3 ファム・ファタール
トリトンにせよ、ヨーハンにせよ。
彼らがマリーに求めた役割は、典型的な『運命の女』にすぎなかった。
人間的な深みも、信念も、理想も、何ひとつ。彼らはマリーに期待していなかった。
マリーは美しくあればよかった。
必要とされるときに愛を――愛欲であったり、癒やしであったり、彼らが望むときに望むとおり、欲するものを欲するとおり与える慈母としての愛を――与えればよかった。
マリー自身の信念にとどまらず、マリー自身から自然と生ずるような愛。
そういったマリーであることの必然性を、トリトンもヨーハンも欲してはいなかった。
彼らの立場で物事を見たとき、彼らの言い分は違うかもしれない。
彼らは真実、マリーだけを愛していた、マリーがマリーであるがゆえの愛を欲していたのだと。
そのように断言するのかもしれない。
しかし少なくとも、マリーの感想は違った。
彼らについてマリーが考えるとき。
それは、マリーという人格を彼らの理想という鋳型にはめ込んだのち、きらびやかに着飾っただけの。
ファム・ファタールとしての彼女を求めているだけであるかのように感じていた。
彼らが、彼ら自身ですら曖昧模糊としてとらえられずにいる、運命の女。理想の女。
そういった彼らの抽象的な心像を、マリーが天性の勘のよさでつかみとり、写す。
マリーという画布に描く。
マリーという石に刻む。
マリーという金属を鋳型に流し込む。
あざやかに、美しく。芸術を愛するリシュリューの人間らしく。
マリーの持ちうる手腕でもって最善を尽くし、最高の芸術を己自身にほどこす。
そうしてつくりあげたものが、彼らのための、それぞれのマリー像だ。
トリトンのためにあつらえたマリー。ヨーハンのためにあつらえたマリー。
それぞれが異なる仕立ての特注品。
マリーは彼らの前で、ただ美しくあればよかった。
彼らのためのファム・ファタールとして、ほほえんでいればよかった。
しかたがない。
なぜならマリーが女であるから。
女に思想は求められない。
女は男を癒やす存在であればよい。
たよりなく、よわよわしく、扱いやすく。支配欲を満足させる存在であればよい。
あるいは気まぐれに男の純情をもてあそび、退屈な日常にあざやかな色彩と刺激を与える。
そういった娯楽としてあればよい。
対等な人間としての対話を、女に求める男はいない。
恋人トリトンは、物わかりがよく、美しい共犯者マリーを愛した。
エノシガイオス優生思想を抱く彼は、そもそもの話、エノシガイオス人以外の女を愛せなかった。
もちろんエノシガイオスの歴代君主は、エノシガイオス人ではない姫君との婚姻も結んできた。
エノシガイオスのために必要な政略的婚姻である。
エノシガイオスの次期君主であるトリトンとて、己のさだめを理解していた。
だが彼は自身の婚姻について、エノシガイオス人である列国の姫のみを候補と見なした。それ以外の人種を受け入れる器量は、彼にはなかった。
トリトンの列国遊学は、彼の花嫁選びの旅でもあった。
父エノシガイオス公パライモン八世の思惑がどうであれ、トリトンはそのように認識していた。
最後にリシュリューの地が遊学候補地として加わったのには、彼が列国の姫とのめぼしい出会いを果たせなかったからだ。
そういった前提を踏まえてみれば、トリトンがマリーを選んだことは、周囲が想像するほど劇的な恋物語ではない。
たしかにマリーはトリトンの宿敵フランクベルト王国の貴族令嬢だ。
だがトリトンのマリーへの恋心は、逆境をいかんともせん激情というわけではない。
彼の偏見と理性は、きちんと仕事をしていた。
いっぽうで夫ヨーハン。
マリーの兄ヴィエルジュの性別が女であれば、彼は間違いなく、マリーではなくヴィエルジュを選んだことだろう。
