「お前が言うなーっ!!」
魔法。超越者にのみ許された神域の技術。
焔鳥がそれを使った時、シュガーは「あ、魔国終わったな」なんて冷めた感想を抱いていた。
正直なところ、シュガーにはそれほど国家に対しての愛着は無い。勇者に選ばれたその日から、シュガーは国家という機関に取り込まれた。そんな印象ばかりが残る。
国の挟持のために短い人生の殆どを捧げてきた。だからたとえ国家滅亡の危機だろうと、「まあ結構際どいことやってたし、仕方ないかな」というのが本音だ。
でも。目の前に居る友人は、そうではなかった。
「こっちだっつってんだろ! お前の相手は私だ! よそ見してんじゃねえぞ鳥頭ァ!!」
ノアが叫ぶ。四方八方に焔を撒き散らす焔鳥の意識を引きつける。神獣が与える膨大な魔力にまかせて、真正面から焔鳥に立ち向かう。
ノアは必死だった。全力だった。勇者の力が危険だということは、十分に分かっているはずなのに。ノアは魔国を救うことをほんの僅かも躊躇わなかった。
そんな彼女の背中に――。シュガーは、“勇者”の意味を知った。
「シュガーちゃん! ちょっと無茶な飛び方するから、掴まって!」
ほうきにまたがる桜は、焔鳥の後ろを取るため縦横無尽に飛び回る。
既にシュガーが理解できる飛び方ではない。ほうきの負荷テストでもしているのかと思えるくらいに激しく制動を繰り返し、鋭角に空を切り刻む。
焔鳥の背にある聖具を斬るために。桜はノアの相方として、信頼されていて。
自分が。自分だけが。
ただ魔力炉に魔力を込めるくらいしか、出来ることがない。
「置いてかないでよ……!」
吐き出した言葉に意思が宿る。シュガーはもう、それを止めようとはしなかった。
勇者として。仲間として。友達として。いつかはノアと一緒に、世界を救う旅ができると思っていた。なのに。
どれだけ追いかけても、目指した背中はどんどん遠ざかる。自分が欲しかった居場所には、いつの間にか自分じゃない誰かがいる。
焦っていた。焦がれていた。
何かをしたい。何かをしないといけない。
そんな想いばかりが強くなって。やりきれなくなって。だから。
(――力が欲しいか)
シュガーの魂で、何かが身じろぎした。
勇者になって以来ずっと抑え続けてきた強大な存在が。目をそらして、向かい合おうとしなかった強大な蛇が。
(力が、欲しいか)
それはゆっくりと這いずり始めた。深い深い魂の奥底から、意識の表層を目指して。それはただの移動に過ぎなかったが、それでも、魂をずるずると撫で回されるような感触にシュガーの小さな体が震える。
怖い。怖いなんてものじゃない。あまりの強大さに塗りつぶされそうになる。自分がどこかへ行って、消えてしまいそうだ。
「怖いよ……! でも……! 置いていかれたく、ないよ……!」
「……シュガーちゃん?」
シュガーの口をついて出たのはそんな言葉だ。それを聞いた桜が心配そうに後ろの様子を伺うが、シュガーはそれには気づかない。
閉じ込めてしまえばそこまでだ。これを魂の奥底に沈めて、蓋をして、二度と出てこないようにすれば、シュガーはずっとシュガーのままでいられる。
「シュガーちゃん」
呼びかけられて、初めてシュガーは顔を上げた。思い詰めた酷い顔をしているのは分かっていた。
それでも桜は、そんなシュガーに優しく微笑む。
「一緒に行く?」
「……でもっ! 私は、まだ、神獣の力も、魔法だって……!」
「何ができるかは問題じゃない。何をしたいかが大事なの。シュガーちゃんは、どうなりたい?」
その問いの答えなら知っている。シュガーはずっと、それを求めていたのだから。
魂の内で蛇が身じろぎする。自分よりもずっと大きな存在が少しずつ魂を侵食する。それでも。
――ノアは、この感覚に耐えているんだよね。
せめて心だけは彼女と並びたい。それが、シュガーという8歳の少女が持つ、精一杯の挟持だった。
