9 リシュリュー侯爵の歌
「仔獅子が恋をした」
リシュリュー侯爵は、自身が寄進した彫刻に、長い腕を回し、情感豊かに歌った。
「遠く長い道を辿り、運命の乙女と出会った」
リシュリュー侯爵は、眉間を寄せ、声を張り上げ、彫像に縋った。
彫像は異国の女神像だった。
イルカの背に乗り、黄金の冠を頭に戴き、黄金の三叉槍を手に、黄金のヴェールを裸の身に纏う、海の女神。
乳白色の大理石でできた女神の、固く冷たい乳房を、リシュリュー侯爵はつるりとなでた。
ガスコーニュ侯爵は、リシュリュー侯爵の手つきに目を留めた。
「貴公の蝶の口で、トライデントの売女が乳を吸ってやれ、リシュリュー侯!」
ガスコーニュ侯爵がすかさず、野次を飛ばす。
「そやつをかつて愛撫し、熱く火照らせてやった剛の者は皆、此度の戦で、使い物にならぬわ!」
キャンベル辺境伯率いる国軍の制した、トライデント。
城壁でぐるりと囲われた城塞都市。
その石造りの堅牢な門をくぐり、石畳を進むと見えてくるのが、立ち並ぶ騎士館。
それから宮殿かとみまごうほどに広大な、騎士団長トリトンの居館。
それらすべての館に敷き詰められた、鮮やかなモザイク床の上。
まるで義務づけられているかのように、必ず佇んでいる彫像があった。
海の女神像は、そのうちのひとつ。
かつてリシュリュー侯爵が王へと寄進し、この会議室に鎮座している彫刻とは、はたして。
トライデントにおける海の女神像と、まったく同じ女神の偶像であった。
リシュリュー港とトライデント港は、海を挟んで隣り合う。
両者の気候は近く、好む芸術にも似通うところがあった。
フランクベルト王国とエノシガイオス家の反目が決定的になった後も、リシュリュー家はエノシガイオス家との交易を続けていた。
リシュリュー侯爵は会議室に集う観客へ、にっこりと笑いかけた。
それからガスコーニュ侯爵の野次に応えんと、女神像の乳房先端へ、うやうやしい様子で口づけを落とした。
ガスコーニュ侯爵は腹を抱えて笑った。
品のないやり取りに、オルレアン侯爵はやれやれ、と目玉を回した。
その隣りでアングレーム伯爵は嫌悪露わに、険しい顔つきで目をつむった。
「仔獅子が運命の乙女に出会い、それで、どうしたのでしょうか?」
アングレーム伯爵の不機嫌を感じ取り、エヴルー伯爵がとりなすように口を挟んだ。
「歌の続きは、どのようになりますか?」
それからエヴルー伯爵は、アングレーム伯爵の耳元へ、次のように囁いた。
「ご安心くだされ。これで貴方の厭う話題を抜けますよ」
アングレーム伯爵はのけぞるようにして、エヴルー伯爵から身を離した。
アングレーム伯爵の目の前で、肉づきのいいエヴルー伯爵は頬をピンク色に染め、豚のように小さな目を細めていた。
アングレーム伯爵は出来る限り冷静を装い、「どうも」と一言だけ返した。
媚びを売るような嫌らしい笑みには、いつ見ても吐き気がする。合わないのだ、根本的に。
「ええ、ええ! アングレーム伯爵。貴方のお役に立てて、何よりですよ!」
エヴルー伯爵は豚のように鼻を鳴らした。
甲高いエヴルー伯爵の声に、王が「静まれ」と厳しく叱責した。
「余が許したのは、蝶の舞であり、馬や豚の話芸ではない」
ガスコーニュ侯爵は「失礼した」と言うと、気まずそうな苦笑いを浮かべた。
見るも気の毒なほど顔色を失い、くちびるを震わせるエヴルー伯爵には、慈悲の心でアングレーム伯爵が微笑みかけてやった。
普段は素っ気ないアングレーム伯爵からのいたわりに、エヴルー伯爵はたちまち、頬をピンク色へと戻した。
エヴルー伯爵の鼻息が荒くなったのを確認したとたん、アングレーム伯爵は微笑みを地に落とした。
「若き情熱は、仔獅子に思い起こさせた。『われは人なり。乙女と生きる、人の身なれば』」
リシュリュー侯爵は、艶のある声を響かせ、さきほどからの続きを歌い始めた。
「ゆえに青と共に封じるべくは、蛇の見た凶兆」
会議室を満たすリシュリュー侯爵の歌を聞くうちに、いつの間にか、ヴリリエール公爵は苛立ちを引っ込めたようだった。
「然り、然り。蛇の見た凶兆よ」
メロヴィング公爵を睨んでいたはずのヴリリエール公爵は、リシュリュー侯爵を見やり、にたりと笑った。
リシュリュー侯爵はヴリリエール公爵へと、ちゃめっ気たっぷりに片目をつむった。
「仔獅子は知った」
続きを歌い上げながら、リシュリュー侯爵は、ちらりとメロヴィング公爵を見やった。
「彼の恋の成就について、兄仔獅子と鷲が揃って、偉大なる獅子に嘆願したことを」
メロヴィング公爵は相変わらず興味を示さず、台座上の王とその隣のジークフリートを眺めているようだった。
リシュリュー侯爵は小さく肩をすくめ、先を続けた。
「はてさて、結末はいかに。兄仔獅子が青を継ぎ、弟仔獅子は人となるか」
リシュリュー侯爵の視線の先で、ジークフリートは、身動きひとつしていなかった。
口を引き結び、後ろ手を組み。
ジークフリートはリシュリュー侯爵へ、感情ののらない冷たいまなざしを向けていた。
リシュリュー侯爵は内心、面白くなかった。
彼の息子、ヴィエルジュが昔、ジークフリートに向かって、「貴方の御心は氷のように冷たい」と嘆いたのも道理だ。
息子の言う通り、孫の心は氷のように冷たい。
リシュリュー家の血をその身体に流しながらも、祖父の寸劇に理解を示してやろうという、素振りすら見せないのだから。
リシュリュー侯爵の道化っぷりは、そもそもが、鷲と蛇の不要な対立を抑えんという、気遣いから生ずるものであった。
それだのに、ジークフリートは微笑みのひとつ、向けようとはしない。
孫として、王子印の笑みで与するくらい、よいではないか。
なぜならリシュリュー家は、侯爵自身が述べたように、事実、害のない蝶であることがほとんどなのだから。
政戦芝居で役者を演じることには、興味がない。
基本姿勢は、芝居の出来の良し悪しに関わらず、敬意を払って拍手と世辞を送る、礼儀正しく陽気な観客。
だが。
ときに、戯曲家となることには、やぶさかでない。
リシュリュー侯爵はふわりと飛び上がって、彫像から離れた。
彼の滑らかな上衣が、風をはらんで膨れ上がった。
リシュリュー侯爵の着地から遅れて、彼が身に纏うとろりとした布地は、ドレープを描き、ゆったりと床に落ちる。
薄紫のシルクサテンの上を、細かい光の粒が流れていき、散った。
「兄仔獅子と鷲が受諾を得た。弟仔獅子は蛇の先導に習った」
リシュリュー侯爵はふたたび、王へ頭を垂れた。
「万事がすべて、陛下の偉大なるご差配なれば」
とうとう歌が終わり、会議室はしんと静まり返った。
リシュリュー侯爵は頭を垂れたまま、拍手を待った。




