17 大鴉の森
シダの葉ががさごそと揺れる。
よくよく見ると、大きなシダの葉やブナの木々のあいだに、痩せた男がひとり立っていた。
「ああ、くそ」
棒切れのような足をがたがたと小刻みにふるわせ、男はもごもごとくぐもった声で独り言ちた。
「やだやだやだやだやだやだ。いやだなあ、もう」
男が身に着けるチュニックは、他人からゆずり受けたおさがりなのだろう。
横にも縦にも小さい男の身に余ってぶかぶかだし、くたくたになるまで使い古されている。
胸元と袖、裾のそれぞれに刺繍がほどこされていることから、それなりの財産持ちが作らせた衣服なのだろうが、ずいぶん色褪せている。
いまとなればほとんど灰色にしか見えないのだが、刺繍糸がゆるんだりほどけたりした部分だけ、緑色がどうにか残っていた。
緑色の染料はそれほど高価ではないが、金のない人間は日常着のチュニックをわざわざ色染めしたりはしない。
それだからチュニックそのものはなかなかどうして、華々しい来歴を経ているのかもしれない。
とはいえ男の貧相な姿では、過去の威光を名残惜しむようにしがみついた緑色の点々は、カビが生えているようにしか見えなかった。
もちろん、チュニックの襟ぐりや裾は、まるまったりちぎれたり。茶色く汚れている。
「なんでまた俺が」
なめし革のようによく日焼けした頬を、おなじく日に焼けた手でごしごしとこする。
「いつもそう。いつもこういうめんどうなことばっかり」
痩けた頬と小枝のような指がこすれることで、白っぽい垢がぽろぽろと地に落ちた。
「お嬢様になんか拾われるんじゃなかった。ほいほいついていくんじゃなかった」
ひからびてかさかさのてのひらをじっと見つめると、男はますますみじめな心地になった。
「金持ちのお嬢様についていったのに、贅沢なんかちっともできなかった。孤児院暮らしのときとぜんぜん変わらない。ていうか孤児院暮らしに戻っているし。なぜかお嬢様といっしょに。どういうこと。意味がわからない」
日が暮れはじめ、村一帯はあかね色に染まっている。
みすぼらしくも人の手が入っていると知れる畑。ひょろひょろと穂をのばす麦。
柵に囲われた狭い牧草地。小屋に戻されていない鶏や山羊などの家畜。牛馬は見当たらない。そのおかげか、男はひどい糞臭をかがずに済んだ。
体の大きな家畜は、体臭も糞臭もひどい。
蜂蜜売りの行商人でもやってきた日には、汗と垢と糞と蜂蜜。それぞれちがう甘さをもつ臭い玉が大気中を縦横無尽に暴れまわり、てんで好き勝手に自己主張する。
それはもうひどい。ひどいというほかに、言葉が見当たらない。
鼻めがけて一直線に殴りかかってきては、鼻をへし折らんとする強烈な臭いを思い出し、男は顔をしかめた。
それから気を取り直して、まばらに並び立つ家々と村人たちに目をやる。
「あいつら、俺のことおぼえているのかな。おぼえているよな。ああ、いやだいやだ」
男は大きく突き出た目玉をぎょろぎょろと落ち着きなく動かして、村人たちの姿を目で追った。
かとおもえば、ぎゅっと目をつむる。
こわくてしかたがない、というように、男は顔を手で覆った。
「俺のばか。今も昔も本当にばか。お嬢様のば――」
男の鬱々とした文句をさえぎるように、男の背後から突如としてばさばさという、大きな羽ばたき音が襲う。
男はびくりと肩をふるわせた。
あわてて後ろへ振り返る。なにもない。羽音を追って頭上を見上げると、大鴉がその大きな漆黒のつばさを広げていた。
「いや、うん」
夕暮れ空に浮かぶ黒い影を見送り、男は首を振った。
「ちゃんとやる。ちゃんとやりますよ、拾われたご恩がありますからね」
ブナの太い幹に身を隠しつつ、大鴉を睨めつける。
「お嬢様には名前までつけてもらっておいて、そのくせ役目を放っぽりだすような。俺はそんな恩知らずじゃないんです。ですからハロルド様には『ただ飯食らいのルーク』だなんて、ひどいあだなで呼ぶのをやめていただきたいものです」
うらみがましく未練たらしく。男はいまだぶつぶつと、その場から動かずシダの繁みにとどまっている。
すると、大鴉が進路を変えて戻ってくるではないか。
「うわっ」
男はしゃがみこんだ。そのひょうしに、苔で足をすべらせる。
「いたっ」
尻もちをついた男は、両腕で頭をかばいながら、おそるおそる目をあげた。
木々の合間をくぐって、大鴉が男の頭上を往復している。
「ああああ。もう、やりますったら」
男は大鴉に向かって弱々しく抗議した。
「ちょっとしたお願いをしてくればいいだけでしょ。わかっていますってば」
男の言い分をのんだのか、大鴉が村里へと飛び去る。男は安堵の息をついた。
そうなると今度は尻が濡れて冷たいことが気になってくる。先日の雨でできた水たまりに、ちょうど尻をつけこんでしまった。
「あれって本当にただの大鴉なのかな」
よいしょ、と腰をあげて、尻についた泥を手でこすり落とす。
「それともあの大鴉の正体はお嬢様……のはずはないか。ばかだもんな、お嬢様」
泥と苔で汚れたてのひらを眺め、男は笑った。
「お嬢様も俺とおなじくらいばか」




