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30 モールパの子羊たち




 関係者からは研究所と呼ばれることのあるモールパ家別邸は、本邸からも市街地からも離れ、ひっそりとうらさびしい場所にある。

 初代モールパ公爵ジークフリートが、現モールパに領地を得てまもなく、モールパ家独自の研究を秘匿(ひとく)して進めるために構えた。


 当該研究所には、モールパ公爵ユーグがしばらく滞在していた。

 歴代モールパ公爵同様、初代の意志を引き継ぎ、研究に没頭するためだ。

 しかし。



「これではいたずらに生命を殺めているだけだ」

 モールパ公爵ユーグは手術台に両手をつき、うなだれた。


 狭い室内はむっとするような濃い血の匂いに満ちている。

 手術台には子羊が二頭。

 一頭はゴム管でつながれる。

 もう一頭は前脚を裂かれ、頭から灰汁(あく)を被ったようだった体毛は、ところどころ鮮血に染まっている。

 何重にもきつく巻き付けられた包帯とて、赤一色となった。


 ゴム管には固まり始めた血液が詰まり、漏斗(ろうと)に溜まる血液は行き場を失った。

 子羊の一頭は呼吸をやめ、もはや鼓動を刻まない。体を巡るはずの血液の循環もやんだ。

 もう一頭は力なくあえぎ、つぶらな瞳に恐怖がありありと浮かぶ。

 手術台からは血液が滴り、床に血だまりをつくり始めた。

 その血だまりの中に、ユーグの足が浸かる。


 なにも知らぬ第三者が目の当たりにすれば、あまりの惨状に悲鳴をあげるに違いない。

 そしてモールパ公爵ユーグの正気を疑うだろう。

 ユーグもまた室内の惨状同様に、穏やかならざる姿をしていた。


 ユーグが身にまとうのは深紅の長衣だ。

 研究を目的とした当該屋敷に勤めるひとびとの誰もが見慣れている。

 彼らにとって、制服のようなものだ。

 モールパ家当主であるユーグだけが特別に着衣するような、そういった権威やら階級やらを示す衣類ではない。

 だがそのときの長衣は、明らかに平時とは異なった。

 もともとの布地の色が深紅であるので、一見してそうとはわからずとも、鮮血で濡れそぼっているのだ。



「魔法は血の契約。魔術は祈りの誓約」

 ユーグは血にまみれた手のひらを眺めた。

「なれば神よ。なぜ、あなたは祈りを聞き届けなかったのか」



 ユーグの嘆きは、初代モールパ公爵ジークフリートをはじめ、歴代モールパ公爵が問いかけてきた、神への絶望だった。



「神にひとかけらでも期待することが、もとより誤りです」

 ユーグの背に、無遠慮な声が突如として投げかけられる。


 モールパ家嫡男ウジェーヌだ。

 ユーグは嘆息した。

 息子の、いつもの偏狭(へんきょう)ぶりにつきあうほどの余裕は、今のユーグにはなかった。

 しばらく一人にしてほしい、と研究員たちに伝え、哀れな子羊たちと向き合っていたというのに。



「よくよく考えてみてください。神に祈るなど、時代錯誤もはなはだしい。人智でもって世を治めることこそ、オットー現王陛下のお望みでもございましょう」

 ウジェーヌは力不足に嘆く父ユーグを励ますように、父の肩に手を置いた。

「発展のための犠牲は必要悪ともいえよう。ここで歩みを止めることはすなわち、数多の犠牲が無意味となる」

 か弱い呼吸を繰り返す子羊のあご下を優しくなで、皿にのせた青草を口元へ運ぶ。

「混ぜ合わせることで血球の凝集(ぎょうしゅう)が起こる場合と、起こらぬ場合。その違いがようやく判明するかというところで」



 ゆっくりとした動きで子羊が青草を()む。

 すぐとなりに並ぶのは、冷たくなりつつあるもう一頭の子羊。発展のために犠牲となった子羊。モールパが積み重ねた犠牲のうちの一頭。

 ウジェーヌはモールパの罪を胸に刻んだ。



「ここで歩みを止めてはなりませんよ、父上」

 ウジェーヌは父ユーグの弱気を咎めるように言い含めた。



「おまえに指図されずとも、それくらいは承知している」

 ユーグは息子ウジェーヌの猛進ぶりに辟易(へきえき)して言った。


 モールパ家の嫡男として、モールパの責務に誇りを抱くことはよい。努力を惜しまず、目をそらしたいような罪悪に心折れることなく、直往邁進(ちょくおうまいしん)できる芯の強さもよい。

