60・カスペルとセリアの関係1
「ノーラ様も楽しんでおられるようで、なによりです」
アシュトン邸。
庭の至る所には花壇があり、そこにはカラフルな花が植えられている。
アシュトン邸の執事──カスペルはじょうろで花に水をやりながら、昨晩にノーラと話したことを思い出していた。
『実はね、私たち……今日はエルフの村に来てるのよ』
まさかエルフの村に立ち寄っているとは思っていなかった。
人間と不可侵条約を結んでいるエルフの集落があることは、アシュトンから軽く聞いていた。
まだ誰も足を踏み入れたことのない秘境──そう聞いていたが、まさかノーラたちがそこにいるとは……驚きだった。
「いや……もしかしたら、そこまで変なことではないかもしれませんね」
とカスペルはすぐに首を横に振る。
どんな人でも──そしてそれがたとえエルフであっても、ノーラと一度言葉を交わせば、すぐに彼女の虜になっている。
彼女はそういう人間だった。
そして彼女の虜になっているのは、今回のエルフだけではない。
カスペルも彼女のファンの一人だった。
──ノーラがこの屋敷に来てから、日々の生活がさらに楽しくなった。
無論、アシュトンとライマー、カスペルの三人だけで暮らす生活が楽しくなかったかと言われれば、そうじゃない。
元々、ノーラが来る前のアシュトンはそこまで口数が多いタイプではなかった。屋敷では沈黙が流れることも多かった。
ライマーはそんなアシュトンにべったりだ。
アシュトンが彼をからかっているのを見るのは、個人的に面白かったが……しかしそれも毎度のことではない。
「それにアシュトン様は、なにか罪悪感をお持ちでした。おそらく、自分のことを『幸せになってはいけない人間』だと思っていたのが所以でしょうが……」
アシュトンが王宮から離れ、ここジョレットに来た理由。
本人は王宮での生活に嫌気がさしたと言っていた。そしてカスペルがわざわざ付いてくる必要はない……と。
(おかしなことです。私は生涯、アシュトン様に仕えるつもりだったのですから──私だけ王宮に残ることはあり得ません)
だからカスペルから言わせれば、好きで付いてきているだけなのである。
だが、アシュトンはそう思わなかったのだろう。
(私の現状がこうであることに、アシュトン様は罪悪感を抱いていた。アシュトン様がそんなことを思う必要はないというのに……)
とはいえカスペルがいくら否定しても、アシュトンは聞く耳を持たなかった。
そうやって塞ぎ込む日も、日に日に増えていった──そんな時だった。
次の婚約者候補として、ノーラがこの屋敷にやってきたのだ。
(アシュトン様はここに来てから、積極的に他人と関わろうとしませんでした。王宮で人間の汚いところばかり見ていましたからね。極度の人間不信でした。しかしノーラ様は──別だった。たった一回の剣戟で、アシュトン様は彼女のことを好きになってしまった)
『一度手合わせしてもらっても構いませんか?』
ノーラがアシュトンにそう言い放ったことは、つい昨日のことのように思い出せる。
カスペルはその時の光景を、少し離れた場所から見ていた。
(あの時は驚きましたねえ。あんな公爵令嬢がいるなんて、私は今まで見たことも聞いたこともない)
とつい苦笑してしまう。
「いけない、いけない。ノーラ様のことを思い出したら、いつの間にか笑顔になってしまいます」
……とはいえ、カスペルの表情は一切変わっていなかったが──彼は元々感情を面に出さない人間。暗殺者の時からそのことを叩き込まれていた。
ゆえにこれは、彼からしたら癖みたいなもの。
だが、アシュトンから言わせると、彼の表情は「分かる人には分かる」らしく、見分け方があるらしいが──当の本人、カスペルはそれを知らない。
「ノーラ様との旅行、楽しいでしょうねえ」
本当は自分も行きたかった。
しかし屋敷のことをほっぽり出して、三人に付いていっていいはずがない。
だからカスペルは我慢して、こうして屋敷の管理をしているわけだが──早くノーラ様に会いたいと切に願う。
そして彼女は帰ってきたら、笑顔でこう言うだろう。
『ただいま! 楽しかったわ!』
──と。
そこから一気に語られるであろう彼女の土産話を想像すると、カスペルの気分はさらに弾んだ。
だからノーラと会えなくても、我慢出来ると思ったが……。
「……でも誰も屋敷にいないとなると、少し寂しいですね。早く三人には戻ってきて欲しいものです」
──まさか自分がこんなことを思うようになるとは。
自分の変化に、カスペルは驚くのであった。
「あ、あのー……」
そうやって花に水をやっていると──不意にとある女性に話しかけられた。
カスペルはすぐに表情を元に戻し──とはいっても、その表情はほとんど変わっていなかったが──彼女にこう挨拶する。
「おはようございます、セリア様。今日はどうかされましたか?」