(答えろ。力が欲しいか)
「力なんていらない……っ! そんなもの、どうだっていい! でもっ!」
振り絞るようにシュガーは叫ぶ。覚悟を胸に、歯を食いしばり、荒れ狂う魂の鼓動に押し流されないように自分を強く意識する。
夢と、希望と、願いと、未来と。
自分を描くもの全部をかき集めて、強く強く自我を保つ。
「私には欲しいものがある! 私にはやりたいことがある! 私には行きたい場所がある! だからっ!」
(――魔を統べる勇者よ、我の名を呼べ。汝の願いを叶えよう)
表層に蛇が駆け上る。紫鱗を纏い、碧の瞳を持つ強大な蛇が、シュガーの魂を強く侵食する。
それに負けないように。自分を保つため、シュガーは強く叫んだ。
「おいで――っ! 魔龍ヨルムンガンドッ!!」
そして、シュガーの内から魔力が解き放たれた。
奈落の底から這い上がるような、純黒の力。触れるもの全てを捻じ曲げてしまう、理を支配する魔力。
実のところ、神獣の魔力には個体差――種族差がある。癒龍の魔力は圧倒的な質量を特徴として持つが、魔龍の魔力はそれとは異なった。
その特徴は密度にある。生半可な術式では魔力に負けて変質してしまうほどの、凄まじい密度だった。
魔力制御の難易度は通常の魔力とは隔絶している。ひねくれて、ねじ曲がった、極めて扱いづらい泥のような重さを持つ。
だが、シュガーは。最年少の大魔術師は、それを操る千の術を知っていた。
「桜さんっ! 私がやります!」
「おっけー! どうすればいい!?」
「焔鳥のっ――! 正面に!」
シュガーは術式を計算し始める。これから編み上げるのは、世界のどこにも存在しない未知なる現象だ。
魔術ではなく、魔法。魔龍の力を込めて編み上げた超越者の証明。
シュガーは羽ペンでいくつもの刻印を描く。チケットでは術式に耐えきれないため、空間に直接筆記した。
はじめての術式だと言うのにシュガーの筆記は止まらない。どこまでも自然体に、心の内から出てくる文字をそのままに書き連ねると、それが魔法へと変わっていった。
空間に無数の文字が浮かぶ。一つ一つの文字に魔龍の魔力が宿る。百と、二百と、三百と。浮かび上がったいくつもの文字が連なり、繋がって、意味を編む。
「シュガーちゃん! 準備はいい!?」
「いけますっ!」
最後の一文字を書き終わると、シュガーは宙に浮かぶすべての文字を引き寄せた。
五百と八十六の文字。それらに込められた全ての要素が、一つの魔法となってシュガーの手中に収まる。
出来上がったそれを握りしめ、シュガーは眼前を見据えた。
(ノア……っ!)
焔鳥の真正面でノアが戦っている。白衣を翻しながら、両手に重々しく魔力を込めて、神獣を相手に一歩も引かずに殴り合っている。
あの背中に憧れてここまで来た。あの隣に立ちたいとずっと願っていた。
でも、今なら。今のシュガーなら。
「ノア、見ていてください」
桜が操るほうきが、ノアの背を追い抜いて焔鳥の前に躍り出る一瞬。
聞こえるとは思わなかったが、シュガーは呟いた。
「――無理すんなって、言っただろ」
それは去年、ノアと再会した時の言葉だった。
返事があるとも、覚えてくれているとも思わなかった。追ってほうきを包み込んだ水のヴェールに、シュガーは笑みをこぼす。
「だから……っ!」
手のひらの輝きを焔鳥に突き出しながら。
シュガーは、ずっとずっと言いたかった言葉を、ようやく口にした。
「お前が言うなーっ!!」
手のひらサイズの小さな魔法が炸裂する。
後にひとひらの泡沫と名付けられるそれは、焔鳥の内に入りこんで、はらはらと溶け落ちた。
狂化した焔鳥の精神をなだめ、落ち着かせ、解きほぐし、問答無用で戦意を奪い去る。
あらゆる戦闘行為を拒絶する憧憬の魔法。
その魔法は、ノアや桜とはまた別の意味で、紛れもなく最強の一角だった。




