6 光の王子
ユーフラテス率いる一行が王宮内にたどりつくと、ナタリーはまず、真っ黒な煤汚れを落とすよう命じられた。
不気味そうにナタリーをながめる女たちの、こわごわとした手によって身を清めさせられる。かと思えば、厳格そうな年増の女が年若い女にあれこれと指示を飛ばし、ナタリーを飾りつける。
そうしてナタリーは息つく暇なく、この部屋へと連れてこられた。
かつての王兄ジークフリートが、父王ヨーハンに与えられた部屋。
そして父先王に続き、弟王レオンハルトが兄へと与えた部屋。
ジークフリートはモールパ公爵となったのちにも、弟王の補佐役として王宮内に留まることがたびたびあった。
レオンハルトは足繁く、兄のもとへと通った。
王としてであったり、弟としてであったり。弟が兄の部屋へおとずれる目的と立場はさまざまであったから、おとずれる時間帯もさまざま。
しかし、兄弟の歓談を共にする人間は限られた。
ジークフリートの妻ミュスカデ。それからレオンハルトの恋人ナタリー。
兄弟が政治の話を交わす際には、たまに、ミュスカデの父メロヴィング公爵オーギュストが混じることがあった。もちろんそういった場合、ナタリーは同室しない。
ナタリーの記憶にある、王兄ジークフリートの部屋。
今では、現フランクベルト王太子アルフレッドの部屋であるようだった。
ぐるりと見渡す限り、室内の装飾は百五十年前とさして変わりはない。
フランクベルト王国という国家、ならびに王室の威厳を示すよう、贅を尽くし豪華絢爛に飾り立てられた、古典的で華美な王宮。
しかしこの部屋に、そのような印象は受けない。質素とすら言えた。
入室してすぐに目に入るのは、壁にかけられたフランクベルト家の旗。
正面には、光をとりこむための大きな窓が距離を置いてふたつ。窓のあいだに、簡素な文机がある。
机の上には、むぞうさに積まれた書物。臙脂や濃紺、深緑といったさまざまな色に染められた革製の背表紙には、ところどころ剥がれ落ちた箔押しの金文字。
それから机の上を照らすための燭台。炎から目を守るための、すりガラスの傘で覆われている。内側は暗い。いまは火を灯されていない。
そのすぐそばに、封蝋用の色つき蝋と、蝋の付着した銀匙。蝋を押すためのシグネットリング。
そして、ガラス製のインク壺。透明のガラス越しに、青のインクが透けて見える。凝った彫りがほどこされた銀製のペンも転がっている。
真新しい紙がのった盆もあり、まるまった紙は書きかけなのか、盆にはのせられず、わきに追いやられている。
そしてナタリーとは、ローテーブルにソファーセットをはさんだ向こう側。文机の前に立っている人物。
彼こそが、光の王子と呼ばれる、現フランクベルト王太子アルフレッドその人だ。
「きみがナタリーだね」
アルフレッドはにこやかに、ナタリーへとほほえみかけた。
「うわさはかねがね聞いているよ」
少年とも少女ともとれるような、はかなく繊細な、中性的な美しさ。
黄金の巻き毛に、ふっくらとまるい頬。さくらんぼのように赤いくちびる。ちいさく、上品にとがった鼻に顎。
文机に手をつき、ゆったりとかまえる痩躯はしなやかで、優美な印象だ。
顔立ちそのものは、少年のころのレオンハルトに似ているといえなくもない。
戦場でひと目見かけた、パライモン九世――幼名メリケルテスを名乗っていたころの――にも、どことなく似通うところがある。
あるいはリシュリュー家の令息たち。
無垢なあどけなさが残る容姿ではあるが、挙措はちがう。
成人した男なのだから当然のことでもあるのだが、一見すると年齢不詳だ。
「きみ、ずいぶん不躾に僕の顔を見るじゃないか」
アルフレッドはくすりと笑った。
どこか軽薄そうなくちぶりは、レオンハルトの異母兄フィーリプや、かつてのリシュリュー家当主ヴィエルジュを思い起こさせる。
だが、そのきらきらと輝くあかるい緑色の瞳とは対照的に、その奥によどむ、昏い闇。
「しつれいをいたしました」
あわてるそぶりも見せず、ナタリーが視線を床に落とす。
手のふるえを隠すようにして、ナタリーは腹の前で両手を重ね合わせた。指先をきつく握りしめる。
「ふうん」
アルフレッドは愉快そうに目を細め、ナタリーを見下ろした。
「きみ、どうやらよけいなことがわかるみたいだね」
ナタリーは返事をしなかった。
「彼女は百五十年前の魔女です」
ナタリーのななめうしろに立つユーフラテスが、口をはさむ。
「現代のあらゆることがらが見慣れず、めずらしいのでしょう。この期に及んで、浅慮にも悪事を謀ることはないかと」
それまでユーフラテスは、兄アルフレッドとナタリーのやりとりを、はらはらしながら見守っていた。
ようやく王宮へと連れてくることがかなった魔女を、兄が底意地の悪い冗談でからかうのではないか。ユーフラテスは気が気ではなかった。
兄の冗談がただの軽口であるうちに止めなければならない。兄の興味が、当初のもくろみとはべつの、なにか面倒な問題へ繋がることは避けなければ。
そうして見守っていれば、やはりだ。いよいよ兄の悪趣味がはじまった。
ユーフラテスは兄からの叱責を覚悟で、口をひらいたのだった。
しかしアルフレッドは、弟の懸念を笑って否定した。
「はは。そういうことじゃないよ」
アルフレッドは気分を害した様子もなく、ふらりと前に進み出た。
黄金の巻き毛が揺れる。窓からさしこむ光が神々しい様子で彼を照らす。
見る者を惹きつけ陶酔させる、不可思議な力が、ナタリーへと働きかけた。
まるで神、あるいは神使が地上に降り立った奇跡であるとでもいうように。
気がつけば、ナタリーは恍惚としてアルフレッドを見つめていた。
未知の力から逃れるようにして、どうにか視線をそらす。そして頭を垂れた。
こつこつ、と軽快な足音。
ローテーブルを超え、足音が近づいてくる。ついに、足音が止まる。
ナタリーの視線の先には、つまさきのとがった、青に染めた革のブーツ。
透明な輝きの宝石が中央に一直線、縫い留められている。
それから側面には、まるでリシュリュー家の人間であるかのような、蝶をかたどった革飾り。
もちろん黄金の獅子の意匠も、フランクベルト王族らしく施されている。
黄金の獅子の鼻先に舞う、黄金の蝶。青い天空にきらめく、線上に並んだ星々。
「きみという器におさまりきれず、あふれ出た『余り』について、関心を抱いたことは?」
ナタリーの耳元に赤く可憐なくちびるを寄せ、アルフレッドがささやく。
「消えうせたのか。それともどこかへ流れ込んだのか」
ナタリーはぎゅっと目をつむった。
胸中では、ふるえる膝を叱咤する。
そうしてから、どうにか視線をあげた。
「そもそも、『それ』とはいったいなんなのか――なんて」
アルフレッドは、おだやかでやさしげなほほえみを浮かべていた。
「とつぜんの話で困惑させてしまったかな」
なにもかもを受け入れてくれるような寛容さをにじませるアルフレッド。
ナタリーは思わずつぶやいた。気がゆるんだのかもしれない。
それとも、導かれたのか。
「どうして」
ナタリーには、おのれの口からこぼれ落ちる言葉が、他人の発する音であるように聞こえた。
「ジークフリート殿下の魂が、ふたつに分かれている……?」




