105 空き家の縁側で(前)
約束の三時を十分ほど前にして、その瞬間は訪れた。
病院の横手の駐車場の方から歩いてくる、栗色の髪のほっそりしたスーツ姿の男。背は決して低くもないが、特筆するほど高くもない。
誰が見ていると思っているわけでもないだろうに、その歩き方はどこか気取った調子だった。ずっと自分に酔っているのか、気を張った仕草が四六時中外せなくなってしまったタイプか。
会うのはこれで三度目だった。見間違えようはない。
わたしはベンチから立ち上がった。
十分に声が届く距離まで来たところで、先手を打った。
「金山さん。遠くまでご足労いただいてありがとうございます」
すこし張った声で挨拶すると、彼は虚を突かれたように足を止め、わたしを見た。
「宮森郁子」
「はい」
「なぜ、お前がここにいる」
「父の名代で参りました。お話はわたしが承ります」
「お前では話にならない。秀治さんと話がしたい」
「父は会いません。金山さんがお電話でしてくださったご提案は父から聞いております。父の意向も確認し、判断については任されております。わたしは七曜神社の後継ぎですから。ここでは何ですから、場所を移しませんか」
「くだらない」
わたしの横を足早に通り過ぎようとする金山さんを十分に近くまでひきつけてから、わたしは考えていた一手を打った。
「森崎れおくん、幼なじみのよしみで、話を聞いてくれませんか」
金山さんは目を見張ってわたしを見た。足が止まった。
「こんな、誰が通るかわからないところでは、ゆっくりお話しもできませんでしょう。量吉おじいちゃんの家でお話しできませんか」
「気づいていたのか」
「つい先日、思い至りました。正直、名字も名前も違った上に、外見もずいぶん変わっていたので、すぐに気づかずに失礼しました。……れおくん、すごいイケメンさんになってたから」
首をかしげて笑ってみた。金山さんは苦虫をかみつぶしたみたいな顔になった。
「当時の俺が標準以下だったという嫌味だろう、それは」
「いいえ。でも、そんなことはどうでもいいです。今しなければならないお話には関係のないことですから。量吉さんのお家でお話しできませんか」
わたしは重ねて尋ねた。一歩も退く気はなかった。
「今、秀治さんではなくお前と話すメリットはどこにもないが」
「あら、あります。父は大部屋ですし、談話室も誰が通るかわかりません。内密の話をするには向かないでしょう。電話で、羽音木山の調査にはツクボウさんが先約だと父が申し上げましたね。築井さんもお呼びしましたから、ゆっくりお話しできるところで、ざっくばらんにお話しした方が手っ取り早いのではないですか」
わたしは言いながらツクモに合図した。植込みの影から出て、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
「……築井」
ツクモの登場は、金山さんの意表をつくのに完全に成功したらしかった。
「どうも。ふみちゃんに、君が今日ここに来るって聞いたものだから。君は宮森家に話があるんだろうが、オレは君に話がある。どうせなら、一度に済ませないか」
「僕にはない。羽音木山の調査は僕の案件だ。お前は手を引け」
うなる金山さんを無視して、ツクモは続けた。
「ふみちゃんの言う通り、ここは環境が悪い。このまま立ち話を続けて熱中症になるのも嫌だしね。森崎さんのお宅にお邪魔してもかまわないか。家の中に入れなくても構わない。あちらの方が標高が高い上に、コンクリートが少なくて木陰は涼しい。それに、森崎さんが丹精込めていたという、マツムシとスズムシを見せてもらいたいんだ。マツムシのほうはほとんど野生に帰ったとは聞いたけれど、まだその辺にたくさんいるんだろう?」
「……スズムシ」
金山さんは目を見開いた。
「わたしがいただいた分は、ほとんど逃げてしまったんです。思いもよらない贈り物だったので、準備が足りなくて。築井さんにお見せできたのは、お薬が効きすぎて寝ぼけていた子たち、ほんの二、三匹でした。贈り主は、金山さんなんでしょう? 昨日の奥ゆかしいお電話で気づきました。お礼を申し遅れて失礼いたしました」
