118 スズメバチの巣
また一羽、チョウが飛んできた。ふわり、ふわりと踊るように飛んで、先客のチョウの隣に止まった。また一羽。知らぬ間に、辺りにいるチョウの数がかなり多くなっていた。
「僕の人生は、もう、詰んでいるんだ。このチョウさえ捕まえればすべてが逆転できるんじゃないかと、何かを失っても埋め合わせができるんじゃないかと、夢を見た。でも、そんなのはまやかしだ。人に散々迷惑を掛けただけで、得られるものなんて何もない。本当はわかっていたはずなんだ。僕はまた、間違えた。だけど、もう、いいんだ。最初から僕には何もなかった。それだけだったんだ。このチョウさえ、もう一度見られたらと思って、ここに来た。何もかも失うとわかって、自分が今本当にしたいことは何か考えたよ。もう、これしかなかった。もう一度、このチョウが乱舞する光景を見られたら、後はもう、どうなっても構わない」
彼は、目の前の枝にとまっているチョウを捕まえようとするかのように、静かに手を差し伸べた。
「あの日、俺はこのチョウを手に取ってみることができなかった。あんなにたくさんいるのに、触れることができなかったんだ。指の先をすり抜けて、すべて逃げて行った」
「れおくん、やめて!」
わたしは悲鳴をあげた。れおくんは、触ったらだめだ。令正さんと同じように、激しいアレルギー症状が出る可能性がある。
おそらく何も知らない彼は、わたしの剣幕に怪訝そうに振り返った。
「何も取って食おうというわけじゃない。よく見たいんだ」
また、チョウに向きなおって手を伸ばそうとする。
「やめて、大変なことになるかもしれない!」
わたしは焦って、手から杖を落とし、彼に飛びついた。驚いた彼が大きくよろけ、身体をひねった拍子に、傍らの笹の藪に倒れ込むのが見えた。わたしもバランスを崩して横ざまに転がった。
足に鋭い痛みが走った。とっさに体を支えようと地面についた右手が、ぼこん、と頼りない感触とともにめり込む。
地面に穴が開いた? 下に空洞があったのだろうか。
わたしは違和感を感じて、そちらを見た。
かさかさとしたものが手に触れる。反射的に手を引いた。わたしの苦手な感触だ。
昆虫の羽。とげのついた足。あの、独特な。
ほんの一瞬の出来事だった。
次の瞬間、ぶん、と不穏な音が沸き起こった。黒い大きな何かが、いくつも飛び立って、こちらに向かってくる。
「スズメバチだ!」
れおくんの押し殺した叫びが、わたしの鼓膜を打った。
「おまえ、巣を踏んだんだ。来い、巣から離れろ!」
起き上がったれおくんが、わたしの手をひく。半ば強引に立ち上がらせると、れおくんはわたしの肩を抱え込むようにして、低い姿勢のまま、酒舟石の方向に向かって走り出した。石を回り込んで、斜面を下る。
ぶんぶんと威圧的な音を立てる獰猛な昆虫は、ぴたりとわたしたちについてきた。
上手く走れないわたしをほとんど抱えるようにして、れおくんは岩室のなかにわたしを押し込んだ。スズメバチを威嚇するように、着ていた上着を手に持ち、振って遠ざけようとする。その動きに、ハチはさらに怒りを増したかのように、激しく羽音を立てて飛びまわった。数もどんどん増えてくる。
「こんなことしてても、怒らせるだけだ。宮森、散虫香持ってるか!」
「ない!」
わたしは半分パニックになりながら答えた。儀式のときには身に着けていてはいけない、と言われて、家に置いてきた。
「僕のザックの前ポケットに、量吉じいさんのやつがある!」
慌ててザックに取り付けられたザイルをかき分けるようにしてポケットのファスナーを開け、ジップ付きのポリ袋に入れられた見慣れたつづれ織りの守り袋をひっぱりだした。
「その古い土器の上で燃やせ! 去年のお守りでも、煙を立てれば、遠ざかるはずだ」
れおくんは片手で自分のデニムのポケットをさぐり、ライターをわたしに放ってよこした。
わたしは震える手で土器の上に守り袋の中身を開けると、ライターで火をつけた。
「あつっ」
指先があぶられて、小さな火ぶくれになる。ライターを取り落した瞬間、やっと、細い煙が立ち始めた。
「早く、こっちへ!」
促されるままに、れおくんのいる洞窟の入り口に持っていくと、彼は土器を洞窟の外、けもの道の真ん中に置いた。上着を入り口の側から振って、煙がけもの道から斜面の方に流れ出すように気流をつくる。スズメバチの羽音が、わずかにひるんだように低くなった。
