「優雅と慈愛は乙女の化粧って言うだろ」
「実はさ、ずっと考えてたことがあるんだよ」
山頂を見据え、歩きながら口を開く。
「これだけの大規模魔術を、数日に渡って維持し続けた存在のことだ。ただの人間に引き起こせるものじゃない。だったらこれは、何者の仕業なんだ?」
強まる吹雪の中、かき消されないように言葉を紡ぐ。
「一つだけ心当たりがあるんだよ。こういう無茶苦茶ができてしまう、桁外れの存在に」
私はそれに三年前に魅入られた。
それに魅入られ、私は勇者に選ばれた。
それは人間とは隔絶した圧倒的な力を持つ、因果律の獣たち。実在する伝承にして、神話の体現者。
「ひょっとしたらそうじゃねえかな、って思ってたんだが……」
やっぱりか。
山頂に座すそれを見上げ、私は口角を釣り上げる。
空間すら凍てつくような凍気を放つそれは、白く、大きく、美しい毛並みを持つ巨大な狼だった。
あまりの凍気に自らも凍てついたのか、鋭い爪と柔らかな尾の先端は氷に包まれている。
私たちを見据えるのは、憎悪に満ちたアイスブルーの輝き。
「月の神獣、凍狼フェンリル。言葉は分かるか?」
呼びかける。獰猛なうなり声と共に、漏れ出した凍てつく呼気が気温を下げた。
神獣種。因果と密接な関係を持つとされる、莫大な魔力を持つ謎多き種族。
神に等しい力を持つ獣の一体が、そこに居た。
「なあ、なあ、なんだってこんな季節に雪を降らせる。冬の季節はとうに終わって、誰もが春を待ち望んでんだ。雪が恋しい夜も分かるけどよ、雪見酒ならもう十分――」
言葉を断ち切り、風が轟いた。
凍てつく寒気が身を裂いた。比喩ではない。凍狼が僅かに爪を立てると、凍気の刃が私の頬に赤い線を引く。
漏れ出す血も凍てつく寒さに、にやりと笑ってロザリオダガーを抜き放つ。
「ちょっとは話も聞いてくれりゃあ楽だったんだけどな」
知ってたよ、そんなに甘くないことなんて。
十字の刃に癒術を重ねる。紡ぐのは、凍気を退ける業火の癒術。
「熾天使の焰魂!」
特級癒術、熾天使の焰魂。私たちに宿った魂の灼熱が、降り積もった雪すら溶かす。
溶け出した雪は水を通り越して蒸気となり、凍狼が放つ凍気に晒されてはらはらと凍り付く。周囲に漂うのは、白く煙るダイアモンドダスト。
それを裂いて、私は叫んだ。
「桜、やるぞ! 結局こうなった!」
「ほとんど説得してなくない!? 戦うの最終手段って言ってたじゃん!」
「売られた喧嘩は買う主義なんだよ!」
コミュニケーションってのはな、敵の首筋に刃を突きつけてからやるものなんだよ。
言葉には刃を添えるのが一番良い。まずぶっ飛ばす、話はそれからだ。
一歩、踏み込む。ダガーを起点に癒術を編む。振るわれる凍爪をスライディングですり抜け、立ち上がりながら癒術を発動する。
「癒術防御ッ!」
結界術式を展開すると、直後に巨大なアギトが結界をギリギリと圧迫した。
神獣の一撃だ。即席の癒術で阻むには力が足りず、すぐにバキバキと砕け始める。
だが、その一瞬には空白がある。それさえあれば十分だ。
「腹一杯食えや――ッ!!」
ひび割れた結界にロザリオダガーを突き立てる。結界がバラバラと砕け、凍狼のアギトが自由となる一瞬、口内めがけて癒術を刻む。
「拡散波・痺式!」
神経伝達を阻害して行動を束縛する、麻痺の癒術。実戦を想定して作られた、無力化用の非殺傷癒術をダイレクトにたたき込む。
この至近距離で口内に直接麻酔を流し込んだんだ。神獣だろうと、この一撃を耐えられるか――!
