「前言撤回。やっぱ帰れお前」
呪具が砕け散ったことで、荒れ狂っていた凍狼は落ち着きを取り戻した。
吹雪はすでに収束し、寒波で急速に生命を失いつつあった山も、世界樹の聖緑を受けて元の青さを取り戻している。
どこからか吹き込む風が、新緑の匂いを伝えてくれた。
「桜、無事か?」
「うん……。うん」
感触を確かめるように、桜は何度も手を閉じては開く。
凍月を斬り捨てるほどの魔法を行使してみせた彼女だ。その代償も背負ったのだろう。
「ノアちゃんは大丈夫? 多分、私と同じなんだよね」
「……ああ。私は慣れてるから」
「これに……。慣れちゃった、の……?」
私はそれに、ただ首肯を返した。
世界樹の聖緑を発動させたのは一度や二度ではない。使いこなすために練習を繰り返し、ようやくモノにした。
それでも……。何度使っても、強烈に魂を揺さぶられる嫌悪感は変わらない。
「それよりも……」
凍狼が私たちをじっと見ていた。
憎悪に歪んでいた瞳は影と消え失せ、穏やかなアイスブルーが理性的に輝く。
「神獣フェンリル。言葉はわかるな」
凍狼は小さく唸り、ひやりとした心地よい吐息が頬を撫でる。
神獣は本来ならば人間より遥かに賢い。体に刺さっていた呪具が砕け、理性を取り戻した凍狼は静かに私の言葉を聞いていた。
「あの呪具を突き刺されて正気を失っていたんだろ。他に異常が無いか見たい。伏せてくれ」
「…………がる」
言葉こそ語らないが、凍狼は嫌そうな顔をしていた。
私の言葉こそ聞いてくれるが、伏せたくはない。その様子はまるで、癒術士にかかるのを嫌がる子供のようだった。
「伏せてくれ、そのままだと診れない」
「ぐるる……」
「唸ったって駄目だ。ほら、早く」
それでも凍狼は伏せようとしなかった。
……あー、もう。しょうがないなぁ。
ウロボロス、ちょっと力を貸せ。いいか、ちょっとだけだぞ。
「一度だけ、言う。よく聞け」
魂を強く揺さぶりながら、癒龍の力を身に宿す。
拳に莫大な力を集め、瞳に烈火を宿して正面から凍狼を見据えた。
「おすわり」
「くぅん……」
ぺたっと耳を閉じ、凍狼はその場に伏せた。
よーし、いい子だ。最初から話を聞いていればもっといい子だった。
「ったく、神獣のお前と違って私がこれを使うのは負担が大きいんだよ……。神様にこんなお願いするのもどうかとは思うけど、もうちょっと人間の事情も斟酌してくれないか」
魂を侵食する魔力の嵐を耐えながら、凍狼の体を診察する。調べてみれば、変調はいくらでもあった。
呪具から染み込んだ瘴気の痕跡を浄化し、私たちから受けた傷を癒やす。淀んでいた魔力の流れを調整してあげると、凍狼の毛並みは美しく輝いた。
「よし、こんなとこか。あとは美味いもん食って寝てれば体力も回復する。大分魔力を消耗してるから、一週間は激しい魔力消費を控えるように。分かったな」
診察を終えて、ウロボロスと魂の接続を切る。
勇者の力を一日で二度も使ったのは初めてかもしれない。心身ともに消耗が大きくて、ごろんと体を投げ出した。
「あー、つっかれた……。ねっむ……」
このまま寝てやろうかと、そんなことを考えていると、凍狼がぺろりと頬を舐める。
何すんだよ、くすぐったいな。
「やーめーろって、もう。わかったわかった、起きるから」
体を起こそうとするが、凍狼は鼻先で私を転がす。そしてそのまま、舐めるのをやめようとしない。
何やってんだこいつ、と思った時、一つの考えが脳裏をよぎった。
「そういえば、因果律と密接な関係にある神獣は、魔力を主食にしているって言説があったな……」
凍狼はためらわず私の顔をなめ続ける。
あれ、これ、ひょっとして。私、魔力食われてる?
「おまっ……! 命の恩人に、なんてことを……!」
(気持ちはわかります。あなたの魔力は、私たちにとって極めて魅力的な味をしていますので)
「その話今聞きたくなかった!」
ウロボロスの声が脳裏に響く。神獣ってやつは、本当に、人の心ってものをわかってくれない。
「さくらー! たすけてー!」
「ごーめーんー……。なんだかすっごく疲れちゃったから、あとでいーいー……?」
少し遠くで桜も倒れていた。分かる、分かるよ。魔法を使った反動ってしんどいよね。
でも、今はそれを差し置いて私を助けてほしかった。こう、なんか、友情パワー的なやつで立ち上がってほしかった。
凍狼を止めるためにもう一度勇者の力を使うか、いやでもさすがに三度目は、と私が選択を迫られていると。
ぼふんと、煙が広がった。
「にんぽうっ」
ストーカーの声がした。
何もかもが終わった後に、ようやく起きた寝坊助の声がした。
「ならく、おとしっ」
御影は空中でくるくると回り、勢いをつけた踵落としを凍狼に叩き込む。
きゃうん、と間抜けな声がして、凍狼が私から離れた。
「あるじさま、ごぶじですか? あなたのみかげが、たすけにまいりました」
「来るのが遅いんだよ……」
もみくちゃにされた体をなんとか起こす。
ああ、もう。ひどい目にあった。
「ふぇんりる。あるじさまに、てをだしたら、ころします」
「おい、御影」
「ころします。かみさまだって、かならずころします。ぶっころします」
御影は静かに怒っていた。
舌足らずな口を懸命に動かし、凍狼に怒気を叩きつけていた。
「うせろ、わんこ」
御影がそう突きつけると、凍狼はゆっくりと踵を返す。
元気なくうなだれた尻尾が、妙に哀愁を漂わせていた。
「助かったよ御影。死ぬかと思った」
「あるじさまをなめていいのは、みかげだけですので」
「前言撤回。やっぱ帰れお前」
「そんなぁ」
凍狼は食欲に忠実だし、御影は忠義を履き違えているし、桜に至っては完全に寝息を立ててるし。
(娘よ、娘よ。私の力を使っても良かったのですよ。もっと頼りなさい)
ああ、こいつもいたな。だからお前の力は人間にとって負担が大きすぎるんだよ。
どいつもこいつも自分勝手すぎて、私はただただ頭が痛かった。