わたしは、今度こそ最大限の嫌味を込めて言ってやった。
「わかっていたのか、あれが僕の指図だと」
「話を聞いてくれる気になっただろう? こちらも、バカじゃない。何が起こっていたのか、ある程度は把握している。振り回される一方だったわけじゃないんだ。オレの話を聞くことは、けして君に不利な話ではないと保障しよう」
「いいだろう。森崎の祖父の家に行こう」
肩をすくめ、両の掌をこちらに向けて、金山さんは言った。
◇
量吉さんの家には、三台も車を止められるスペースがない。金山さんの乗ってきた車、島木さんの車を止めた後、島木さんのチームのもう一台と、父の車は、島木さんの部下が神社の駐車場まで移動させてくれることになった。
金山さんはやはり、森崎家の鍵を持っていた。
「中は埃っぽいし、片付いていない。縁側でいいだろう」
そう言って、庭に面した掃き出し窓を開ける。量吉さんは、もとは縁側だったスペースをリフォームして、外側にサッシをつけてサンルームのように使っていたのだ。洗濯物を干しやすいように、というおばあちゃんの希望だったと、いつか聞いたことがあった。
昼間ではあったけれど、あちこちから、マツムシの声が聞こえた。手入れをしていない庭は雑草が伸び放題で、薮蚊が多そうだった。虫除守を持っていたが、これでは効き目が期待できない。
わたしは縁側の隅に放置されていた灰皿を引き寄せると、虫除守の袋を開けて、中身をそこに少し入れた。
「島木さん、ライター持ってたりしますか?」
「これを焚くの? あるよ」
そばにいたツクモがすぐにポケットから出して、火をつけてくれた。
「持ってるんだ。あれ? タバコ吸うっけ」
「吸わないけど、野外だと何かと便利だから」
細い煙が立ち上る。それと同時に、さわやかで香ばしい香りが辺りに少しずつ広がっていった。蚊の気配がすうっと遠ざかる。
わたしとツクモが、縁側に腰掛け、金山さんは板敷の上にあぐらをかいた。島木さんは少し離れたところから様子を見守っていた。
「率直に伺います。金山さんのご要望はなんですか?」
わたしは単刀直入に切り出した。
「おまえは何をどこまで知っている?」
彼は疑い深そうに尋ねると、口を引き結んで、わたしの顔をじっと見た。
「調査をご希望だと、父は言っていました。祭りの日程と重なる日付をご提案いただいたと」
「承諾してもらいたい。その日でなければダメなんだ」
「お断りしたら?」
「お守りの件について、しかるべき筋から告発する。警察や保健所、マスメディア、インターネット。それぞれ、果たす役割があるだろう。どの筋から責められても、七曜神社は窮地に立つはずだが」
「祭りが済んでからではいけませんか。植物は逃げません。れおくんなら、ご存じでしょう。神社にとって、年に一度の祭りがどれほど大切なものか」
彼は唇をゆがめた。
「知っている。くだらない迷信だ。そんなものに囚われているから、このムラはだめなんだ。田舎にとりのこされて、限界集落になって、いつか消える」
「量吉さんは、神社も祭りも大切にしてくださいました。今回、御鈴祓いで丁重にあの世に送られるべき人物に、年明けに亡くなった量吉さんも入っているんです。お世話になった量吉さんの送りを、神社としてもないがしろにしたくはありません。お孫さんとして、れおくんにもご理解いただきたいのだけど」
「僕をその名前で呼ぶな。不愉快だ」
金山さんはうなるように言った。
「失礼しました。でも、祭りの後ではダメなんですか?」
「ダメだ。あの日でなければ。お前には到底理解できないだろうが、その日付が肝心なんだ。そこに交渉の余地はない」
「チョウのためですか。祭りの間しか飛ばない」
わたしの言葉に、金山さんは目を見開いた。ジャケット越しにわたしの二の腕を掴む。
「お前……っ!」














