7 断崖の洞窟
丸く切りぬかれた青空。そこに一筋の白線が引かれる。
羽を広げて滑空する海鳥だ。
海鳥は海面すれすれまで高度を下げてから、ふたたび上昇する。
海面から離れるとき、ぎらりと光った。海鳥につかまった魚が銀鱗をくねらせ、必死に抵抗しているのだろう。
アルフレッドは額に浮かぶ汗を、手の甲でぬぐった。
岩壁に囲まれた洞窟内は、ひんやりと冷たく、心地がいい。
入口付近の岩肌は、陽光を浴びた灰白色。岩壁の下辺、光り輝く水面に近づくにつれ、岩肌は碧に染まっていく。
洞窟の奥へと進めば、陽光から遠のき、影に覆われる。
洞窟内部を形成するのは、澄んだ紺碧の浅瀬。それから苔を生やした黒褐色と黒灰の、ごつごつとした岩だ。
洞窟の外から聞こえてくるのは、波の打ちよせる音。海上を飛び交う海鳥の鳴き声。
洞窟内では小魚が浅瀬を泳ぎ、ゴカイが砂上に這っている。
ほかに生ある者の気配はない。
葬儀のなされなかった死せる者は、冥界への渇望と、葬儀を施さぬ生者への恨みを抱え、洞へと集う。
昨夜の晩餐時に、主催者であるリシュリュー侯爵がおもしろおかしく、賓客アルフレッドに言って聞かせた。リシュリューに伝わる古い民話のひとつだそうだ。
船底が岩にこすれたので、アルフレッドはボートから降りた。
洞窟内に立てられた鉄柱と鉄環の両方に、ロープをつなぐ。
非力なアルフレッドは、波間に揺れるボートとともに幾度となく流されかけた。そのたびに船首が狭い洞窟の入り口にひっかかり、金色の太陽が照りつける海原へと投げ出されずに済んだ。
苦労してつないだ柱と環のどちらも、海水で錆びている。
アルフレッドの手は腐食鉄にまみれた。労働を知らない白くやわらかな手が傷つき、赤茶色に染まる。
洞窟内の腐食した柱と環を新調するよう、リシュリュー侯爵に勧告しなければ。
リシュリュー領主館に帰館してから、アルフレッドがすべきこと。その長いリストの最後に、彼はもう一項目つけ加えることにした。
愛国の七忠の所領へと出向き、しばらく滞在する。
アルフレッドに課せられた、フランクベルト王太子としての公務だ。
体裁としては、王太子の表敬訪問。しかし実情はどうだろう。
アルフレッドが思うに、人質のようなものだ。
フランクベルト家と、建国より名を馳せる旧家との間には、根深い対立がある。
それにも関わらず、供のひとりもつけずにリシュリュー領主館を抜け出し、ここまでやってきた。
軽率であることは、アルフレッドにも自覚がある。
――僕を殺してエドをたてることに、ずいぶん都合のいい展開じゃないか。
しかし、とアルフレッドは自己弁護する。
リシュリュー家は旧家のひとつではあるが、純血主義穏健派。
純血主義穏健派がアルフレッドへの支持を明言することはないが、今のところ、敵でもない。リシュリュー家がいますぐアルフレッドを害することはないだろう。
アルフレッドを斃せば、彼らにとって最大の敵対勢力、純血主義強硬派を盛り立てることになるからだ。
純血主義とは、ごくごく簡単に言えば、建国王より授けられし青い血を至純至高とし、赤い血を混ぜることなく、尊き青い血を守らんとする立場だ。
純血主義には穏健派と強硬派との二派がある。二派とも旧家が主たる支持者であり、両者は激しく対立している。
純血主義の二派のほかには、アルフレッドを支持する多民族主義者。それから、自治都市や植民地等の独立解放を求める国民主義者。いずれにも属さない中立派などがある。
著しく目立った動きをとるのが、純血主義強硬派と国民主義者であるが、国民主義者は被支配者層が占めるため、現状、政権争いには加わってこない。
フランクベルト議会は二院制で、議員席は平民にも与えられている。しかし平民議員のほとんどが多民族主義者であり、国民主義者とは対をなす。
よって、フランクベルトの家名を背負う三人の王子たちのうち、誰に王位を継がせるべきか。といった支持争いに注目したところ、直接関与するのは、つぎの三者。
純血主義強硬派、純血主義穏健派、多民族主義者である。
愛国の七忠のうち、旧き二家は第三王子エドワード支持を明確にしている。
第三王子エドワードの母ソフィーは、フランクベルト王オットーの側妃であり、愛国の七忠のひとつ、旧家オルレアンの出自だ。
オルレアン家は、純血主義強硬派の要。
つまりアルフレッドの異腹の弟エドワードは、純血主義強硬派の旗頭だ。
アルフレッドはやれやれ、と独りごち、波打ち際にある大きな岩に腰かけた。
