122 魂の眠る場所(前)
「ふみちゃん! ふみちゃん、聞こえる?」
ぼんやりと声が聞こえる。わたしは深い水の中にいて、その上の方から、大声で呼びかけられているみたい。髪に何かが触れる。指を差し入れられて、頭をそっと撫でられている感覚。
「ふみちゃん!」
「……うー、待って。もうちょっとだけ。あと五分寝かせて」
自分の声も、別人のようにくぐもって聞こえた。
「ふみちゃん! よかった!」
抱き起こされて、そのまま、抱きしめられている気がする。ふわっ、じゃなくて、ぎゅっ、だ。甘いバニラの匂いがふと鼻をくすぐる。
ツクモだ。言った通り、来てくれたんだ。
だんだん、自分の意識が水面に浮上していくような不思議な感覚。五感がぼんやりと戻ってくる。
足はずきずきするし、何より、息が苦しい。
わたしは重たい右腕を持ち上げて、ツクモのシャツの背中をとんとん叩いた。
「ツクモ、苦しい。腕、ゆるめて」
喉がからからで、しゃがれたような声しか出ない。
「え? あ、ごめん」
ツクモは腕の力をゆるめて、わたしを座らせてくれた。まだ身体に上手く力が入らず、ひんやりと乾いた岩壁に背中をもたれかからせる。
「ふみちゃん、お水飲める?」
欲しい。お水、という単語を聞くだけで、全身がそれを欲しているのが分かった。
うなずくと、ツクモはペットボトルを飲めるように開けてからわたしの口元に運んでくれた。何とか自分で手を出して受け取り、口をつける。
わずかに甘さを感じる液体が喉を通り過ぎていく。何だろう。ああ、スポーツドリンクかな。
二口、三口と、含んでゆっくり飲み下すのを続けていたら、だんだん感覚がはっきりしてきた。
あたりは薄暗い。
さっき横になった岩室にまだいるようだった。
「わたし、どのくらい寝てたんだろう。今、何時?」
「三時半過ぎくらい。さっき、飯田さんたちを追いかけてここをオレが離れたのが二時過ぎくらいだったかな」
その後、蝶酒を酒舟石まで何度も汲み上げて、ここに戻ってくるのに一時間くらいはかかっただろう。
「じゃあわたし、そんなには寝てないのか」
「寝てたっていうか、出血と脱水と疲労で意識が朦朧としてたっていうべきじゃないかな。触った感じ、頭は打ってないみたいだし」
「体感的には、ちょっと目をつぶって一休みして、目を開けたらツクモがいたって感じなんだけど」
わたしは辺りを見回した。
「でも、変な夢を見た。宮守芳さんと、築井紋成さんと、御谷守千香さんが出てきた」
「えー、そんな夢見たの? ふみちゃんいいなあ。やっぱり、宮森家の人間だからかな。細かいこと、覚えてる?」
ツクモは科学者のくせに、わたしの夢の話もそっくりまるごと飲み込んで、そのまま受け止めている。いいなあ、って言われるとは思わなかった。
「芳さんを迎えに、紋成さんと千香さんが来てた。でも、紋成さんは、ずっと芳さんの隣にいたんだよって言ってたの」
わたしが、思い出せる限りで夢の中の出来事を話すと、わたしの目を見てうなずきながら聞いていたツクモはにっこりした。
「ああ、それは本当かもしれない。オレもふみちゃんを探してここに入って、介抱しようとしてるとき、初めて気がついたんだ」
ツクモはわたしが倒れこんでいたところのもう少し奥を指差した。
大きめのメロンくらいの石が2つ並んでいる。
「じっくり確認したわけじゃないけど、その石、模様が彫りこんであるだろ」
言われてわたしは目を凝らした。
片方の石にはひし形のような模様、もう片方の石にはくぼみがいくつか彫ってあるようだった。
わたしがそう言うと、ツクモはリュックサックから応急セットを取り出して準備しながら答えた。
「うん。オレにもそう見える。朝、神社でお祭り用ののぼりを立ててたのを見たんだ。そこに染め抜かれていた七曜神社の紋は、一つの円を同じ大きさの円が六個、取り囲む図案だよね。七曜紋といわれるものだ。ひし形のほうは井桁だろう。井戸の井の字を斜めにしてゆがめたみたいな形。築井家の、明治のご改新以前に使っていた紋なんだ。浄雲寺の古い墓には、そちらの紋が彫りこんである。この前の法事の時見た」
「なんで、それがこんなところに?」
「紋成の母親である江月尼が死ぬ間際に良順医師に語った話があっただろ。行方不明ということになっていた芳が、ここで亡くなったのだとすれば、当然宮森家の墓には入れられない。ほら、前に調査で見た宮森家の墓所には、芳の名前がなかったね。紋修となった紋成も、事情を考えれば、築井家の墓に入るのは難しかっただろう。その辺を考えあわせたとき、そこにある石が、娘の千香が宮司の仕事をしながら人知れず建てた二人の墓だったとしても、オレは驚かないな。ここは雨風が当たらないから、彫りこんだ紋も消えにくいだろうし」
ツクモの話は、相変わらず証拠がなくて飛躍が大きい気がしたけれど、わたしの心にはすとんと落ちた。きっとそうだ。
