16 母と息子(2)
マリーとジークフリートの母子が完全に立ち去るのを見届けると、ナタリーはおもむろに立ち上がった。
密生したイチイの細長い葉に、漆黒のローブがひっかかっている。
外そうと無理にひっぱったところ、よりいっそう枝にからまり、裾がやぶけてしまった。
おもわず舌打ちする。
「舌打ちなど、とてもご令嬢のなさることではありませんわ」というのが、マナー講師のなんちゃら伯爵夫人――夫人の夫がフルミ伯爵だということは、知識として知ってはいるが、それがなんだ――のご高説だ。
舌打ちが令嬢らしくない?
だからどうした。そんなことは知るもんか。
ここは離宮じゃない。レオンハルトの庭園なのだ。
いまごろは、なんちゃら伯爵夫人もきっと、野猿令嬢ナタリーのおもり役から解放され、のびのび過ごしているにちがいない。
厳格な彼女が『のびのび過ごす』といえば、いったいどういったことなのか。
ナタリーには想像するにもむずかしいが、おそらく針仕事でもしているのだろう。
離宮におけるナタリーの世話役である、なんちゃら伯爵夫人。
彼女がおしつけてくる窮屈な課題のうち、逃げ出したくてたまらないことのひとつ。それが針仕事。
目と肩が凝って、おしりがむずむずして、あくびがとまらなくなる。
あの退屈きわまりない針仕事を、嬉々としてこなせるのは、なんちゃら伯爵夫人のような変態だけだ。
そしてフランクベルト宮廷の貴婦人は、変態だらけだ。
「おふたりの会話はフランクベルト語だったから、正確にはわからなかったけれど」
ナタリーはささくれだった心地のまま、あてこするように言った。
「この庭園、以前は、王太后陛下が庇護されていたのね?」
「そうみたいだね」
レオンハルトがあいまいに答える。
「そうみたいって」
ナタリーは不満を隠さず、レオンハルトをとがめた。
「王太后陛下は、レオンのお母様でしょう。王太后陛下とジークフリート殿下のおふたりだなんて。家族なのだから、出て行ってもよかったじゃない」
言葉を重ねれば重ねるほど、ナタリーの口ぶりは糾弾に似たものへと、より鋭くなっていく。
「それに!」
腕の中のレオンハルトへと、ナタリーは目をつり上げた。
「隠れるまえに、彼らの匂いだとわからなかったの?」
「たしかに母ではあるけれど、あの人のことはよくわからないんだ」
レオンはのがれるようにしてナタリーの腕から飛び降り、バラへと近寄った。
「匂いはわからなかった。バラの香りがキツくて、まぎれてしまったようだ」
母マリーが兄ジークフリートにねだった、シャーベットオレンジのバラ。
幾重もの花弁を誇らしげに開くものや、つぼみがほころびはじめたもの。
咲くのを待ちわびる、かたく青いつぼみ。
ほとんど丸いといっていいような、横に広い楕円形の葉を、密集した鳥の羽のようにふさふさと茂らせ、バラは一株でたくさんの花を咲かせていた。
レオンハルトは両前脚をそろえ、ぐんと背をそらしたかと思うと、ばねのように跳躍した。
王太后マリーの求めたバラの花が、前脚で叩き落とされる。
色褪せ、散りかけだった乾いた花弁が、ひとひら、ふたひら。ゆっくりと舞い落ちた。
レオンハルトが、落ちたバラのすぐそばに着地する。
そして、ほぐしきれていない花弁を、淡桃色の湿った鼻先で押し広げているようだった。
ナタリーは、冷たい声色になってしまったことをすぐさま後悔した。
腕の中にとどまっていたぬくもりが、急速に失われていく。
緑の芝生に転がる、ふわふわの黄金の毛玉。
雲間から差し込むかすかな陽光が、レオンハルトの黄金の体毛を白く輝かせた。
彼が身じろぎするたび、ぴんと弾力のある眉毛と口ひげが、真昼の星屑のようなちいさな光を、ちらちらと弾く。
ガラス玉のように透きとおった碧い瞳は、ゆたかな睫毛でさえぎられたり、開かれたりをくりかえす。
おとぎばなしの世界に迷い込んだような光景だった。
もしくは、幼いこどもの見る夢のような。
ナタリーはレオンハルトから、おのれ自身の姿へと視線を移した。
胸もとの組み紐で両端を留め、肩で羽織ったローブは、やぶれてよごれている。
今しがた茂みに隠れていたためについたイチイの葉。それから、レオンハルトから抜け落ちた、まばらな獣毛。
宮廷人へ、それなりの敬意と威厳を感じさせるらしい、魔法騎士団の黒いローブだったが、いまここでは、うすよごれて、みすぼらしく見えた。
フランクベルト宮廷における、ナタリーの存在価値を示すかのようだ。
フランクベルトとキャンベルとでは、なにもかもがちがう。
気候、言語、慣習、必要とされる教養、美徳や悪徳、価値のあるなし。
それから、家族のありよう。
フランクベルト家とキャンベル家で、家族のありようが違うことはわかっていたはずなのに。どうしてレオンハルトに寄り添ってあげなかったのか。
