「お腹空いて起きちゃったの」
重い体を引きずって、なんとか村まで帰ったところで私は倒れた。
村はまだ大変な状況だということは分かっていたが、限界だったんだ。
「…………おはようございます」
呟き、寝台から体を起こす。私は教会の一室に寝かされていたようだ。
隣の寝台では桜が寝ている。竹刀袋を抱いたまま、幸せそうに寝息を立てていた。
窓の外では月光が残雪を柔らかく照らす。寝ている間に、すっかりと夜になっていた。
「一件落着には、まだ足りないけど」
ひとまず事態は収まった。私たちは、この災厄を乗り切った。
だが何もかもが終わったわけではない。一つ、気になっていることがある。
凍狼に突き刺さっていた、あの呪具のことだ。
「必死だったとはいえ、ぶっ壊しちまったからなぁ……」
引き抜いて調査できたならそれが一番だったけど、世界樹の聖緑でまるごと吹き飛ばしてしまった。
勇者以上の超越者である神獣を、ああまで狂わせるほどの強大な呪具。
一体あれは何なのか。誰があんなものを仕込んだのか。
そして、何故あんなものがこの世に存在するのか。それを突き止めるまでは、この事変は終わらない。
「……なんつーか、嫌な匂いがするんだよな」
鼻にぷんと突き刺さる、悪意の香り。
破滅を望む何者かの高笑い。
この感覚、この前も味わった覚えがある。
「まさか、な」
脳裏に閃いたのは、先月打ち倒したあの魔王。
あいつがばら撒いた黒死病の悪意。あの呪具からは、それによく似たものを感じた。
「月が綺麗だね」
窓枠から外を見る私の隣に、桜がいた。
月なんて目もくれずに、桜は私を見てにこにこと笑う。
「悪い、起こしちまったか?」
「ううん、お腹空いて起きちゃったの」
「そういや私も腹減った。食堂でなんか貰ってくるか」
まだ誰か起きてるといいけど。
窓枠から体を離してゆっくりと伸びをする。いいや、呪具のことはまた今度考えよう。
「ノアちゃん」
桜はじっと私を見る。
月明かりに照らされる彼女は、澄んだ瞳で私を見続ける。
真剣な彼女に只ならない様子を感じたが、私はそれ以上に。
ただ、綺麗だと思った。
「魔法のこと、教えて」
「……ああ、そうだったな」
長い話になるけど良いか、と桜に聞く。桜は黙って頷いた。
「最初から話すには因果律について話さないといけない。因果律の概念は知ってるか?」
「聞いたことはあるけど……。多分私が知ってるものとは、ちょっと違うかも」
「そうか。一応そこから話そう」
何も転移者じゃなくとも、因果律なんてものを知っているのは魔術屋だけだ。
ちゃんと魔術を勉強する上で因果律の概念は避けては通れないが、そうでないなら全く必要ない。
「一言で言うと、因果律は世界の筋書きとでも言うべきものだ。この世界の全ては因果律に沿って生きている。目には見えないが、そういうものが確かに存在するんだよ」
いつからあるのか、誰が作ったのかは誰も知らない。
遥か古代は因果律など存在せず、運命は未確定のままだったらしいが、いつの時代からかそれはこの世界の全てを支配するようになっていた。
「その因果律ってのは、絶対的なものなの?」
「そこまでじゃないぞ」
昔は因果律は絶対的なもので、人々は世界の筋書きをただなぞることしか出来ない、とも言われていた。
でも、その説は最近の因果律研究で否定されている。
「たとえば、明後日に財宝を見つける因果が定められているとする。それを努力次第で明日にすることもできるし、逆に何もしなければ数日後になるかもしれない」
「でも、財宝を見つけることは変わらないんだよね」
「まあな。過程は変えられても、結末は変わらない。因果律ってのはそういうもんだ」
もっとも実証する手段は無いので、これも仮説の一つに過ぎない。複数の可能性を観測する手段なんて、どこの誰にも持ちえないのだから。
それでも因果律は確固として実在する。それだけは確かだった。
「でもまあ、そんな風に生きるのは嫌だよな。自分が何を感じて、何を得て、何を失って。それが全部どっかの誰かに決められたものだなんて言われたら、そんなものぶっ壊したくなるだろ?」
「わかるかも。嫌だよ、そんなの」
「昔の人もそんな風に考えた。だから、因果律をぶっ壊す手段を生み出そうとした。魔術ってのはその過程で生み出された失敗作になる」
