25 リシュリューとして
女扈従が部屋中の燭台に火をつけて回るのを、レオンハルトは椅子に座って眺めていた。
暖炉はない。というのも、リシュリュー侯爵領は山間部を除いたほとんどの地方が、一年を通じて温暖であるからだ。
この宿はリシュリュー侯爵領のうち、北部にある。
半島トライデントとは海をはさんで向かい合うリシュリュー侯爵領であるが、ここ北部は、エノシガイオス公国から地続きのいくつかの小国を経て、最初にたどり着くフランクベルト王国領土である。
トライデントを制してから、一行は騎馬や徒歩でここまでやってきた。
トライデントからリシュリュー侯爵領へと進むのに、すぐ目の前に広がる穏やかな海を避けたのは、海の覇者と呼ばれるエノシガイオス軍との海戦を避けるためであった。
だが、それだけではない。
列国を経由することで、凱旋としてフランクベルト王国の勝利を列国に見せつける意味合いもあった。
これら列国とフランクベルト王国は友好関係を結んでおり、行軍の兵糧調達において安全に、また豊富に手に入れることができた。
この同盟関係とは、フランクベルト王国外交使節団が勝ち取ったものであった。
使節団の全権大使は、先日立太子されたばかりの第一王子ジークフリート。
この外交交渉は、彼が王太子としてではなく、多くの王子たち、その長男としてのみの地位にあった頃の、最後の大仕事となった。
使節団のおもだった人員はジークフリートのほか、彼の婚約者、メロヴィング公爵令嬢ミュスカデ。それから彼の祖父、リシュリュー侯爵である。
フランクベルト王国とエノシガイオス公国の対立について、列国は日和見に様子をうかがっていた。
そこへきて開戦直前、フランクベルト王国が列国に判断をせまった。
ジークフリートが、大国の次期君主らしい威厳と頑強さで圧力をかけるのに対し、ミュスカデとリシュリュー侯爵は優婉な語り口で列国君主らと歓談した。
彼らの緩急つけた交渉が、このたびの行軍を有利に運び、結果、勝利へ導いたともいえる。
戦争は戦場でのみ終始するものではない。
レオンハルトは祖父リシュリュー侯爵の功績について、あらためて、その息子であるヴィエルジュに礼をしなくてはならなかった。
それだから、リシュリュー宗家の嫡男ヴィエルジュが、フランクベルト王家の第五王子レオンハルトへ、親愛の証として労いの女を贈るというのならば。
その厚意を無下にすることはできない。
女が蝋燭をつけるほかには、すでにほとんど準備のなされている部屋を、レオンハルトは見渡した。
フランクベルト王家の礼儀として、逃げ出したいのを必死にこらえる。
置き物に壁掛けや絨毯といった装飾品はもちろん、みずみずしい生花が白い陶磁器の花瓶に飾られ、かぐわしい香りを放っている。
夜食として並べられているのは、ワイン、まだ温かい羊肉の香草焼き、つけ合わせのパン。
それから整然と並べられた輪切りの砂糖漬けオレンジが、見る目にも美しいケーキ。
風呂に寝台のシーツまで整えられた様子は、伯父ヴィエルジュがあらかじめ差配していたのでなければ、理にかなわない。
「それで、殿下のお悩みとはなんでございましょう」
蝋燭に火を灯すための燃え木を手に、女がレオンハルトのもとへやってくる。
細い燃え木の先端で、小さな炎が揺らめいていた。
女がふうっと息を吹きかけ、炎が消える。
「僕の相談を覚えていてくれて嬉しいよ」
レオンハルトは嬉しそうに、はにかんでみせた。
「もちろんですわ」
椅子に腰かけるレオンハルトの足元に、女がひざまずく。
「他家でもよいというのではなく、リシュリューの女をお求めだと聞けば、忘れられるはずがございません」
「そう。相談というのはほかでもない、リシュリュー家についてなんだ」
レオンハルトは彼の膝にのせられた、女の青白い手に、自身の手を重ねた。
「僕にもリシュリューの血は流れるけれど、君ほどにはリシュリューの血が濃くないものだから」
「まあ」
女は驚いたように目を丸くした。
「殿下の御身体には、我が国で最も尊き建国の獅子王、その御血が流れていらっしゃるではありませんか」
「たしかに」
レオンハルトはうなずいた。
「でもリシュリューの一族は、リシュリューであることを何よりの誇りにしているだろ」
「さようにございます」
女は悩むことなく、即座に答えた。
「だからね。伯父上や宗家の人間が、僕をリシュリューの一員として認めてくれているのか。それが不安でね」
レオンハルトは女の碧い目を見つめた。
「たとえば敵将トリトン公子が、捕虜たちを集めた屋外の牢にはいないようだけど。彼がいったいどこに繋がれているのか、僕にはわからないんだ。どうやら司令官キャンベル辺境伯も、彼の所在について詳しくは知らされていないらしい」
女はレオンハルトが語るのを静かに聞いている。
トリトンの名を出したことに、なんの感慨もないようだった。
驚いた様子も、警戒を強められた気配もない。
「トリトン公子は敵ながらすばらしい英雄だ。もし、伯父上がお許しくださるのなら、彼と会話をしてみたいんだ」
そこまで言うと、レオンハルトは女から目をそらした。
女の手に重ねたレオンハルトの手は、じっとりと汗ばんでいた。