千香さんは、二人を何の邪魔も入らないところで、一緒に眠らせてあげたかったのだろう。現在の慣習として、死は穢れだからご神域には持ち込まない、と父は言っていたけれど、ここを守ってここで亡くなった芳さんが眠る場所は、ここ以外にはありえない気がした。
夢の中で母親を迎えに来ていた少女の姿を思い浮かべた。おそらく、天寿をまっとうして亡くなられた千香さんだけど、母親である芳さんにとってはきっと、いつまでも、別れたときのままのかわいい娘なのにちがいない。
「ふみちゃん、こっちに足伸ばして。ガーゼ、取り替えてから帰ろう」
ツクモは、わたしの右足の血でごわついてきていた包帯とガーゼを手際よく新しいきれいなものと交換してくれた。
支度ができて、二つの石に手を合わせてから、わたしたちは谷を出ることにした。
自分で歩こうとしたけれど、どうにも足が痛んでペースが上がらない。ツクモに説得されて、おんぶしてもらって、山道を戻った。道すがら、気になったことをぽつりぽつりと尋ねた。
「金山さん、どうなったの」
「医院の院長先生がすぐ診てくれて、発作を抑える注射ができた。その後、救急車でふみちゃんパパが入院してる病院に行ったよ。処置が早かったから、よくなるのも早いだろうって。でも、何がアレルギー発作の原因だったのか、きちんと検査しなくちゃいけなくなると思う」
「なんか、完全に捨て鉢になってて、もうどうでもいいって感じだったの。あれは? 飯田さんが何か言ってたよね」
「金山を院長先生に預けた後で飯田さんに聞いたんだけど、あいつが今年の一月に提出した修士論文の実験で、一部、データの改ざんがあったようなんだ。結果を予想して、研究のデザインをしたんだけど、実際に実験をやってみると思ったような結果が出なかった。最初の見込みが間違っていたんだ。そこで立ち止まって、周囲に相談して実験デザインをやり直すのが本来の筋だ。だけど、彼の研究はそもそものスケジュールが少し遅れていたようで、そこからデザインをやり直して実験を全部やり直すことになると、修士課程で留年になりかねないような、根本的な変更になることは明白だった。それで、金山は、その場しのぎに結果が出たことにして進めちゃったみたいなんだよね」
「それって、相当まずいよね?」
「うん。研究者としては、意図的に不正したことになるから、発覚した時点で将来がほぼ断たれる。論文をまともに取り合ってもらえなくなるし、そのままにしていたら研究室全体の研究の信頼性が疑われてしまうから、責任を取って辞めざるを得なくなると思う。だから、本当に、そんなことすべきじゃなかったんだ。すぐに相談すれば、うまくすればその年のうちに修正できたかもしれないし、それが無理でも、もう一年やり直せばそれでよかったのに」
「そういう、修士課程で足踏みするのってよくあることなの?」
「普通は、指導教員の先生がちゃんと目配りするから、あまりないよ。でも、特にうちの大学の院は厳しくて、実験ができてても論文の出来が悪くて修士三年目をやる人とかはそれなりにいた。大学院を五年一貫教育ととらえる風潮が強くて、修士で出る人は少ないし、実際問題として博士課程が終わったところでそのまますぐに研究職に就ける人ばかりでもないんだ。席が少ないからね。だから、研究が上手く進まなければわりと気軽に三年目を勧める雰囲気はあったかもしれない。あいつも順当に博士課程に進学希望だったから、中途半端な論文でよしとするよりは、先生としてもなるべくいい実績を作らせて、研究者として上を目指させてやりたかっただろう」
「金山家では、研究畑に進んだ人間がほとんどいないって、ツクモ、言ってたよね。だから、留年とかが必要以上にとんでもなく世間体の悪いことと思われるって心配して、言い出せなくなっちゃったのかな。お祖父さんが勘当だのなんだのと騒ぐかもしれない、自分の不出来を口実にお母さんが追い出されるかもしれない、というのを気にしたのかなあ、もしかして」
ツクモはうなずいた。
「それはあるかも。金山翁は感情的になると手が付けられないんだ。以前から、自分の影響力を見せつけようとして、極端なことを言いがちなところがあるって、うちの父や兄は気にしてた。オレはよくわかんないけど。お兄さんたちに会社を譲って引退したころから、特にひどくなったらしい」
「金山さんの不正が発覚したのは何でなの?」
「まあ、そんなその場しのぎでごまかしたものがうまく行くわけがないから時間の問題だったんだけどね。今度、鴻巣先生の研究室で、別の院生がそこからさらに発展させた研究をやろうとして予備実験をしたときに、金山の実験がどうしても再現不可能なのに気が付いた。それで、鴻巣先生が、飯田さんに金山の研究の再検討を依頼していたらしいんだ。飯田さんも、これはまずいことをしているって、割とすぐに気が付いた。それで、どうするか相談に乗ろうと思って、連絡を取ろうとしていたらしいんだ」
「それが、島木さんが間に入って渡していたメモの意図だったんだね」














