6 流してもいい血、失ってもいい生命
「以前、リリュシュー港の波止場で、あの旗がひるがえるのを見た」
ようやくレオンハルトは重い口を開いた。
「ジークフリート兄上とともに」
「ジークフリート殿下とご一緒に……」
腕の中のナタリーがぴんと背筋をのばすのが感じられ、レオンハルトはくすぐったい気持ちになった。
ナタリーがレオンハルト同様に、兄を敬愛してくれることが嬉しかった。
もともとナタリーは、王家を軽んじるような娘だった。
それが今や、レオンハルトとともに、兄ジークフリートに忠義で仕えんとしている。現国王ではなく、次代の国王、ジークフリートに。
いまだ立太子していないジークフリートへと国内外で疑問の声が囁かれる中、レオンハルトはこの件でナタリーに憤りたくはなかった。
だから、ジークフリートを敬うナタリーが、レオンハルトにはますます愛おしく感じられた。
それでレオンハルトの口は、先ほどより少しばかり軽くなった。
「うん。兄上が言ったんだ。『我等が守るべき、無辜の民が血は、赤い』と」
レオンハルトはナタリーを抱きしめる腕に力をこめた。
「加えて、『我が国の民も、敵国の人間も。皆、血は赤い』と」
ナタリーが身じろぎするのが感じられた。
レオンハルトは腕をほどいた。
「今ここにジークフリート殿下がおられたら」
ナタリーのレオンハルトを見つめる目は、冷えきっていた。
「敵国の赤い血を流すなと。そう仰せになるとでも?」
「それはない」
レオンハルトは即座に否定したが、ナタリーは「ばかばかしい」と吐き捨てた。
「確かに彼等には赤い血が流れていることでしょう。それでもあたし達は敵を討たなければならないのよ」
ナタリーは感情を昂らせてレオンハルトにかみついた。
「でなければ、人民を守れない!」
「そうだね。人民の血を、僕達は守らなければならない。では彼等は?」
レオンハルトは我ながら陳腐で愚かな言い分だと自嘲しながらも、力なく反論した。
「彼等もまた、守るべき血のために戦っていた。彼等にも赤い血が流れていた」
ナタリーはじっとレオンハルトの瞳を見つめてから、「ああ、もう!」と唸り、頭をかきむしった。
「ごちゃごちゃ考えるからダメなのよ」
ナタリーはレオンハルトに指をつきつけ、睨め上げた。
「いいこと? 誰を守り、誰を斬るのか。それを判断するのは、あたし達じゃない」
ナタリーの言い分に、レオンハルトは眉をひそめた。
「それは極論すぎやしないか。部下を従え、人を斬るよう命じるのならば、考える頭くらい持たなければダメだろう」
「考える頭。ええそうね。それくらいはね」
ナタリーは鼻で笑った。
「でもレオンもあたしも、国中を治めるほどの器なんてないでしょう。違う?」
「違わない」
レオンハルトは素直に認めた。
自身が王になりたいなど、一度たりとも願ったことはなかった。
レオンハルトが夢見てきたのは、兄ジークフリートが王になることだ。
偉大な王となるに違いない、八つ年上の兄王子。誰の代わりもいない、唯一無二の兄。
レオンハルトの誇り。
人生のすべてを捧げると心に決めていた、レオンハルトが忠誠と信頼を寄せる、ただ一人の家族。
兄ジークフリートの役に立つことこそ、ナタリーと出会ってからも変わらない、レオンハルトの揺るぎない願いだった。
「流してもいい血、失ってもいい生命の選別は、あたし達にはできない」
ナタリーは言った。
「それは国王陛下が決めるのよ」
腑抜けたレオンハルトを鼓舞するために、ナタリーはレオンハルトの胸倉を掴み上げた。
「優しいだけの王子様を演じたがる、腰抜けレオンではなく。この国の王になる、ジークフリート殿下のお役目よ」
「流してもいい血、失ってもいい生命」
ナタリーの啖呵をレオンハルトは復唱した。
「選別は、王になる兄上のお役目」
「ええ。そうよ、あたしはそう思う」
ナタリーはレオンハルトの腕をさすった。
「あたし達は、名誉を汚さないことを第一に、進み続けましょう。あたし達の考える頭を携えて」
ナタリーは微笑み、レオンハルトに口づけを落とした。
レオンハルトは応えた。複雑に絡まり、ごわついたナタリーの黒髪の中に、指を差し入れ、まさぐった。
ナタリーは髪の抜ける痛みに、小さく呻いた。




