閑話 燃え落ちた初恋(1)
柱に続いて梁が落ちた。
先には一瞬で火柱を消したナタリーだったが、ジャックの目の前で燃え盛る炎は、なぜか一向に弱まる気配がない。
熱い。ひたすらに熱い。
空気そのものが燃えているようだ。息を吸えば、同時に火煙も吸い込み、のどが焼け爛れるような痛みを伴う。
ジャックは熱さと息苦しさに耐え、今にも気を失いたくなるほどの恐怖から目をそらした。リナをきつく抱きしめ続ける。
竜が羽ばたいているかのような暴風が、不規則に渦を巻きながら吹き荒れていた。
ジャックはリナを抱擁する自身の体に巨大な羽が生え、嵐のごとき風を吹き出させているような錯覚に陥った。
「……ック!」
声が聞こえた。誰の声かはわからない。
声の質に音の高低など、荒れ狂う炎と風では判別がつかない。聴覚は麻痺しているし、それ以上に脳が正常の動きを放棄している。
しかしジャックは努めて冷静になろうと耳を澄ました。
ナタリーだろうか? それともレオン?
どおっという轟音とともに、なんとかしがみついていた残りの屋根が、すべて崩れ落ちた。
すると、再び聞こえてくる声。
「リナ! ジャック!」
先ほどよりずっと明瞭に、ジャックの耳に届いた。
ナタリーじゃない。レオンじゃない。
声の出処はどこだ。
燃え盛る炎と巻き上がる煙の中、ジャックは目を凝らした。
「こっちだ!」
火煙をかき分け、やってくる者がいた。
ジャックは近づいてくる影を警戒し、リナを抱擁する腕力を強めた。
「こっちだ! リナ! ジャック!」
シャツの襟ぐりを引っ張り上げて口元を覆い、あちらこちらに立ち昇る炎や瓦礫を器用に避け、駆け寄ってくる。
「無事か?」
ジャックの肩を力強く揺すぶる手。
村の子供。リナにカエルを仕掛けた、いじめっ子。ジャックの悪友。
木こりを害したリナの代わりに、その汚名をかぶった、恩人。
ジャックは目に新たな涙が浮かぶのを感じた。
煙によって真っ赤な目からは、頬へとすでに涙を流していたが、ジャックの胸を熱くさせたのは、猛烈な火煙ではなく、少年の必死な呼びかけだった。
少年はさっと素早く周囲に目を走らせた。
「こっちだ。早く!」
少年がジャックの背を強くたたいた。
ジャックは頷き、リナを引っぱり上げた。リナは意外にも素直に立ち上がった。
驚いてリナの顔を覗き込めば、がらんどうのような瞳とぶつかった。
ジャックは固まった。気がつけば、竜の風もすでに吹いていない。
「何してんだ! 見つかっちまうぞ!」
じれったそうに少年がなじる。
「走れってば!」
少年はゲホゲホと激しくむせながら、ジャックの腕を乱暴に引っ張った。
ジャックははっとしたように少年を見た。
「でも、ナタリーとレオンが――」
「大丈夫だって!」
苛立ったように少年が遮ると、ジャックはびくりとした。
大丈夫、の言葉を残したナタリーが、全然大丈夫なんかではなく、敵の残した大丈夫、がこの窮地を招いた。
「ナタリーはめちゃくちゃ強いじゃねぇか!」
少年がジャックに噛みつく。
「窓の外から見てた! あんな強いやつ、俺たちが心配しねぇでも、平気に決まってんだろ!」
動こうとしないジャックの背を、少年はぐいぐいと押し出した。
「それよりおまえらの方だよ! ここに残って足手まといになっちまうのは!」
「足手まとい?」
振り返ったジャックの目に入ったのは、煤で黒くなった、少年の鬼の形相だった。
「そうだ! おまえらがここに残って、レオン先生がそうなったみてぇに人質に取られたら。今度こそナタリー、捕まっちまうぞ!」
「でもレオンが――」
ぐずぐずと踏ん切りのつかないジャックに、少年が痺れをきらした。
「うるせぇ! 俺はリナを守るんだ! こねぇなら、おまえはもういい!」
少年がジャックの背から手を離した。
反作用だけが残され、ジャックは後ろへと、たたらを踏んだ。
「リナ、行くぞ!」
少年はリナの手をぐいと引っ張った。リナがつまづいて倒れた。
舌打ちしてから、少年はリナの肩を抱き上げ、引きずった。
リナは抵抗しなかったが、自ら足を動かすこともしなかった。
ジャックは後ろへ振り返った。
落ちた柱と梁、それに屋根。その他、小屋を形作っていた何か。
あたり一面、火の海だ。加えて、もうもうと立ち込める黒煙。
ナタリーの姿もレオンの姿も見えない。
ジャックはくちびるを噛んで拳を握った。
ぎゅっと鼻にシワを寄せて目を瞑ると、ジャックは踵を返した。
火煙を切り分け進む少年とリナを追った。
「子供が逃げるぞ!」
焼け落ちた小屋を抜け、煙の含まれない、冷たく澄んだ空気を、むせることなく肺いっぱいに取り込んだところだった。
ジャックにリナ、少年を目ざとく見つけたらしい男の声が、三人の子供たちの逃亡を仲間に知らせた。
もとは見張りに立っていた男だろう。
少年は火事の混乱に乗じて哨兵の目をくぐり抜け、リナとジャックの元へやってきたのだった。
「まずい!」
少年はリナの頬を平手でたたいた。
「頼む! 走ってくれ、リナ!」
「……ぶった?」
リナの目に生気が戻る。
少年の顔が輝いた。
「ああ! ぶったたいてやった!」
少年がリナの腕を引っ張る。
「あとで俺を殴っていいから! だから、走れ! リナ!」
「わかった。あとでぶん殴る」
リナは少年の手を振り払って駆け出した。
少年は喜びに胸が高鳴った。リナの心が戻ってきた!
しかしそこへ、怒声もまた戻ってきた。
「待て!」
全速力で駆ける三人の襟首を捕まえようと伸びてくる、恐ろしい声。
かと思えば、「子供は捨て置け!」という鋭い叱責が飛び込んできた。
三人を引き留めようとしていた男とは、違う男の声。
「殿下、それは、しかし。ご命令が――」
「何度も言わせるな! 子供は構うな! 魔女さえ捕えればよい!」
戸惑いの声は遮られ、ふたたび叱り飛ばされた。
それらのやり取りも、次第に遠のいていく。三人はがむしゃらに走った。
魔女さえ捕えればよいというのなら、レオンは大丈夫だ。変なことはされない。逃げられる。
そしてナタリーだけならば、きっと誰にも負けない。ナタリーは強い。
ジャックの不安で凍えるようだった心は、温めた山羊乳のような、甘く心地よい安堵に包まれていった。