「ノアちゃんっ!」
かくん、と後ろに力がかかる。
引っ張られる。後方に大きく体が飛ぶ。
ああ、桜に引っ張られたのか。脳がそう認識した直後。
凍狼の氷牙が、寸前まで私がいた場所を切り裂いた。
「ははっ……。さんきゅー、桜。助かった」
「無茶しないで、慎重に行こう」
「速攻でケリつけるつもりだったんだけどな」
あの野郎、拡散波・痺式をモノともしなかった。
立ち上がった凍狼は毛並みを震わせて氷を纏う。行動が鈍るどころか、やる気に満ちあふれている始末だ。
「並大抵の生物なら纏めて痺れさせる術式なんだが、神獣ってやつはタフだな、おい」
「ねえ、神獣ってなに?」
「やべーやつ」
「わかりやすい」
神獣についてもまた今度説明しよう。今は戦闘中だ。
どうやって無力化するかな、と、手管を考えていた時。一歩、桜が前に出る。
「ノアちゃん、私が行くよ」
「……分かった。殺すなよ」
「手加減する余裕なんてあるかなぁ」
「優雅と慈愛は乙女の化粧って言うだろ」
「初めて聞いたかも。でも、気に入った」
にっと笑う。笑みが交差する。
桜は竹刀を構え、私は癒術を編み上げる。援護は任せろ。
遊びは終わりだ。
「――」
雪が舞うよりも静かに、桜は駆ける。
竹刀を下段に構え、一足を踏み込み、ダイアモンドダストの間をすり抜ける。
「よっと」
凍狼の荒れ狂う突撃を、呼気一つで木の葉のように避ける。
流線上の軌道を描き、手品のように凍狼の裏を取る。
あまりにも洗練された身のこなしを、私は美しいと思った。
「極星斬魔流――」
姿勢を押し下げ、その場で低くくるりと回転。つま先が描いた真円が雪を巻き上げ、腰だめに竹刀を構える。
その構えは、あの時見たものとは異なっていた。
「一閃」
さん、と。真横に断ち切る静かな一閃。
桜が振るう竹刀に刃は無いはずだ。だが、真横に引かれたそれは、凍狼の体に赤い線を描いた。
「二葉」
流れるように切り上げ、滑らかに切り下ろす。
動きに迷いはなく、ためらいも無い。早く、鋭く、刃が重なる。
「三爪」
反応した凍狼の爪を、桜は正面から荒々しくはじき返す。
氷を裂いて爪を砕く、黒い刃。それは私が見た竹刀ではない。黒く輝く、曲線状の鉄が垣間見えた。
「四元」
氷を纏い、凍狼は神速の凍牙を放つ。
桜はくるりと刃を回し、柄で鼻先を打突する。神経が集中するその一点を正確に射貫かれ、凍狼は面食らった。
「五刃」
その一瞬、桜の姿がブレる。
速いなんてものじゃない。音すらも追いつかない、凄まじい速度の連撃。四撃――いや、五撃、か。
「六花――」
そして、桜の姿が消えた。
最早私の目では何が起こっているかすら分からない。ただ、数多もの斬撃だけが空間に描かれる。
「叢雲、ってね」
すとっ、と。軽い音がして、私の隣に桜が着地した。
手に握る黒い刃を、ひゅんひゅんと回す。最後に一線横に払うと、一拍遅れて、凍狼の体から大きく血の華が吹き上がった。
桜の手にある黒い刃は、いつの間にか元の竹刀へと戻っていた。
「桜……。お前、なんだ、その、今、何やったんだ……?」
「天斬寺流剣術亜流、極星斬魔流・六花の舞。お粗末様ですよ」
「よくわかんないけど、めっちゃすごいな」
援護のために編んでいた癒術も必要なかったようだ。戦えるとは聞いていたけれど、正直ここまでとは思っていなかった。
ドウ、と倒れ伏せた凍狼はぴくりとも動かない。むしろあの嵐のような攻撃を受けた凍狼の方が心配になる始末だった。
「……殺してないよな?」
「殺してないよ。っていうか、あれはちょっと殺せないねえ」
「そうなのか?」
「すっごく頑張ったら殺せるかもだけど……。でも、それよりも、あれ」
ぴっと、桜が指を指す。雪でけぶって見にくいが、倒れ伏した凍狼の背中に何かが突き刺さっているのが見えた。
黒い短剣のように見えるそれには、遠目からでも濃密な瘴気が感じられた。
「うっわ……。なんだよ、あれ……」
「あれってなんなの? なんか、やばそうだったけど」
「呪具だよ、それもとびっきりタチが悪いやつだ。あいつ、あんなもんぶっ刺してたのかよ」
呪具は何度か目にしたことがあるが、凍狼に突き刺さっているそれは、常識では考えられないほどに狂ったものだ。
それは寒気がするほど禍々しい瘴気を、とめどなく凍狼に流し込み続けている。今まで気がつかなかったことがおかしいくらいだった。
「あー、色々納得いった。あんなん刺してたら聖人君子でも発狂するわ」
「じゃあ、あれを抜いたらこの吹雪も止まるかな?」
「かもな。とりあえず抜いてみようぜ」
そんなことを話していると、凍狼はゆらりと立ち上がる。
体から冷たい血を流し、巨大な四肢で雪を凍てつかせながら。ゆっくりと天を仰ぎ見た凍狼は、高く遠く吠えて。
景色が、一変した。
「おい、おい、おい……」
空の遠くに輝く太陽が、消えた。
浮かび上がるのは凍てついた月。永久凍土に凍月は輝き、残酷なまでの冷気が時すらも凍てつかせる。
太陽が消え去り、凍月が浮かぶ。あまりにも常識から隔絶された、運命の埒外にある滅茶苦茶な現象。
確信する。
これは、紛れもなく、魔法だ。
「それは洒落じゃ済まねえだろうが……!」
魔法。大きな代償と引き換えに、奇跡を引き起こす超越者の神技。
惜しみなくそれを使って見せた手負いの獣は、凍てつくほどに熱い瞳を私たちに向けた。