だがそれも一瞬だった。スズメバチは次から次に、その数を増してくる。低くうなるような不穏な羽音が次第に大きくなっていく。
「だめだ、埒が明かない。とにかく、離れるんだ!」
れおくんは上着を投げ捨て、煙をあげている散虫香はそのままに、わたしの二の腕をつかんで走ろうとした。
その時だった。足元の、谷に向かって深く切れ込んだ斜面の下の方に、ぶわり、と動くものがあった。
そのあまりの大きさにわたしは足がすくんだ。
巨大な、形のないもやもやした雲のような塊が、急斜面を滑るように移動していた。
その塊は、重力なんて関係ないような、ありえないスピードでわたしたちの方に向かってくる。
「宮森、足を止めるな! 姿勢を低くしてハチから離れろ!」
れおくんに二の腕を引かれて、バランスを崩した。足がもつれ、体重を掛けた足に、鋭い痛みが走る。
「きゃあああ!」
喉をついた悲鳴が、まるで、他人の物のように聞こえた。
身体を支えきれない。わたしは自分の身体が谷側に向かって倒れ込んでいくのを、呆然と感じていた。倒れている自分と、それを見ている自分に分かれてしまったみたいだ。
「危ない!」
れおくんがわたしの腕を掴んでぐいっと引き起こし、なんとかバランスを戻そうとする。その拍子に、れおくん自身の身体が、わたしと入れ替わるように谷側に倒れ込んだ。れおくんが引き起こしてくれたおかげで、わたしはなんとか、頭から転落するのは免れたものの、わたしとれおくんは斜面を滑り落ちていった。れおくんがわずかに下だ。バキバキと、枝が折れるような嫌な音がした。
ずるずると身体が滑落する嫌な感覚に、わたしはしゃにむに上に向かって腕を振り回し、手に触れた枝を掴んだ。わたしの斜め下で、れおくんも、わたしの腕を支えている手とは反対側の手で何かを掴み、足をどうにか突っ張って、なんとかそれ以上の落下を食い止めたようだった。
「れおくん! 大丈夫!?」
彼を見ようとして、自分の足がふと視界に入った。右足の白い足袋が赤く染まっている。れおくんに促されて走っているときと、転落する直前に、切れ切れに鋭い痛みを感じていたのを思い出した。さっきスズメバチの巣で転んだとき、折れた竹か何かで切ってしまったのだろう。ようやく、ずきずきとした鋭い痛みが脳で連続的に認識され始めた。
斜め下を見ると、わたしがこれ以上落ちないように必死で支えているれおくんの背中にも、赤っぽいしみが大きく広がっていた。顔色が紙のように白く、呼吸が荒い。今、この斜面を滑り落ちる拍子に折れた枝の衝撃を、ほとんどれおくんが受けていたんだ、と気がついた。とっさにわたしを引き起こしてくれた結果、れおくんが下側になってしまったせいで。
「いいから。おまえは上がれ。僕の肩か頭、踏んでいいから」
「そんなことできないよ」
足の痛みと和服の着付けのせいで本当にできないのだ。もしできたとしても、そんなことをすれば、わたしは何とか上がれたとしても反動で彼はもっと下まで落ちてしまうだろう。先ほど覗き込んだときに垣間見得た谷底のことを思って、ぞっとした。
そこに、あの、雲のような塊が襲い掛かってきた。斜め下から、はっきりとこちらを目指して、斜面を駆け上がってくる。目も鼻も、それどころか手も足もない、不定形の塊なのに、かなりのスピードだ。
わたしは声をあげることもできず、ぎゅっと目をつぶった。怪異としか思えない。何だかわからない物の怪に、食われる。
だが、身体にぶつかるのは、軽いかさかさした衝撃だけだった。目を開けたわたしは、自分たちが、チョウの群れに取り囲まれているのに気がついた。薄茶色の靄の中に、幾つも、オレンジや青のネオンのような光が瞬く。
「え、これ、全部チョウなの……?」
塊と見えたものは、無数に集まって、巨大な一群をなして飛ぶ七曜蝶だったのだ。わたしは呆然として、自分の周囲をふわふわ、ひらひらと踊るチョウを見つめた。
そのときだった。ふいに、遠くから、耳になじんだ声が聞こえた。
「ふみちゃん!」
ツクモだ。さっき、酒舟石のところで上げたわたしの悲鳴が聞こえたんだ。
「ツクモ!」














