17 レオンハルトへの嫌悪
しかしレオンのすぐ後ろまで辿り着いたところで、「うっ……」としゃがみこんだ。
レオンがジャックの柔らかく小さな指から手を離して振り返る。
「……またきましたか?」
苦しそうに眉間に皺を寄せ、突き出た腹を抱えるナタリーの腰をレオンはゆっくりとさする。
先程ナタリーが「きた」と叫んだときから、たった今しゃがみ込んだときまでの間隔。ふぅーふぅーと、細く長く息を吐くナタリー。
レオンは産婆を呼ぶ時間が足りないことを察した。
汗をだらだらと垂らし、べったりと張り付いた黒いワンピース。レオンはナタリーの装いに、さっと目線を走らせる。
ゆったりと体を覆うくるぶしまでのワンピース。これならば、このまま出産に挑んでも問題はなさそうだ。
上から下へ痛みを流し下ろしていくように、手を大きく広げて、ナタリーの腰をゆっくりとさする。
ナタリーの眉間の皺が緩んだのを見て、レオンは分娩椅子に目を向けた。
分娩椅子には清潔な大判の布が敷かれている。その脇にあるレオンが作ったいびつな棚には、きちんと畳まれた、清潔な布巾がいくつも。はさみは夕方に煮沸消毒してある。
あとは盥に水を張らねばならない。
「僕が誘導しますから、分娩椅子まで歩けますか?」
「……歩けないって言ったって、歩かなくちゃいけないでしょ」
陣痛の間で余裕を取り戻したナタリーは、額に汗でへばりついた黒髪をうるさそうに手で払った。その表情は、不敵に笑んでいる。
レオンはナタリーの腰を支え片手を取り、立ち上がるのを手伝った。
突き出た腹によってバランスがうまくとれないのか、ナタリーがよろめく。前方に傾ぐナタリーの体。
レオンは慌ててナタリーの肩に腕を回した。
「ええ。僕は非力なので、あなたを抱えて分娩椅子へと運ぶことはできません」
「レオン。あなたもう少し鍛えた方がいいわ。何も剣を振るえとは言わないけど、女性一人抱えられるくいらいの腕力はつけなさいよ」
「……今のあなたは女性一人ではないですけど」
「あら。あたし、平均より体重は軽いのよ。お腹にもう一人増えたところで、今のあたしの重さって、村のひと達と変わらないと思うわ」
無邪気に小首を傾げるナタリーだが、口から出た言葉は、まるで村の女達に喧嘩を売っている。
レオンは分娩椅子へと促しながら溜息をついた。
「……それ、村の女性の前で口にしてはいけませんよ」
ナタリーは、ゆっくりと腰を下ろす。前方が半円にくり抜かれた分娩椅子。
うふふ、と笑い声がして、レオンは顔をあげた。
目を細めたナタリーは、どこか遠くを見つめている。
「ああ。それ、懐かしいわねぇ……」
またレオンハルトと混同しているのか。
レオンは顔を顰めたが、口を引き結ぶだけで耐えた。
本当は腹立たしい。
だけど出産直前の今、ナタリーの精神状態を揺さぶるのはよくない。ナタリーにとって心地よくいられる状態をなるべく保たなければ。
ナタリーは一文字に口を引き結んだレオンを見て、眉尻を下げた。
「……ああ、ごめんなさいね。あなたが違う人生を歩んできた、違う人格をもった人物だってちゃんとわかってるわ。でも思い出してしまったのよ。昔レオンが……いえ、レオンハルトが。生意気で鼻持ちならない王子様だったとき、あたしに言ったのよ。『簡明直截な言葉しか使えない幼子のままでは、身を守ることはできない』って」
懐かしそうに目を細めて語るナタリーの横顔が美しくて。
レオンはじくじくと痛む胸に気がつかないふりをして、微笑みかける。
「それはまた。厳しいことを言われたんですね」
ナタリーはレオンの微笑に向かって、嬉しそうに笑う。
「ええ! 本当に! 何様かと思ったわ。……王子様なんだけど。あたしに向かって『レディはどこにいるのか』なんて言うし」
「ふっふふ。あなたは昔から変わらないんですね?」
「……それ、どういう意味かしら」
きっと睨めあげるナタリーに、レオンはおどけて目を丸くすると、両手を顔の横にあげた。手のひらを向けて降参を示す。
「いえ。昔から魅力的な女性だったんだな、と」
「ええそうよ。よくわかってるじゃない」
先の陣痛から、すでに経った。
次に陣痛のおとずれは、もう間もなくだろうとレオンは察した。ナタリーの腰に手を当てる。手の甲を強く押し当て、ゆっくりと下におろしていく。
ナタリーは少しだけ、眉根を寄せるも、体は縮こまらず、表情にも余裕がある。
「レオンあなた、産婆に向いているわ。以前産んだときより、ずっと楽だもの」
「……産婆は遠慮しますが、あなたの苦痛が和らいているのなら何よりです」
「ええ。本当に。こんなに違うのね。一人目を産んだときは、痛くて痛くて。大絶叫しながら分娩椅子で寝そべったり屈んだり、部屋中をぐるぐる歩き回ったりしていたの。でもこうして今、あなたに腰をさすってもらっていると、全然痛くないのよ。不思議ね」
それはレオンも不思議に思うのだが、なんとなくわかるのだ。このタイミングで、この力で、この方向で、この場所を。
どんなふうに腰を擦ればナタリーが楽になるのか、手を当てた場所から伝わってくる。
きっとこれは、相手がナタリーだからだ。
認めたくないが、前世のレオンハルト元国王陛下の魔力だか霊力だかの影響なのかもしれない、とも思う。思うが、やはり口にしたくない。
「……僕は小柄で非力な男ですが、大概の女性より手は大きい。だからではないでしょうか」
「ええ。きっとそうね。そうなればますます、お産に男性医師が携わることが出来ればいいのにと思うわ」
「それは難しいでしょう。ご婦人の病だって医師はなかなか介入できないのですから」
「それが間違っているのよ。そもそも昔は、これほど教会の力などなかったし、教えもこれほど歪んでいなかったのに……」
ナタリーは寂しそうに「きっとあたしのせいね」と呟いた。
レオンはそんなナタリーを見て、過去のレオンハルトへの嫌悪が募る。
ナタリーは何も言わないが、ナタリーが百五十年の時を経て再び息を吹き返したのは、おそらくレオンハルトの所業によるものだろう。
そして教会による女性弾圧――悪魔狩りが始まったのも、おそらくレオンハルトのせい。青い血が王族から失われ、魔法や魔術が失われたのも、レオンハルトのせい。
――どれほど愚かな男だったんだ。
レオンはまぶたを閉じて表に溢れてきそうな憤りを鎮める。
それから目を開けると、ナタリーに向かって片方の眉を上げてみせた。
「おや。どれほどご自分が重要人物だとお思いで? 現在あなたのお名前など、歴史書にすら載っていませんよ。まぁ過去の貴族名鑑を辿れば小さく記されているかもしれませんけど」
ナタリーは一瞬目を吊り上げて「あなたねぇ……」と言いかけたが、すぐに眉尻を下げた。
「……優しいのね。ありがとう」