レオンハルトが母の人となりをよく知らなかったとして、それが薄情であるなどと、どうして安易に判断することができるだろう。
イチイの茂みから離れたところにあるテーブルとベンチに目をとめ、ナタリーは腰掛けた。
それからテーブルにひじをつき、穏やかな声色になるよう意識して、たずねた。
「王太后陛下のことがわからないって、どういうこと?」
「ともに過ごした時間が少なくてね」
レオンハルトは崩し終えたバラに飽きたのか、四角く刈り込んだツゲの生垣へと飛び移った。
「ああ。そういえば」
ナタリーはレオンハルトの生垣散歩を眺めながら、うなずいた。
「レオンはメロヴィング家で育ったのだったわね」
「それもあるけど」
レオンハルトが脚を動かすたび、卵をひっくりかえしたような形の、小ぶりなツゲの葉が、平面になるようきっちり刈り込まれた側面から、飛び出しては戻る。
「母は病弱だということで、生家であるリシュリューに滞在したり、療養の旅に出たりと、王都にとどまらない人だったんだ」
「いかにも儚げな方ですものね」
ナタリーは眉をひそめて、おのれ自身のてのひらを眺めた。
剣ダコでかたく乾いていて、女性らしいうるおいもなく、ごつごつとしている。
よく日に焼けているばかりか、体中に消えない戦傷の痕を刻んでいる。
ナタリーは佳人マリーの後ろ姿を思い返した。
フランクベルト宮廷において、貴婦人としての憧憬を集めるには、ああいった儚げな美しさが必要なのだろう。
王太后マリーのあとを引き継ぐように、当代もっとも可憐な花と謳われるミュスカデ。
彼女もまた、ナタリーとは違い、たおやかで儚げだ。
フランクベルト宮廷が王妃に求める優美さを備えている。
「さて、儚げであったかどうか」
レオンハルトは皮肉まじりに言った。
「父王ヨーハンの側妃だったルヌーフ家のカトリーヌや、異腹の兄たちから聞かされたことによれば、母は、娼婦まがいの言動で父の気を引こうとしていたのだそうだ」
「娼婦って」
ナタリーが絶句する。
「父の寵愛がカトリーヌへと移ったことで、母は失った愛を取り戻そうと、躍起になっていたとね。異腹の兄ルードルフがよく嘲笑して――いや、どうだろう。フィーリプだったかな。まあ、ハンス以外のふたりだろう。ハンスは、ほとんど無口と言ってよかったから」
レオンハルトは散歩の足を止めることなく、続けた。
「それで、母は公務ついでに諸侯や大使を誘惑しては、父の嫉妬心を呼びおこそうとしたり、療養を名目とした旅に出ては、父の気を引こうとしたのだとか。そういった話を、なにかと聞かされた」
自由きままな猫のように、緑の生垣を歩く、ふわふわの仔獅子。
水色の空と、ぶ厚くはない白い雲。淡い陽光。
牧歌的な風景であるにも関わらず、レオンハルトから語られる内容は殺伐としていて、ナタリーはちぐはぐとした妙な心地になった。
レオンハルトの口ぶりは、まったくの他人について語るようだった。
「実際のところは、よくわからないけれどね」
レオンハルトはそこまで言うと、口を閉ざした。
ナタリーから、気づかわしげなまなざしが注がれているのを感じた。
同情をひくような話を打ち明けたレオンハルトに責がある。
とはいえ、愛に飢えた哀れな少年のように見なされるのは、我慢がならない。
それも、ほかでもないナタリーからとあっては。
ナタリーの視線を振りきるようにして、レオンハルトは生垣の中へ飛び込んだ。
たっぷりとした体毛のおかげで、葉も枝も、体に刺さらない。
枝葉をすり抜けるたび、葉ずれのがさがさと乾いた音が耳に届いた。
そうだ。
ずっと、そういうふうに聞かされていた。
カトリーヌからも。異腹の兄からも。宮廷人のあいだで、こそこそとささやかれていた流言でも。
母マリーは、父ヨーハンの寵愛を巡り、側妃カトリーヌと競い、蹴落としあっていたのだと聞かされていた。
生家リシュリューの権威を盾に、贅を凝らすしか能のない、愚かな女。
ずっと、そう思っていた。
トライデントの戦のあと、伯父ヴィエルジュによって、母の不貞を聞かされるまでは。
失った愛を求めて、狂気にむしばまれていったのは、母ではなく父だったのだろうか。
レオンハルトは、忘れようにも忘れられない父の最期を思い出す。
わからないのは、母だけではなかった。
今は亡き父、先王ヨーハンとも、親子らしい会話をしたことが、ほとんどない。
そうはいっても、父については、生前よりも今のほうが、理解できるような気がした。
レオンハルトはみじめな心地で、歴代フランクベルト王の死へと思いをはせる。
建国王の青い血を発現させた獅子王は、呪われる。
早い遅いの違いはあれど、歴代王の皆が皆、晩年には狂気にのまれている。
狂気の誘発要因はさまざまだろうが、そのひとつに恋慕があるのは、確実だ。
先王ヨーハンも、先々代王アルブレヒトも。
彼らは報われぬ愛に苦しみ、ゆっくりと正気を失っていった。




