20 信心と不信心(3)
燃焼をやめた樹脂からはもちろん、部屋中の煙がいっさい消え去った。
「そら、これで安心だ」
シャルルが娘マリーの肩に腕をまわして揺すぶるので、父の指にならんだ色とりどりの宝石が、さまざまな方向に光を反射させた。
「復讐の女神のお怒りが、ついに立ち消えた」
マリーは父シャルルの顔を見上げた。
これ以上ないというほどに、喜びいっぱいの笑顔。
父はまるで、幼子のようにはしゃいでいる。
マリーは衝撃をうけた。
エノシガイオスの神々について、父はよく知っているはずなのに。
青みががって神秘的な乳白色の樹脂は、これほどまでに黒々とした燃えあとを刻まれてしまったのに。
燃えあとから悪意が立ち上ってくる様が、いまにも手で触れられそうなほど、おぞましくあるのに。
復讐の女神のお怒りが、立ち消えた?
復讐の女神は、怒ってなどいない。
父殺しにも、子殺しにも、妻殺しにも。
亡き夫ヨーハンの犯した罪のいずれにも、復讐の女神は怒りなど抱かない。
原始の女神にあるのは、執念だ。
罪人をどこまでも追い詰め、かならず呵責し、罰せねばならぬ。
それは太古の時代から変わることのない、復讐の女神がこの世に存在する理由そのものだ。
「これは浄化の薫煙です。その煙が立ち消えたのですよ!」
マリーは父の腕を振りはらって、叫んだ。
「にもかかわらず、復讐の女神が肉親殺しの大罪をお見逃しになられたと。お父様は、そうお考えなのですか」
「マリー」
シャルルは優しい口ぶりで娘の名を呼んだ。
「おお、マリー。おまえが我が子を思って気を揉む心境は、よくわかる。私とて、娘であるおまえの身を案じない日はないのだから」
マリーは激昂ゆえの涙を浮かべ、薄布のベール越しに父シャルルを睨めつけた。
ゆったりとした黒衣の下で、胸が大きく上下している。呼吸もあらく、いまにも倒れそうだ。
「マリー。おまえはエノシガイオスの巫女となったことがあったかな?」
シャルルの問いかけに、マリーは「いいえ」とこたえた。
拒絶を示唆する、こわばってかたい声色だ。
「そうだろう。ましてや占い師でも、呪い師ですらない」
シャルルは娘マリーの背をそっとなでた。
「浄化の白煙のあとを読み間違えなかったと、おまえは断言できるかい」
突発的なヒステリーが、娘の心臓を傷めつけることのないよう。
シャルルは、娘の華奢な背に手のひらを当て、ゆっくりと往復させる。
「それは」
強情を張っていたマリーの瞳がゆれる。
シャルルはほほえんだ。
黒い薄布越しに、涙のにじんだ、愛しい娘の碧い瞳が見えた。
「私はいっとき、流れ者の占い師と、すこしばかり親しくなったことがあってね」
シャルルは茶目っ気たっぷりに片目をつむり、ないしょ話をうち明けた。
「煙占いも、石占いも、甲骨占いも、泥占いも、カード占いも、サイコロ占いも。占いのやりかたはひととおり、彼女から教わった。だからおまえよりはいくぶん、神々や精霊の託宣を読むことに長けているつもりだよ」
そこまで言うと、シャルルはなにかに思い当たったようだった。
はっとしたように目を丸くして、「ああ」とつぶやいた。
「彼女は、星を読むほどの教養は持ち合わせていなかった。いずれかの宮廷に縛られることを厭い、あちこちさすらうことを好む占い師だったからね」
シャルルは残念そうに言った。
「さすがの星占いは、私もわからない。もしおまえが星占いを望むのなら、エノシガイオスの巫女に任せるしかないな」
リシュリューで育ったマリーは、エノシガイオスの正式な巫女や、力ある呪い師、占い師と、ほとんどかかわりがない。
父シャルルはむかしから占いを好んだが、兄ヴィエルジュは占いを忌避していた。占いといった、予言や預言のたぐいは、蛇のヴリリエール家から聞かされる分だけでじゅうぶんだと。
恋人であったトリトンも、否定はしなかったものの、占いに興味はないようだった。
のちに夫となったヨーハンにいたっては、そもそも信仰がちがう。フランクベルトの国教において、占いで神意を問うことは禁じられている。
それだからマリーは、じつのところ、占いの素人だ。
彼らの修行のやりかたもわからない。
