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29 前夜




「ナタリーは誘拐されたのか。自ら失踪したのか」

 しばらくテレーズのぬくもりを堪能したあと、ジャスパーが首をひねった。

「わからねえな。どちらの可能性も、同じくらいある」



 ヒューバートから贈られた写本を、ナタリーが手にしたとたんに起こった突風。

 窓は締め切られてはいなかった。だが竜巻のような激しい風が室内で局所的に起こるというのは、どれほどの偶然が重なればかなう現象なのだろう。

 奇妙な現象だった。


 奇妙だといえば、日中もナタリーは奇妙な話をした。

 帰路にて馬車に揺られていたときのことだ。



『そんなふうに前世でも、この子の旦那が制限するものだから』



 ジャスパーはナタリーに、前世とはなにかと、反射的にたずねてしまった。テレーズの過去の男をほのめかされ、自制の蓋が開いてしまった。

 あれは失策だったな。

 すこしばかり悔やんでは、ジャスパーはテレーズを見やった。

 気づかぬふりをつらぬくつもりでいたのだ。テレーズにしろ、ナタリーにしろ。



「ええ。誘拐されたのかもしれませんし、逃亡したのかもしれません」

 オウエンは主ジャスパーの意見に同意するも、完全な本心とは言えなかった。

「可能性を絞らず、多面的・多角的に検討しましょう」



 オウエンは内心、ナタリーは自ら逃亡したのだろうと確信している。

 だがそれを口にするべき相手は、主ジャスパーだけでいい。ナタリーをかくまっていたのであろうテレーズの前で、わざわざテレーズの傷を(えぐ)るかのように明かしてはならない。



「それにしてもなあ」

 ジャスパーは、深刻そうな顔つきを崩さない家令オウエンに目をやる。

「ヒューバートがキャンベル家嫡男として挨拶に来るつもりなのか、王太子殿下の側近として偵察に来るつもりなのかは知らねえが」

 やれやれというように肩をすくめ、ジャスパーは嘆息した。

「どちらにせよ、気分のいいもんじゃねえな」


「おっしゃるとおりで」

 オウエンがうなずく。


 今度ばかりは本心だった。主ジャスパーの不服に、オウエンも完全に同意だった。


 ジャスパーはオウエンの自慢の主だ。領民思いの領主だ。

 気さくで親しみやすく、税の取り立てもゆるやか。

 それどころか親身になって嘆願に耳を傾ける。

 そうしてすっかり話を聞いてから、「俺じゃあ力になれねえから」とうそぶき、必要とされる専門の知識があったり、必要とされる各部門の処理能力に優れていたりと、さまざまな観点で必要必須な、有能な人材を派遣する。

 人材だけではなく、新規事業の立ち上げや災害時など、なにかと気前のいい支援金をぽんと寄越してくれる。


 しかしグレイフォードの領主ジャスパー・ジョンソン・キャンベルは、長らく結婚相手が見つからずにいた。

 フランクベルト王国において、並み居る名家のなかでも飛びぬけて旧家。

 愛国の七忠に勝るとも劣らぬ、名家キャンベル家の生まれであるにも関わらず、だ。


 領民にとってジャスパーは、これ以上なく誇らしい領主だった。

 しかしながら、領民のほとんどが領主ジャスパーの結婚を諦めていた。

 過去には名家の令嬢方との見合いがことごとく破談になっていたし、なによりジャスパー自身がさほど結婚に乗り気ではなさそうであったからだ。


 それについては家令であるオウエンも、領民と似たような心境だった。

 だがオウエンには、ほかの領民たちよりもずっと、忸怩(じくじ)たる思いがあった。


 オウエンにとってジャスパーとは、誇り高き主であるだけではない。

 幼いころからその成長を見守ってきたのだ。

 己の立場に目をつむり恐れ知らずに言ってしまえば、弟分のような存在もであった。


 そこにきて、グレイフォードへと急報が飛び込んだ。

 というのも、名家モールパのお嬢様テレーズをグレイフォードに迎えることになったのだ。

 それもグレイフォードの領主ジャスパーの見合い相手として。


 キャンベル家の誰それがジャスパーのために見合いの世話をした、というのではなく。

 ジャスパーが彼自身の意思で、年頃の令嬢テレーズを見合い相手として呼び寄せるのだという。


 オウエンの心は浮き立った。


 たとえモールパ家の嫡男ウジェーヌが寄越した手紙の、露骨な世辞に眉をひそめても。

 確実に下心や裏事情があるのだろうという、厭らしさが見て取れたとしても。

 それでも、テレーズという見知らぬ令嬢に、オウエンは期待した。


 兄ウジェーヌの意図がどうであれ、妹テレーズに悪評はない。

 体が弱いということだそうだが、そうであれば、社交界への出入りは少ないだろう。

 なればジャスパーの苦手な、社交界の華と言わんばかりの、回りくどい駆け引きを好む令嬢ではない可能性がある。

 男を手玉に取るような毒婦でなければいい。

 ジャスパーの心を温め、寄り添ってくれるような、そんな女性が、もし。


 それだから、テレーズの引き連れてきた女扈従ナタリーが、あからさまに扈従らしくなく、高貴な出自を感じさせるようであっても、目をつむった。

 ナタリーの話す言葉が古キャンベル語であることには、さすがにモールパの陰謀を疑ったが、それもまた、オウエンの主であるジャスパーが「探るのはよせ」と言うので、渋々ながらも従った。


