35 因縁のはじまり(4)
「レオンハルト殿」
ヴィエルジュは甥の名を呼んだ。
「王の子なれば、貴方は学ばなければならない。貴方の知識はあまりに乏しい」
「そのとおりです」
レオンハルトはうなだれた。
ヴィエルジュは甥のあらわになった首すじを眺めた。
その顔つきは奇妙だった。
伯父の叱責を受けて己の無知を恥じる甥の姿は、伯父の望むところではないのか。
「レオンハルト殿。まだ成熟しきらぬ少年の貴方に告げるのは、私のような者であっても心苦しいことです」
ヴィエルジュは切り出した。
「しかしながら、だからこそ、貴方に伝える者がこれまであらわれなかったのでしょう。貴方の無知は、貴方だけの責ではない」
レオンハルトは顔をあげた。
伯父はひじをテーブルにつき、両手を組みあわせていた。
うつむき、その表情は見えない。
「どういうことですか」
レオンハルトは当惑してたずねた。
「貴方がその立場にも関わらず、何も知らされていないのは」
ヴィエルジュは、指を組みあわせた手の甲に、額を押しつけた。
「貴方を愛し、貴方を思いやり。それがために、さまざまな悪意から貴方をかくまってやろうとする、善良なるひとびとの罪でもあります」
リシュリューらしい黄金の巻き毛から、しわのある伯父の額がのぞいていた。
そこには年相応のしわだけではなく、伯父の意識から刻まれた、けわしい縦じわがあった。
「いえ、違いますね。この言い逃れは誠実ではない。私ヴィエルジュが、己の及び腰を他のひとびとと分かち合い、軽減しようとしているに過ぎません」
ヴィエルジュは甥に懺悔した。
伯父の深く息を吸い込む音が、レオンハルトの耳を伝う。
彼は、目に見えぬ手によって、心臓を乱暴につかみあげられたような心地になった。
鼓動は極限まで速められようとしていた。
「これから貴方に打ち明けることは、目下、私ヴィエルジュと、父シャルル。それから妹マリーといったリシュリュー宗家の我ら。そして貴方の兄、ジークフリート殿」
伯父の碧い瞳が、甥レオンハルトの碧い瞳を見つめた。
哀れみのこもった目つきだった。
「これら限られた人間しか、知りえないことです」
ヴィエルジュは、よく陽に焼けた甥の手を、白く細い自身の両手で覆った。
二人の肌の色は、まるで似ていない。
「そしてあと二名――ともすれば、三名」
ヴィエルジュはかすれ声でつぶやいた。
「誰です?」
レオンハルトはたずねた。
伯父が打ち明けようとする話とは、いったいなんのことなのか。見当もつかない。
それだのに、レオンハルトが伯父へと問いかける声は、慎重に低くおさえられ、ひょっとすると震えてさえいた。
ヴィエルジュの碧い瞳には甥が。
レオンハルトの碧い瞳には伯父が。
焦点はほかにない。
芸術的なガラス杯も、金箔で塗られた燭台も、素晴らしい壁掛けも、なにも映さず、互いだけを映しあった。
「確実なのは、父殺しのヨーハン。その共謀者、蛇のアンリ。この二名」
苦々しく、しぼり出すように、ヴィエルジュは罪人たちの名を告げた。
「そして法の裁きを見逃した、鷲のオーギュスト」
ここにいたって、ヴィエルジュの口ぶりは、きっぱりとしていた。
「親愛王を敬愛していた彼が、よもや手を汚すはずがありません。しかし、既知の可能性はあります」
ヴィエルジュは立ち上がった。
テーブルをはさんで伯父と向かい合っていたレオンハルトは、伯父が足早にこちらへ寄るのを、ぼんやりと見上げた。
ヴィエルジュは甥を抱擁した。
甘い香りが甥を包み込んだ。
「ああ! 私は無邪気な少年に、なんとむごいことを! 許してください!」
伯父ヴィエルジュの叫びは、レオンハルトを恐怖におとしいれた。
息を吸う。息がうまく吐き出せない。
また息を吸う。しかしやはり、息をうまく吐き出せない。
しだいに胸が苦しく、しめつけられるように激しく痛み始める。
父殺しのヨーハン?
つまり、父ヨーハンは、祖父アルブレヒトを殺めたのか。
ひとびとに愛された親愛王を殺し、その玉座を奪った、おぞましき父殺しの王だというのか。
共謀者、蛇のアンリ?
未来予知をうそぶくヴリリエール公爵もまた、君主への忠誠心のかけらもない、うす汚い王殺しの蛇なのか。
法の裁きを見逃した、鷲のオーギュスト?
法の番人たる、厳格なメロヴィング公爵が、まさか。
彼には幼少期より、世話になってきた――。
なぜ。
兄上も知っていた?
