21 枕元の語らい(1)
レオンハルトは寝台の上、あおむけの姿勢で天井を眺めていた。
となりには、隙間なくぴったりと身を寄せるナタリー。
ナタリーの背中をなでるレオンハルトの手つきは緩慢だった。
ほとんど無意識の動きだからだ。
ナタリーの上半身は、豊かな黒髪で覆われていた。
そのためにレオンハルトの指先が触れるのは、温かくなめらかな素肌ではなく、たっぷりとした髪だった。
一本いっぽんが太く、しっかりとしたナタリーの髪。
戦場ではごわついて、複雑に絡まったり縮れたりしていたが、今や潤いが戻ってきている。
戦場を離れてからというもの、勝利の祝宴が開かれることもあり、粗末な兵糧ではなく、美酒美食にありつけるようになった。
じゅうぶんな睡眠も取れる。
今夜の宿にいたっては、ほとんどの兵士らにはまったく縁遠い、上等の宿だ。
審美に厳しいリシュリュー家。その嗣子ヴィエルジュの差配した宿なのだから、当然だ。
珍しかったり、手間のかかった、豪華でうつくしい芸術品で飾り立てられ、限られた身分の者達だけが出入りするような館。
そんな宿で提供される香油は、もちろん最高級品だった。
香り高く、質感もよい。
レオンハルトは香油をたっぷりと両手に垂らし、ナタリーの髪や全身にくまなくぬりこんだ。
ナタリーの肌も髪も、彼女らしい生命力に満ち、みずみずしい輝きを放っていた。
初めて二人が寝台をともにした夜とは、すっかり見違えるようだった。
だがレオンハルトは彼の指先に、ナタリーの髪が絡んでこないことに気がついていない。
彼の意識は、中途半端に置き去りにされた話題を再考するのに沈み込んでいた。
「あの夜は、君も僕も、互いに戦の直後で高揚していただろう」
レオンハルトは切り出した。
愛しげな様子でレオンハルトの鎖骨をなぞったり、もてあそんでいたナタリーの指が止まる。
レオンハルトは顎を引いた。こちらを見上げるナタリーと目が合った。
「君が僕のテントに入ってきたとき、ほんとうのところ、君には早く出て行ってほしかった」
「どうして?」
ナタリーはたずねた。
その声に咎めるような色はない。
レオンハルトが話を続けるよう促すためだけに、彼女は言ったのだ。
ナタリーの額にかかる髪を、レオンハルトは優しい手つきで押しあげた。
「君を愛していたから」
レオンハルトは言った。
ふたりの視線がまっすぐに結ばれる。
じれったそうに睨みつけてくるナタリーに、レオンハルトはちいさく肩をすくめた。
ナタリーの肩を抱いたままそうしたので、挙上するレオンハルトの胸の上、ナタリーもつられて浮かび上がった。
「戦の高揚感に引きずられて、手短に済ますなんてことを、君にはしたくなかった」
苦々しくレオンハルトが言えば、ナタリーは笑った。
「まったく手短じゃなかったわ」
「そのとおり」
レオンハルトも笑い、ナタリーのひたいにくちづけた。
「性急ではあったけどね」
ナタリーがからかった。
「あの日はまだ、狩りに不慣れだったんだ」
胸の上にのぼってきたナタリーの顔を、レオンハルトは下から見上げる。
シーツへと垂れ落ちるナタリーの黒髪が、仕切りの壁掛けのように、ふたりと外界とを線引きした。
レオンハルトが手を伸ばし、ナタリーの頬にそえた。
ナタリーはその手を取り、くちびるを押し当てた。
「娯楽狩猟は王室の特権なんじゃなかったの?」
挑むような上目遣いでナタリーが言った。
「娯楽狩猟は君と出会ってから引退したよ」
「それはどちらの娯楽狩猟?」
ナタリーのまなざしに嫉妬の炎を見て取り、レオンハルトはニヤリと笑った。
レオンハルトは勢いよく起き上がり、ナタリーの肩をつかんだ。
ぐるりと回転し、すばやくふたりの位置を交代させる。
レオンハルトはナタリーの手首を寝台にぬいつけた。