 それほどまでに、ジャスパーがテレーズに入れ込んでいるのだろうと思ったから。

 主のほほえましい恋を応援したかった。


 不可解で疑惑のつきまとう、素性の知れないナタリーはともかく。

 肝心の見合い相手であるテレーズは、健気で可愛らしく、すれたところのない、理想的な令嬢だった。

 それならば。

 それならば、モールパのウジェーヌ公子が寄越した手紙も、ナタリーの身元も。

 怪しげな不穏分子である彼らには注意深く目を光らせつつも、ジャスパーとテレーズの初々しい恋を見守っていけばよいと。

 オウエンはそう思ったのだ。



「俺は嫡男じゃなかったからな」

 ジャスパーはうなった。

「キャンベルに伝わる話を、掌握できちゃいねえ。これまでは、当主の重責もなく、楽なもんだとばかり思っちゃいたが。こうなってみれば、おもしろくねえ話だ」



 ジャスパーが不遜な笑みを浮かべ、オウエンとロジャーも同様に好戦的ともいえる顔つきで主ジャスパーにうなずき返す。

 男たちの様子を前に、テレーズの脳裏によぎる言葉があった。



『男の方々は、国と民、そして身近な女子供の幸福と生命を守るよう任され、大変な責任を背負って、生きていらっしゃいます』



 ええ、そうだわ。

 ジャスパー様も、オウエンもロジャーも。

 みんながグレイフォードを。そして愛する伴侶や家族、恋人を守ろうと決意し、立ち上がろうとしている。


 テレーズは突如として頭に浮かんだ言葉に同意した。

 女神がテレーズを憐れに思い、託宣(たくせん)したのだろうか。

 声の主の像が、ぼんやりと思い浮かぶようだった。

 真実と正義を愛し、公平であろうと努め、厳しくも高潔で、慈愛に満ち、優美。そんな敬愛すべき女神の姿だ。



『有事には決断をせまられ、己の下した決断が、国と国民、家門と領民の運命を左右する。そのような責務をまっとうするには、男の方々の強靭な精神と肉体が不可欠です』



 テレーズの兄ウジェーヌも、モールパを守るために立ち上がった一人だったのだろう。

 テレーズの弟オノレもまた、兄ウジェーヌとは違うやりかた、王太子アルフレッドの側に仕えることで、モールパのために。



『女のわたくし達は、そのようにして男の方々のお力によって、守られ、生かされていることを、忘れてはなりません』



 そうだ。守られ、生かされている。

 テレーズはジャスパーとオウエンの目こぼしによって、何を咎められることもなく、グレイフォードで幸せな恋をした。

 そうであるならば。



「女の私にできること。それは、愛する男性の支えとなること」

 テレーズはつぶやいた。

「たとえなにがあろうとも、ジャスパー様をお支えすることだわ」



 さて、ここで問題だ。

 はたしてジャスパーを支えるとは、どういうことだろう。

 なにをすれば。どのようにあれば。


 その解答までは、慈悲深い女神とて、テレーズに託宣してはくれないようだった。

 考えなくてはいけない。

 これまでのように、ただ守られるばかりのひ弱で哀れなお嬢様から抜け出したいのであれば。







 その後、すぐにでも馬を飛ばしてやってくるかと思われたキャンベル家嫡男である甥ヒューバートは、いつまで経っても、グレイフォードにやってこなかった。

 代わりに、早馬の伝令がキャンベル王都屋敷からグレイフォードへと到着した。

 伝令が携えた知らせ。それはジャスパーら館のひとびとにもじゅうぶんな衝撃を与えた。


 ジャスパーの姪ネモフィラが、婚約者第二王子との王宮における定例茶会で、キャンベル一族を凋落(ちょうらく)させうる、とんでもない大失態を演じたらしいこと。

 それだけにとどまらず、ネモフィラはいまだ昏睡状態にあるということだった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] テレーズの記憶にミュスカデの言葉が! この過去とのリンクがとっても素敵です。 そして、ネモフィラの覚醒(?)が来た~! シリーズがここでガッツリと同時進行になりましたね! テレーズとネ…
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