兄ヴィエルジュと妹マリー。
美しい兄妹はその美貌において、たがいに遜色がなかった。
しかし兄ヴィエルジュは、妹マリーとは比較にならぬほど才気あふれていた。
なにをさしおいても芸術を尊ぶ家風の、リシュリュー一族。
そのリシュリュ-らしい美的哲学における聡明さは、自明の理として。
加えて、リシュリューらしからぬ合理性と柔軟性を、ヴィエルジュは備えていた。
先進的な思想に理解があった。
苦境に屈せず、信念をつらぬきとおす強さがあった。
たとえ己自身が疎まれようとも、悪役にまわれども。彼を解さぬ凡庸なるひとびとを恨むのではなく、受け入れ、冗談を返すような。
そういったたぐいの寛容と慈悲を、兄ヴィエルジュは持ち合わせていた。
その場その場で、人の顔色をうかがい、相手の望む言葉を口に出すことでどうにか気に入られるような。
せいぜい、小手先の会話術で世渡りするだけ。それが限度であるといった感の妹マリーとは、まったく違っていた。
なにより、ヨーハンとヴィエルジュのふたりは、余人をもって代えがたい、よき理解者として、かたい絆で結ばれていた。
「我が聡明なる妹君」
扉に背をもたれかけたヴィエルジュは、妹マリーの後ろ姿へとほほえみかけた。
「そろそろ気が済んだかな。王都へ戻る頃合いだ。身なりを整えた美しい王太后の出番がやってきたぞ」
リシュリュー宗家嫡男ヴィエルジュのおとずれに、室内の女扈従たちは、ほっと安堵の息をついた。
それとは対照的に、衛兵は崩していた姿勢をあらため、表情に緊張の色が浮かぶ。
「めずらしいこと。お兄様がいらしたの」
マリーは振り返りもせず、軽やかな声で歌うように言った。
「ルイーズはどうしたの。私、お兄様ではなくルイーズを待っているのよ」
放っておけばいつまでも、トリトンの頭骨を抱いたまま、すわりこんで動かないマリー。
そんな彼女のくちもとへ食事を運ぶ。または手を引き、風呂へといざなう。
そういったマリーの身の回りの世話をする役は、ヴィエルジュの妻であり、マリーの義姉であるルイーズが担っていた。
本来仕事をまかされるべき女扈従だけでは、その役は荷が重すぎるからだ。
マリーの抱えるトリトンの頭骨は腐敗が進行していて、不潔で醜く、おぞましい。蛆までもがわいている。
そのうえとてつもなく、くさかった。
この時点ですでに、ずいぶんな障害が立ちはだかっている。
マリーに近づくことだけでも、勇気を奮い起こさなければならない。
そしてもちろん、それだけではなかった。
マリーは拒絶するのだ。
己に近寄る者すべての人間を拒絶する。
狂ったように叫び、うなり、髪を振り乱し。
高貴なる狂女マリーに無理を強いることなど、女扈従の手に余った。
そこでリシュリュー家次期当主ヴィエルジュの妻ルイーズが駆り出された。
彼女は義父であるリシュリュー家当主シャルルより、一族魔法の行使を許可された。
シャルルは娘マリーを義娘ルイーズにまかせるため、本来は芸術のために使うべき魔法を、特別に許した。
芸術家の想像力と創造力を活性化する。
それがリシュリューの一族魔法だ。
マリーが渇望してやまぬ夢を、芸術へと昇華された物語劇であると定義し、その場限りの、いきいきとした幻を見せてやる。物語劇の上映を、狂女マリーに提供する。
リシュリューの一族魔法を行使することで、ルイーズはようやく義妹マリーに近づくことができた。
しだいにマリーは、義姉ルイーズのおとずれを心待ちにするようになった。
ルイーズが去ると、ほんのひととき、マリーは正気に戻された。
そのたびに絶望に打ちのめされ、嘆く。それからゆっくりと、狂気の霧中へ戻っていく。
