だったらしでかさないようなことをしてしまった気がするし。けれど、その件に関しては電話でも一切話題に出なかったので、これ幸いと、わたしは見ないふりを決め込んでいた。
なのでその日、母が病院のお見舞いに行ってからそのまま出勤だと言って出かけて行った土曜日の昼過ぎという完全に油断していた時間帯に、ツクモから電話が掛かってきたときにはぎょっとした。DVDをリビングのテーブルの上に積み上げて、途中で何度も立ち歩かなくてもいいように、買い込んであったお菓子を並べている最中だったのだ。
『ふみちゃん、暇? そのけがなら出かけてないだろ。顔を見に行ってもいい?』
「わざわざ見に来るほどの顔でもないよ」
わざと茶化してみたら、ストレートの剛速球が返ってきて焦った。
『ふみちゃんはかわいいんだから、自分でそういうこと言わない。行ってよければ、あと三十分くらいでつけるんだけど』
「三十分? ツクモ今どこにいるの?」
研究所とツクモの一人暮らしの住まいがあるS市は、ここから車で一時間ほどの距離にあるのだ。
『М市立病院。さっきまで、散虫香の分析のことでふみちゃんパパと打ち合わせしてた。ママも来てたからごあいさつしたよ。ふみちゃんのお見舞いに行ってもいいか伺ったら、いいって』
外堀から埋めてきたんかい。これでむげに断りでもしたら、母に相当絞られそうだ。いや、本気で断る気もなかったんだけど。
「あまりお構いもできませんが、どうぞ」
辺りを見回しつつわたしは答えた。まあ、ものすごく散らかっているというわけでもないし。
『うん、急でごめんね。じゃあ後で』
電話を切ってから、焦りがわいてきた。
お見舞い。お見舞いって言ったよね。
一人でだらだら映画を見るだけだと思っていたから、部屋着に毛の生えたレベルの気楽な服装しかしていない。あんまり気合を入れすぎた格好もどうかと思うけど、今のこれはありえない。他にもやることはあるし、三十分の猶予って、短すぎる。
今までは基本的にバイトだったから、山に入らない時も動きやすさ最優先で服を決めてきたし、それで特に気後れもしなかったけど、いざ、そういう枠組みが取れてしまうと、迷う。
結局、七月初めのセールで由奈ちゃんに強く勧められて買った、白いシフォンのゆったりしてシンプルなブラウスに、デニムのぴったりしすぎないパンツを選んで着替えた。困ったときは白とデニム。大学生のゴールデンルールだ。少しだけメイクして、コーヒーメーカーをセットした。
最後に気が付いて、机の上に積み上げていたDVDとお菓子を、とりあえず一時的に物を片付けるために母がリビングに置いているラタンのバスケットにつっこんでいたら、聞き覚えのある特徴的なエンジン音が庭先に入ってきた。ツクモのクワガタ号だ。休日だし、私用も込みだから、仕方なくこちらなのだろう。
わたしにそんな脱力系のあだ名をつけられているとは知らないだろう、イタリアの平べったいスポーツカーのエンジンが止まる。けがのせいでまだそんなに敏捷に動けない私は、インターホンが鳴るのを待たずに玄関に向かい、ドアを開けた。
「ふみちゃん! ずいぶんよくなった?」
目の前にツクモがいて、予想しているべきなのに、やっぱりどきっとする。
「まあまあかな」
わたしが、どうぞ、と家の中に招き入れると、ツクモは後ろ手に持っていた袋を二つ、差し出した。
「これ、お見舞いだから、お花とお菓子」
片方は、やや厚めの素材で作られた底が広い紙袋だった。中には小ぶりのカフェオレボウルくらいの花器に山もりの花が入っている。テーブル用にアレンジメントされたものだ。深紅の吾亦紅とミルクティみたいなベージュのバラがぎゅっとコンパクトに盛り込まれて、隙間を埋めるように、濃い紫の実ものと、淡い銀色がかった観葉植物が差し込まれていた。秋らしくて大人っぽい色合いが目をひいた。この都会的なセンス、絶対、パーティの前に立ち寄ってたお花屋さんだ。
「うわあ、きれい! ありがとう」
思わず受け取ってから、ちょっと申し訳なくなった。
「お見舞いって言うけどさ、家でごろごろしてただけだし。こんなに気を遣ってもらわなくてもよかったのに」
「まあ、そう言わずに受け取ってよ。こっちは、お花屋さんに聞いて、M市のプリンが有名だっていうお店に寄ってきたんだ」
すっかりお花屋さんにも顔なじみになったらしい。わたしはもう一つの袋を覗き込んだ。白いボール紙でできたケーキ用の箱に、県内ではよく知られた、老舗の洋菓子店のロゴがプリントされたシールが貼ってある。
「えー、嬉しい! ここ、人気なんだけどデパートとかには絶対出店しないから、本店に行かないと買えないんだよ。すごくおいしいの。ツクモここのプリン食べたことある?」
「ない。お店も初めて。そうなんだ。由緒ありそうな店構えだなと思って入ったけど」
「コーヒー淹れたし、上がっていけるよね? 一緒に食べよう」
自然に誘えた、と思う。多分。ツクモが靴を脱ぐ動作がなんとなくぎくしゃくしているのはわたしの気のせいか、ツクモが不器用なせいだ。
……多分。