海水によって浸食された岩は丸い。そもそも、この洞窟の成り立ちが、荒波に岩盤を削られたことによるのだろう。
今は満潮だ。
澄んだ海水が、ひたひたとアルフレッドの足首を取り巻いて波打つ。そのうち潮が引いていくのだろうが、完全に引くまえに戻らなければ。
アルフレッドは、ベストの内側からオレンジを取り出した。
鼻孔をくすぐるオレンジのさわやかな香り。深く息を吸い込む。肺がオレンジで満たされる。
アルフレッドは満足し、すこしばかり離れた場所にオレンジを置いた。
完全にたいらとはいかないが、衝立のように盛り上がった起伏がある。
不安定な岩の上で球体のオレンジが転がっても、突出部分が落下を阻んでくれるだろう。
それからもうひとつ。アルフレッドはがさごそと胸元に手をやった。
取り出したのは、じっとりと汗に濡れた一冊の本。
昨晩、リシュリュー侯爵がリシュリュー民話披露のついでに、アルフレッドへ贈った本だ。
題はつけられていない。
内容は収集した民話を編纂したものらしく、編纂者はヴィエルジュ・リシュリュー。何世代か前のリシュリュー侯爵だ。
リシュリュー家には好事家や蒐集家といった趣味人が多いが、彼も多分に漏れず、風流人であったらしい。
蝶の意匠が箔押しされた褐色の革表紙。右側上下に取りつけられた、ふたつの留め金。
留め金は純度の高い金でできている。錆びつくことなく、機能に支障なく、すんなりと外れた。
黄みがかった灰色の羊皮紙に、指先をすべらせる。やわらかくなめらかな感触。肌によくなじむ。
あざやかな彩色が美しい挿絵。流麗な装飾文字。今や死語となりつつある古セプト語でつづられている。
これはきっと、ヒューバートが好きだろう。
アルフレッドは親しい友の顔を思い浮かべる。
ヒューバート・キャンベル。
キャンベル辺境伯嫡男で、アルフレッドより二つばかり年下だ。
武勇に長けたキャンベル家らしく運動能力に優れるが、学問を苦手とするキャンベル家らしくなく、歴史学を好んだ。
民話は民俗学の範疇かもしれないが、ヒューバートは興味を示すことだろう。
アルフレッドがヒューバートを気に入るのには、いくつか理由がある。そのうちのひとつ。
ヒューバートはきわめて現実主義で、理想主義なキャンベル人らしくなかった。
アルフレッドの手足となって働く忠実な臣下が、己の思考と似通ってくれるのであれば、非常にやりやすい。対立することになれば強敵だが、味方であるうちには頼もしい。
それだから、アルフレッドが格別に気に入っている友ヒューバートへ、この民話を託すことを決めた。
どうせならアルフレッドが翻訳してやり、ヒューバートへ贈ればいい。
そう思い、アルフレッドは人目を忍んでこの洞窟にやってきた。
リシュリュー侯爵領は晴天に恵まれた、非常に美しい土地だ。
空は青く、金色の光に照らされた銀色のオリーブや、オレンジの実と緑の葉といった光景は美しい。
真っ白な砂浜は開放的で、陰鬱で窮屈な王都フランクベルトとは比べるべくもない。
しかし、一年を通じてほとんど曇天であるフランクベルトに慣れた身とあっては、リシュリュー侯爵領は暑すぎた。
思考が鈍るのだ。
この温暖な気候は、長く過ごせば過ごすほど、人の精神を堕落させる。
もちろんこれは、迷信じみて稚拙な発想だ。そんなような危機感を抱いたこと自体が、アルフレッドには許しがたかった。
おのれの愚鈍さにいよいよ耐えがたくなり、アルフレッドはこの洞窟へと逃げ込んだ。
冷えた頭で、じっくりと向き合いたい。
そうでなければ、いつしかリシュリュー侯爵のからかい声に真実味を感じてしまいそうだ。
リシュリューの地に伝わるという、数々の民話。数多いる神々。
ときおり小魚が飛びはねる音。洞窟内にこもって反響する、水の音。静かに渦巻く風の声。
女の笑い声に似た高い風音がアルフレッドの耳元をかすめる。そうかと思えば、女が深く嘆いているかのような低い風音が、下方から勢いよく吹き上がって聞こえてくる。
いつのまにか霧がたちこめている。洞窟内は濃霧にすっかり覆われ、入り口の先はまったく見渡せない。
紺碧の浅瀬が日に照らされたかのように、まばゆい碧に輝きはじめる。
膝の上にのせた本が、突然、ぱらぱらとめくられた。
しぶしぶといった具合にアルフレッドが目をやれば、女の細い指が見えた。その指は熾火のように、外側は黒く、芯は真っ赤に燃えている。
指先から熱灰をまき散らし、黒煙がたちのぼる。
「これだから、リシュリューは好きじゃない」
うんざりとした口ぶりで、アルフレッドはぼやいた。