「『こちら』は君が初めてだって、君もよく知っているだろう、ナタリー」
レオンハルトがナタリーの胸元に顔をうずめて言った。
そのくすぐったさに、ナタリーは声を上げて笑った。
足をじたばたさせるナタリーに、レオンハルトは問いかけた。
「それで、今日の狩りは満足できた? 確かめてやるって君、昼間に言っていただろ」
レオンハルトはナタリーの手首を解放した。
じっと見つめると、ナタリーの黒い瞳に、彼の顔が映り込んでいるのが見えた。
「ええ。大口をたたくにじゅうぶんだったわ」
ナタリーはレオンハルトの背中に両腕を回した。
ほほえみを交わし、ふたりはしばらく深いくちづけの時間に浸かった。
整わない湿った呼気が相手のくちびるを温め、互いの鼻先がぶつかるくらいの距離で、ふたりは見つめ合った。
「あの晩求め合ったのは、僕たちふたりとも、戦のあとの異様な興奮が影響していなかったとは言えない。だけど、戦特有の日常から切り離された、一時的な情熱だけじゃない。ナタリー、僕は君を愛している」
レオンハルトは真摯に訴えた。
「それだから、こどもができたら嬉しいと言ったんだ」
「あなたが流されたなんて言って悪かったわ」
ナタリーは素直に詫びた。
「いいよ。気にしていない」
レオンハルトはほほえんだ。
彼は内心、『それに事実だ』とうつろにつけ加えた。
「優しいのね」
ナタリーが眉尻をさげると、レオンハルトはいたずらっぽく片方の眉をあげた。
「優しいだけの王子様はつまらない?」
「前にも言ったけど」
ナタリーはくちびるを尖らせた。
「レオンがあたしに、そんな役を演じたことは一度もないでしょ。レオンあなた、出会いがしらにあたしに言ったこと、もう忘れちゃったの?」
「なにか言ったっけ?」
とぼけるレオンハルトの胸に、ナタリーが拳を叩きつけた。
「あたしを目の前にして、『レディが見当たらない。レディがどこにいるのか教えてくれ』なんてぬけぬけと言ったくせに!」
「それを言うなら君だって、僕のことを我儘王子だなんだと、ずいぶんひどい言われようだった」
レオンハルトは振り上げられたナタリーの拳をつかんだ。
ナタリーが気まずげに目をそらした。
レオンハルトは「忘れてなんかいないよ、もちろん」と言って、ナタリーの顔を覗き込んだ。
「とんだじゃじゃ馬だと思った。これまでに出会ったことのないような」
ナタリーに覆いかぶさる格好だったのを、レオンハルトはその横に並んで寝転んだ。
手は繋いだままだ。
「皮肉が通じないにもほどがある、とも」
レオンハルトは首をひねって、ナタリーへと顔を向けた。
「どれだけ純粋無垢なお嬢さんなんだろう、この子はもしかしたら天から遣わされた天使なのかもしれないってね」
「それが皮肉だってことくらい、今はわかるわ」
ナタリーはくすくすと笑い、鼻先をレオンハルトの鼻先にこすりつけた。
「でも今は、ほんとうに思うんだ」
ナタリーのくちびるを軽くはみ、レオンハルトは言った。
「皮肉なんかじゃなく、君はほんとうに天使だって。僕のもとに降りてきた天使」
繋いだ手とは逆の手で、レオンハルトはナタリーの頬をなでる。
「これまで神を信じてはいなかったけれど、君と出会えたから、信じてみてもいいような気がしている」
「信じていなかったの?」
ささやき声でナタリーが言った。
「だって神なんて、ひとびとをまるめ込むことで、王家が効率よくこの国を統治するための虚像だろう。加えて、これといった特産物のない、貧しく痩せた土地しか持たないアングレームの人間が、口先だけで金を稼ぐための手段に過ぎないじゃないか」
嫌悪感をにじませて持論を展開するレオンハルトに、ナタリーは「びっくりするくらい不信心ね」と返した。