先に結論を言ってしまうと、魔術では因果律を壊すことはできない。
だが、決して無価値ではない。それどころか極めて有益なものだった。
「この世界からは因果律に直接干渉することはできない。だが、因果律から魂を通じて滲み出してきた魔力だけはその例外だ。魔力を使えば因果律に干渉ができたんだよ」
最初のそれはただの偶然だったらしい。
無茶苦茶に書いた文字列が偶然に魔力を操作して、因果律を僅かに引き寄せた。それが魔術の始まりだ。
「術式を使って魔力を加工し、加工した魔力で因果律に逆干渉する。魔術ってのはそういうもんだ。言ってることは難しいが、まあ見てろ」
指を弾き、音階を使って術式を編む。術式の編み方は色々あるが、私は音をよく使う。
編み上げた術式に、魂からにじみ出た魔力を通すと、指先に小さく火が灯った。
「これが魔術。厳密に言うなら、本来なら無関係なはずの『発火』の因果をここに引き寄せた。ここまではいいか?」
「なんだか、小難しいね……」
「よく言われる。術式に魔力を通せば魔術が使える、ってことだけ覚えとけばまず問題ない」
で、だ。ここまでが魔術の話。
ここまで理解ができたなら、魔法の説明は簡単にできる。
「それで、本題の魔法なんだが……。まあ、なんだ。一言で言うと奇跡だな」
魔術が因果律を破壊するための失敗作だとしたら、魔法は副産物と呼ぶべきだ。
魔術を研究する中で偶然生み出されたそれは、ただ因果律を引き寄せるだけの魔術とは一線を画する。
「魔法ってのはどれもこれも無茶苦茶なんだよ。新しい因果を生み出したり、既にある因果を書き換えたり、なんでもありだ。定められた因果からあまりにも逸脱しているせいで、何が起こるかまるでわからない。それが魔法」
吹雪や発火といった実在する自然現象を望みのまま引き起こすのが魔術。現象そのものを新たに生み出してしまうのが魔法。
似ているようで、その2つには天地の差がある。
「で、その魔法なんだけど。ぶっちゃけ人間には使えないんだ」
「使えないの!?」
「無理。使えない。絶対的に魔力が足りない。神獣レベルの魔力があれば使えるが、人間にそんなものはない」
「え、でも、ノアちゃんは使えるよね?」
「……桜も、な」
それが問題だった。
本来なら使えないはずの魔法。私たちは、それを使えてしまうんだ。
「私は勇者だ。神獣と魂を接続し、莫大な魔力給与を受けることで魔法を使える。でも、そんなことができるほど、人間の魂は強くないんだよ」
「神獣……。それってあの、フェンリルみたいなやつだよね」
「あれも神獣の一種だな。因果律の獣とも呼ばれる神獣種は、因果律と密接な関係にある謎多き種族だ。高い知性と莫大な魔力を持つ。伝承によると勇者を選び力を与えるともされていたが、それは事実と言っていい」
「じゃあ、ノアちゃんも神獣に選ばれたの?」
「そうだ」
それが、三年前の話。
私を選んだのは、永劫の神・癒龍ウロボロス。それに魅入られたあの日以来、私の魂は神獣と繋がっている。
「まあ、魔法ってのはそういうもんだ。神獣の力を借りて、魂に大きな負担をかけて、ようやく使える超常の奇跡だ。こんなもん気楽に使えるものじゃないし、気安く使っていいものじゃない」
「そっか……。魔法って、そんなに危ないものなんだね……」
「その認識さえあれば大丈夫だ。どっちにしろ、使わなきゃいけない時は使うしかないんだからな」
その機会はまた巡ってくるだろう。私はそう考えている。
この世界には因果律があり、私には勇者という宿命がある。そしてまた、桜にも何かしらの宿命があるはずだ。
見たことはないが、私の因果律には波乱が詰め込まれているだろう。そんなジンクスを、私は柄にもなく信じていた。
「質問には答えられたか?」
「うん、ありがとう。聞きたいことは聞けたよ」
「じゃあ、次はこっちから質問させてくれ」
桜はこくりと頷く。きっと、質問は覚悟していたのだろう。
天斬寺桜。転移者と名乗る少女。
彼女につきまとう謎は多く、私はそれを知りたい。
でもそれは、好奇心だとか、そんなのじゃなくて。
「桜のこと、もっと知りたい」
「にひ。ノアちゃんてば、おねーさんに興味があるのかな?」
「ああ」
首肯する。
私はこの風変わりな友人と、もっと仲良くなりたい。
ただ、それだけだった。