なぜ。
なぜ、なぜ、なぜ。
息ができない。
胸がつぶれそうに苦しい。
息が、息ができない。
「どうかしましたか」
ヴィエルジュは甥から身を離した。
甥は身を丸めていた。
伯父は甥の顔を覗き込んだ。
「顔色がひどく悪い」
ヴィエルジュは甥へと気づかわしげに語りかけた。
「横になりましょう。こちらへおいでなさい」
ヴィエルジュは甥の肩を抱き、寝台へと導いた。
レオンハルトのかすむ瞳に、そのさきにある寝台が映った。
それは彼に用意された部屋にあった、今はナタリーが一人眠る寝台より小さく、簡素なつくりだった。
ヴィエルジュは甥の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いた。
彼は落ちつきはらい、優しげな目くばせをよこした。
「すわりますよ」
ヴィエルジュの声かけと同時に、二人そろって寝台に腰をおろすと、彼は甥の背を数回たたいた。
あたたかく、いたわりに満ちた手つきだった。
その手は器用に、甥の腰をしめつける革のベルトをほどいた。
ついで薄手の平織りウールのチュニックが、伯父の手によって脱がされた。
伯父の心配りによって、寝台に横たえたレオンハルトは、じょじょに呼吸を落ち着けていった。
するととたんに羞恥心が彼をおそった。
「見苦しい姿をお見せしました」
レオンハルトは急いで起き上がろうとした。
しかし立ち上がる前に彼は、自身が薄絹の肌着姿であること。そしてその肌着は、胸元の紐がほどけているという、王子として人前にあらわす格好をしてないことに気がついた。
あわてて紐を結びなおす。
「まだ、やすんでいなさい」
ヴィエルジュは、強がる甥をおしとどめた。
「見苦しいことなど、なにひとつありませんよ。貴方を苦しめたのは、ほかの誰でもない、この私なのですから」
怪訝そうに眉をひそめる甥に、ヴィエルジュは背を向けた。
戻ってきた伯父の手には、湯の張られた盥と清潔な白い布があった。
「分別のある大人として、貴方の伯父として。優しい思いやりを持ち、段階を経て、ゆっくりと貴方に示唆するべきでした」
ヴィエルジュはあたたかく湿った布で、甥の汗をていねいにぬぐった。
「マリーの兄である私ヴィエルジュも、妹によく似た罪を犯してしまいました」
レオンハルトは伯父のなすがままに身を任せた。
彼のウールのショースにしまいこんだ肌着を、伯父が引きぬいた。
肌着の裾がたくしあげられ、彼は大人しく、幼児のような素直さで両手をあげた。
伯父は「失礼しますよ」と断り、甥の上半身のすみずみまで清拭した。
「母とよく似た罪とはなんですか」
レオンハルトは肌着をショースにしまいこみながらたずねた。
ヴィエルジュはサイドテーブルに置かれた盥を見つめていた。
そこには、甥のからだを拭き清めた、使用済みの布が半分外側に垂らされ、浸してあった。
「伯父上」
レオンハルトがふたたび呼びかける。
「あの頃はまだ、ジークフリート殿も今のようではなく、幼くあどけない、愛らしい幼児でした」
ヴィエルジュは、ぽつりぽつりと語り出した。
「兄上が?」
レオンハルトは不意をつかれ、目を丸くした。
いぜんとして伯父は盥を見つめたまま、レオンハルトに横顔を向けるのみだった。
そのうえ伯父の話は唐突で、レオンハルトの問いとはまったく繋がりがないように思われた。
「ジークフリート殿の、こどもらしい、母を慕う無邪気な浅慮が正されたのは、彼が現在の貴方より、ずっと幼い頃のことです」
ヴィエルジュは甥を一瞥し、「忘れもしません」と言った。
「彼は、彼の母マリーと、彼の見知らぬ、不審な男であったトリトンとの密会を、意図せず覗き見てしまった。そこで、彼のみずみずしく柔らかな心は踏みにじられ――」
そこまで言うと、ヴィエルジュは力なく首を振った。
「加えて、マリーの不貞が、ジークフリート殿のためにヨーハンに知られてしまった。それがために起こった騒動に起因するのでしょう」
レオンハルトはこわばった顔で、ほとんど伯父を睨んでいた。
というのも、彼は奥歯をかみしめ、頬を震わせ、泣き出さないよう必死だったのだ。
レオンハルトの脳裏に、彼の見たことのない、幼き日の兄の姿が思い浮かんだ。
あどけなく愛らしい、無邪気に笑う兄。
その兄の笑顔が凍りつく。
見開いた丸い瞳には、男女の姿。
幼いこどもは、その目を小さな手で覆い隠す。
『見えない、見えないよ』
けれど、こどものうるんだ瞳から、むつみあう男女の姿が、消え去らない。
なぜなら彼が見ているものは、彼の目の前で起こっている現象でありながら、一方で、まったくそうではないのだから。
ヴィエルジュは、サイドテーブルの蝋燭を吹き消した。
甥の頬を伝う涙が、少しばかり見えにくくなった。
「正直に言って、私はジークフリート殿が好きではない」
すすり泣く甥を抱擁し、ヴィエルシュは言った。
レオンハルトは抵抗しなかった。
「ひとがそれぞれ個人として秘めておきたい事柄を、隠れて暴くような。そのような彼の固有魔法には、どうしても嫌悪感がある。
だが一方で、父親からも母親からも愛を得られず。王者たろうと孤独に己を律する、哀れな一人の息子の痛々しい姿を、私も一人の父親として、同情する」
ヴィエルジュは甥から身を離した。
「妹マリーの所業を、兄として申し訳なく思います」
涙にぬれるレオンハルトを見つめ、ヴィエルジュは謝った。
「レオンハルト殿はどうか、ジークフリート殿と共にあってください。彼の信頼と心の安らぎは、きっと貴方にあるのでしょうから」
ヴィエルジュはレオンハルトを残して、寝台から立ち去った。
甥に背を向け、さきほどまでの椅子に腰かけた伯父は、デキャンタを杯へと傾け、ワインをたっぷりと注いだ。
テーブルには蝋燭があかあかと燃えていて、伯父の肌着を照らした。
そのために、薄絹の下にある、伯父の華奢な肩の輪郭まで透けて見えた。