数多ある占いの種類も、託宣の読み方も、すべてが自己流だ。
公人として公務についたとき、エノシガイオスの巫女と、儀礼的にあいさつを交わしたことはある。
しかしマリーが私人として、巫女と親交を結んだことは、たった一度きり。
メリケルテスの出産時だ。
マリーはメリケルテスを産み育てるのに、生家リシュリューはもちろん、ヴリリエール公爵アンリの助力を得て、身を隠す理由づけや日数をかせいだ。
そのおりには、かならず男子を産むことができるよう、出産の女神の加護をさずけてもらった。
トリトンがひそかに、巫女を遣わせたのだ。
エノシガイオスの巫女は、占いも呪いも、なんだってできる。
そんなおそるべき力を持った巫女が、海を渡って、はるばるやってきた。エノシガイオス公子トリトンの治めるトライデントから、マリーが出産に身を隠すリシュリューへと。
「つまり、こういうことだ。マリー」
シャルルは手を止め、最後に娘の背を軽くたたいた。
「星読みの答えと照らし合わせることはできないが、この薫煙が伝えんとしたことを、占ったところ。
『復讐の女神が今後、レオンハルト陛下とジークフリート殿下を追跡なさることはないだろう』と、そういうわけだ」
「それでしたら」
マリーは父から距離をとり、うつむいた。
「レオンハルトがエノシガイオスの神々を信仰しないままでも、かまいませんね?」
肉親殺しの大罪人ヨーハン。その息子たちの行く末を見極めんとし、隙あらば、悪に堕ちた魂をむさぼり食わんとする。
復讐の女神が、それらの執念をあっさりと手放すとは、どうしたって考えられない。シャルルのように気楽にかまえることは、マリーにはできない。
それでも。
建国王の血脈を受け継ぐ、フランクベルト家の息子、ジークフリートにレオンハルト。
息子たちが復讐の女神を信じなければ。その存在を知らなければ。
信仰に無知であれば、息子たちの存在は、透明になるかもしれない。エノシガイオスの神々の認識から、はずれるかもしれない。
復讐の女神のおそろしい手につかまらずに済むかもしれない。
そして、フランクベルト王国民の崇める神こそが、息子たちを守ってくれるのではないか。
そこにこそ、古の呪いから脱出する鍵があるのではないか、と。
マリーは、藁にもすがる心地だった。
気休めでしかないのかもしれない。無理のあるこじつけかもしれない。
原始の女神をあざむかんとするのは、大罪に大罪を重ねるだけなのかもしれない。
そして、罪を重ねたところで、結局は、女神の追跡をのがれることはできないのかもしれない。
たとえ、そうであったとしても。
リシュリューの娘として、フランクベルトの王族として、息子たちの母として。
マリーにはそれぞれの立場から、問題解決の糸口を模索する義務がある。
「不信心者は、崇拝すべき神を心に掲げない。それがゆえに、いともたやすく嘘をつく。そしてその嘘に、いつの間にやら己自身すら、あざむかれてしまう」
シャルルは悲しそうに眉尻をさげ、娘の願いを否定した。
「それではいけない。王とは、神に次いで崇高であらねば」
マリーは、その言葉に聞き覚えがあった。
今は亡き先王ヨーハンの不信心について、シャルルが嘆いたときのことだ。
父は娘へと、よくよく言い聞かせたのだった。
あのときと、まったく同じだ。
マリーの記憶が、一瞬にしてよみがえる。
あの日も父は、フランクベルト宮殿の、このリシュリュー侯爵の部屋で、浄化の薫煙を焚いていた。
青銅の杯に灰を敷きつめ、中央に香炭。
それから香炭の上に、浄化の樹脂――ベンテシキュメ産の最高級品で、青みがかった乳白色が特徴だ――を置き。
そうして父は、フランクベルト王国と、当時の新王ヨーハン、くわえて王妃マリーの行く末について占ったのだ。
占いの結果は悲惨だった。
新王ヨーハンが改心せねば、フランクベルト王国は憂き目に遭い、王と王妃の夫婦仲は絶望的であると。
たしかに、父の占いは当たった。
そして父は今、先王ヨーハンの良心と善性を疑ったのと同じ理由で、彼の孫であるジークフリートとレオンハルトの良心と善性を疑っている。