屋敷に訪れたのはノーラの友達、セリアだった。
彼女はアシュトンの婚約者候補だったこともある。
だが、アシュトンは彼女を門前払いにしてしまった。
お淑やかな令嬢。ノーラとは真逆なタイプだ。しかしその容姿は美しく、まるで儚げな花のような感じも受ける。
その時は気弱な少女という印象だったが……今は違う。
最初の印象とは違い、今のセリアからは明るさすらも感じた。
「ノーラさん、いらっしゃいますか? 彼女にオススメの本を持ってきたんですが……」
「お生憎様」
とカスペルは眉を八の字にして、申し訳なさそうな口調でこう言う。
「ノーラ様はアシュトン様とライマー様とで、とある事情で出掛けています。お戻りになられるのは、二、三週間先のことかと」
「そ、そうなんですね。残念です……」
しゅんと項垂れるセリア。
「わざわざご足労いただいたのにすみません」
「い、いえいえ! カスペルさんは悪くない……ですから!」
セリアはそう慌てて否定する。
(一執事である私の名前を覚えてくれていたんですね)
ちゃんと自己紹介をしたことがなかったと思うが──ノーラから自分の名前は聞いていたんだろう。
そう思いながら、セリアを見ていると、
「おや、それがノーラ様に渡そうと思っていた、オススメの本ですか?」
彼女が大事そうに抱えている本に目がいった。
「はい。これは『掃除係リヨンの恋物語』という題名のロマンス小説です。カスペルさんは、興味がないと思いますが……」
「ああ、それなら私も読みましたよ。不憫な主人公が頑張って恋を成就させていく様は、読んでてドキドキハラハラしますよね」
「え……? 読んだことがあるんですか? カスペルさん、男性なのに?」
「男はロマンス小説を読んではいけないのですか?」
「い、いえいえ! そんなことはありません! だけど珍しいなーと思って」
「ノーラ様がロマン小説をよく嗜まれていますからね。執事である以上、アシュトン様の婚約者──ノーラ様のことを理解するために、努力するのは当然のことかと」
「は、はあ……」
とセリアは返事をする。
「そうですね……せっかく来られたのですから、お茶をお入れしましょうか?」
「い、いいんですか!?」
「はい。ノーラ様のご友人に失礼な真似をしては、私が怒られてしまいます。お互いの好きなロマンス小説の話でもしましょう」
「は、はい! ぜひ──きゃっ!」
興奮したためだろうか。
パッと表情を明るくし、セリアがカスペルに近寄ろうとすると──彼女はその場でつまづきそうになった。
「おっと」
しかしセリアが地面に顔をぶつけてしまう前に、カスペルが彼女を優しく支えた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です! ありがとうございました!」
すぐにカスペルから離れ、セリアはスカートを軽く払う。
(む……? 触れてしまったのはまずかったでしょうか? しかしそうしなければ、転けてしまいましたし……)
顔を赤くして、頬を両手で押さえているセリアを見て、カスペルはそう首をかしげた。
「さあさあ、行きましょう。良い紅茶の葉があるんですよ」
「は、はい!」
カスペルが促すと、セリアはその後は慌てて付いていく。
(もしかしたら嫌われたかもしれませんね)
先ほどまでそうではなかったのに、今の彼女からはぎこちなさを感じる。
カスペルは心の内で、少し反省するのであった。
◆ ◆
セリアはその後、小一時間ほどカスペルとロマンス小説の話に花を咲かせ、今は馬車の中で帰途についていた。
「カスペルさん……素敵だったなあ」
彼女以外、誰もいない場所の中で──そう小さく呟く。
ノーラが不在だったのは残念だ。
だけど。
『ああ、それなら私も読みましたよ。不憫な主人公が頑張って恋を成就させていく様は、読んでてドキドキハラハラしますよね』
カスペルもロマンス小説を読んでいたことには驚きだ。
(おかげで人すらすらと喋ることが出来た。あんなに人と話してて楽しかったのは、ノーラさんに続いて二人目かもしれない)
しかもそれだけではない。
『大丈夫ですか?』
セリアが転けてしまいそうになった時、カスペルはそう彼女を支えてくれた。
彼のふわっとした手の感触。
男性に触れられた経験がほとんどなかったため、動揺してしまったが──嫌な気持ちには一切ならなかった。
それどころか幸福感が頭を包んで──。
(って! セリアはなにを考えているの!?)
首をブンブンと勢いよく横に振るセリア。
しかしいくら考えないようにしても、カスペルの顔が頭からこびりついたまま取れななかった。
──二人の恋が進展するのは、まだもう少し先の話だ。
鏡ユーマ先生による、当作品のコミカライズ一巻が7/29(金)に発売されます。
よろしくお願いいたします。