この一連の流れを、マリーは明確な記憶としてとどめてはいなかった。
しかし狂ったマリーの頭に、ひとつの認識ができた。ルイーズのおとずれは、幸福を運ぶものであると。
「めずらしい、ね」
ヴィエルジュは室内へ足を踏み入れると、悪臭を気にもとめず、細い腕をのばして盤上遊戯の駒を手に取った。
「そのとおり。妻はめずらしいものを目にしてしまってね。気分が悪いそうだ」
乳白色の大理石と漆黒のオニキスが、ヴィエルジュの手の中で転がる。
「なぜ妻が、めずらしいものを見るはめになったか。我が聡明なる妹君ならば、推測できるに違いない」
「知らないわ」
マリーは腐った肉で黒ずみ、退色した金髪に頬ずりした。
「私は頭が悪いの。頭のいいお兄様とは違うのよ」
蛆がマリーの頬にすりつけられる。
「昔からそうよ。知っているでしょう。お父様もヨーハン殿下も、お兄様のご意見は、真摯にお聞きになっていたわ」
つぶれた蛆を頬にこびりつけたマリーが振り返る。
「マリーのつまらない言葉は、だあれも聞かない」
ヴィエルジュは眉をひそめた。
「でも、トリトンだけは私に求めてくれたわ」
満面の笑みを浮かべ、マリーは言った。
「私に、エノシガイオス公妃になってほしいって。ふたりでこの大陸を、美しきエノシガイオスの血脈で満たしましょうって」
腐肉と蛆で汚れたマリーの顔は、いかにも幸せそうだ。
「一緒に政治をしましょうって、トリトンは言ったのよ」
「おまえは政治がしたかったのか?」
ヴィエルジュは手中の駒をもてあそび、さして興味もない様子でたずねた。
「知らなかったな」
「べつに、政治がしたいわけではないけれど」
マリーは肩をすくめた。
「すくなくともトリトンには、私に手を差しのべ、一緒に歩くつもりはあるのよ。きっとね」
幼いこどものように、マリーがくちびるをとがらせる。
「だから、ヨーハン殿下との婚約はおことわりするわ。殿下のことは嫌いではないけれど。ううん、友人としてならば、喜んでおつきあいさせていただくわ。けれどいまのところ、殿下とは会話が続かないのだもの。ずうっと人形遊びの相手になるのでは、疲れてしまうの」
「ヨーハンはおまえに、人形であることなど求めていなかった」
ヴィエルジュは駒を盤上に戻した。
「おまえの言うこと、なすことすべて、尊重していた。堅苦しいフランクベルト宮廷でも、おまえが息をしやすいよう、自由でいられるよう、心を砕いていた」
それから彼は、乳白色の駒を漆黒の駒でぐるりと囲った。
「王妃でありながら、たびたび宮廷を留守にするような、おまえの好き勝手な言動に反発するフランクベルト宮廷人たちから、おまえを守っていたよ、マリー」
乳白色の駒を攻めたてるように置かれた漆黒の駒。
それをヴィエルジュは、べつの漆黒の駒でなぎ倒した。
「お兄様の冗談って、おもしろくないのよね」
マリーは呆れて、大きく息を吐き出した。
「アデリーヌ王妃陛下がアルブレヒト王陛下から離れることなんてありえないでしょう。ほとんど監視だわ。王陛下の愛妾ジゼルが子を産んだときの、王妃陛下のお怒りといったら――」
「このあたりで私も、人形遊びはやめることにしよう」
ヴィエルジュがマリーの言葉をさえぎる。
「人形遊びの相手は疲れると、他の誰でもない、おまえが言うのだからね」
ヴィエルジュの背後。
扉の向こう。回廊の奥からあらわれた衛兵ふたりが、巨大な箱を室内へと運び込む。
衛兵は箱の両端に立ち、ゆっくりと床に下ろした。
箱には美しい艶のリボンが、雑に巻かれている。
濃紺色のリボンにほどこされた、金糸と銀糸の細やかな刺繍。
意匠は銀色の月と、金色の三叉槍。
「マリー。おまえの産んだこどもたちが、暴走し始めた」
ヴィエルジュがリボンをほどいた。