 だがウジェーヌはときに、不自然なほどにモールパの責務をまっとうすべく意固地になる。場違いな憎悪が差し込まれる。


 ウジェーヌは彼の先祖である初代モールパ公爵ジークフリートを英雄視した。

 いっぽうで、敬愛すべき始祖ジークフリートの弟であった第十一代フランクベルト王レオンハルト二世に敵愾心を燃やす。


 レオンハルト二世は遠い過去に生き、いまや墓の下に眠る故人でしかない。

 同じ時代に生きたこともない、面識の皆無である亡き王。

 そんなレオンハルト二世へと、ウジェーヌがつのらせる憎悪。

 ウジェーヌがレオンハルト二世について語るとき、まるで故人が、いまだフランクベルト王国を乱しかねない元凶であるかと信じきったような口ぶりだった。


 ユーグは息子ウジェーヌの抱える激しい憎悪には、すっかり()んでいた。



「おまえはただそれだけを私に伝えるために、わざわざやってきたのか」

 ユーグは顔をあげた。


 あまりに疲れた様子の父に、ウジェーヌは気まずい心地になった。

 しかし彼には父に伝えねばならない事案があった。

 モールパ家の役割として任されながらも、ウジェーヌが彼の信念のために破棄したフランクベルト王家との密約。



「父上のお耳に入れたいことがふたつ」

 ウジェーヌはまだ青草の残る皿を、子羊の鼻先に置いた。

「ひとつはテレーズの遠遊です」


「テレーズを?」

 それまではうつろだったユーグの目が、驚愕に見開かれる。

「あのこは体が弱いのだぞ! おまえもよく知っているだろう!」


「ええ。ですからナタリーを付き添わせました。こちらがふたつめ」

 つかみかからんばかりの父ユーグの剣幕に、ウジェーヌはあとじさった。


 しかしウジェーヌは気圧されるままではなく、父ユーグの淡い水色の瞳を見つめ返した。



「先日目覚めたばかりの、王家から預かりし人形。かの美しいマダム・グノン。悪魔、あるいは悪しき魔女」

 ユーグの瞳の中で、息子ウジェーヌが父と同じ淡い水色の瞳を細め、ほほえんだ。

「魔女はテレーズを気に入っていたようだ。魔女の厭わしい魔法やらなにやらで、テレーズを守ってくれることでしょう」


「テレーズとナタリーをどこへ出向かせた」

 ユーグは静かな怒りを内に秘め、努めて冷静にたずねた。



「ジョンソン氏のもとです」

 ウジェーヌは感動して答えた。


 父が僕を否定しない。父が僕の施策を認めたのだ!

 ウジェーヌの胸に、とてつもなく熱いなにかがこみあげた。

 寒い晩のベッドに差し込ませる、熱した煉瓦(れんが)のようだ。

 あたたかく、心を溶かすような優しさと安堵に包まれる。


 これまで父ユーグはウジェーヌの思想を否定することがたびたびあった。

 とくに愚王と魔女については、父と意見を違えてばかりだった。



「ジョンソン氏は魔女が出自とするキャンベル家の人間ではありますが、嫡男ではない」

 ウジェーヌは嬉々として彼の計画を父に語った。

「モールパ同様キャンベルでも、国家最大の機密について、当主から次期当主へと秘密裏に口承しているはず。なれば彼が魔女を知るよしもない」



 ウジェーヌは、幼子のように無邪気な笑顔を浮かべている。

 父ユーグはいつになく饒舌な息子の様子に困惑した。


 王家より代々任された使命をいとも容易く放棄し、モールパ家を裏切った息子。

 歴代モールパ公爵が積み重ねてきた実直な忠節は、ウジェーヌの愚行によって無に帰した。王からの信頼は失われるだろう。

 それだけで済めばよいが。

 ユーグはモールパ家当主として息子ウジェーヌに憤った。しかし失望することはできなかった。



「もちろん、多少は魔女を怪しむこともありましょう。しかしジョンソン氏は義理堅く、単純な男だ」

 ウジェーヌは幸せな心地で、子羊の血にまみれた父の手を取った。

「不審な魔女について、兄であるキャンベル辺境伯へと告げ口する類の男ではない」



 ユーグは息子の手が子羊の血に染まるのを眺めた。

 それから、息子の笑顔を。


 ウジェーヌの口はすこしの休憩もはさむことなく動き、ユーグに語り続けた。

 その姿はユーグに、幼子であったころの息子を思い出させた。

 ウジェーヌとウジェニーの双子だけが、モールパ家のこどもであったころ。

 彼ら双子が、競って両親の愛を求めていたことを。


 ウジェーヌの髪からは、刺激的で甘いたばこの匂いがした。

 ハチミツとチェリーと樟脳(しょうのう)

 たばこをやめるまえのユーグが、よく好んだ調香だった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] うーむ。 モールパの父子、なかなかに考えが読めない男たちですね~。 さすがジーク様の血筋! そして、ミュスカデのメロヴィング家の血も! 彼らは子羊で何を研究しているんだろうか? 青じゃ…
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