21 杯と語らい
「ああ……。戻ってきたな」
ジークフリートがその細い腕を振り上げると、窓から差し込む陽光は一層、赫赫とし、ジークフリートの指先に集う。
その光は何か薄い膜で覆われたかのように柔らかになると、ジークフリートの手首、肘、二の腕、それから心の臓へと伝っていき、やがて眩いばかりの青い光を放って収束した。
「ふふ。だいぶ私はおまえに意地悪をしたようだ」
険しく厳しい冷徹なジークフリートの表情に、陽だまりのような温もりが差す。暗く陰鬱だった頬に、薔薇色の輝きが戻った瞬間だった。
「そんなことは――」
ジークフリートの変貌。
彼の能力を知っていても、レオンハルトには慣れるものではない。
慈愛に満ちたように細められたジークフリートの眼差し。そこから逃げ惑うようにレオンハルトは視線を彷徨わせ、床下へと落とした。
「あるだろう? 可愛い弟よ。さあ、改めて抱擁させておくれ」
立ち上がり、レオンハルトの背に腕を回すと、ジークフリートは吐息交じりに安堵の声を漏らす。「ああ」というジークフリートの感嘆。レオンハルトの胸にも、じんわりと広がる兄の愛。
「よかった。レオンが無事に戻ってきた。この腕に囲うのは、紛れもなく私の可愛い弟、レオンハルトだ」
二度ほどレオンハルトの背を軽く叩くと、ジークフリートは身を離した。
レオンハルトはジークフリートの目を覗き込む。ジークフリートの目の奥には、青い炎が揺らめいていた。
「お戻りということは、兄上。メロヴィング公爵令嬢はお休みに?」
「ああ。ミュスカデは寝床についたことだろう」
ジークフリートが口元を手で覆う。だが、ジークフリートの筋張った手は、笑みの形に持ち上がっている頬を隠しきれてはいなかった。
上目遣いでレオンハルトを見やるジークフリート。
「まさか、レディの寝室にまで付き纏うわけにはいかないだろう? 私はレオン、おまえが羨ましいよ」
「なにを……」
「聞いたぞ。キャンベル辺境伯令嬢とは、午睡まで共にしたとか」
「それは稽古疲れで! 倒れ込んでいただけで! それに! 僕達はまだ子供で! 不道徳な関係にはありません!」
飛び上がって叫ぶレオンハルトの声が裏返る。
ジークフリートはのけぞらんばかりに大笑いした。
「ああ! ようやくレオンが私に打ち解けてくれた! 悪かったな。おまえの帰宮には万全を期したかったのだ。だが、どうにも手間取ってしまった」
レオンハルトの年相応の子供らしい声色を、ジークフリートは大いに喜んだ。先程までとは違って。
天使のジークフリート。悪魔のジークフリート。慈悲と無慈悲。
彼がそれを使い分けるのは、意図的であることもあるが、必要に迫られ、そうならざるをえないことも多々ある。
光を取り戻す前のジークフリートが、レオンハルトにさえ、凍えるように冷たい眼差しをくれていたように。
「さて。ミュスカデが包囲網を張ってくれた。ここからは何の鬼胎も不要だ。まずはレオン。おまえの無事と、婚約を祝おう。それからレオンの、ようやくの固有魔法発現について」
ジークフリートは錫の杯を掲げる。
王国民の血のように赤かった夕陽は絶えた。未練がましい名残、その橙と薄紫が、竜の鱗を模した錫に映り込む。
レオンハルトもジークフリートに倣い、杯を空けた。
甘くフルーティーな味が口の中いっぱいに広がる。胸はほんのりと温まるが、喉が焼け付くようではない。
子供でも祝いの席では一杯を飲み干すワイン。
ジークフリートは重ねて、レオンハルトの杯にワインを注いだ。
「そして語り合おう。私の未だ立太子されぬことについて」
ジークフリートは間もなく、二十歳になろうとしていた。
フランクベルト王国の成人は十五歳。
とうに成人して久しい第一王子。正嫡の子、ジークフリートは、未だ太子の座にない。
王妃の生家リシュリュー侯爵家と、ジークフリートの婚約者の生家である筆頭公爵家のメロヴィング公爵家。
この二つの大家の尽力によって、ジークフリートが立太子されないことへ、不安の声がのぼらぬよう、抑えられている。だがそれもいよいよ限界に近い。
「レオン。馬を駆り、剣を佩く少年の日々に別れを。おまえも学べ。王となるべく」
レオンハルトは杯を空けなかった。ジークフリートが代わりに飲み干した。




