15 プアスミス川
「『精霊の舞』だわ」
馬車の窓から、外を覗き込み、ナタリーは独り言ちた。
街道に沿うようにして流れる川。その水面に、『精霊の舞』なる光の柱が幾本と立ち、きらきらと反射している。
グレイフォードの屋敷から浅瀬の湖へと流れ込む、プアスミス川だ。
プアスミス川には、その名の由来となった余談がある。
鍛冶屋の男が、激しい夫婦喧嘩の末、家出することにした。
夜も更けた頃。男は女房の目をかいくぐって家から抜け出すと、川辺で隊商が休んでいるのを見つけた。
衛兵は見当たらない。男はこっそり忍び込んだ。
女房のやつめ。俺の不在に気がつけば、きっと困るにちがいない。うんと反省するがいい。泣いて詫びれば、戻ってやらぬこともない。
男は胸のすく心地で、荷台に敷き詰められた藁に寝転んだ。
ところが、というべきか。必然、というべきか。
翌朝、鍛冶屋の男は見つかった。
男のとめる間もなく、隊商で下働きをする小僧が、隊商長へと報告に駆けていく。
この隊商は当時、キャンベル内の山や丘で産出されたばかりのミョウバンセキを、初代キャンベル家当主の屋敷へ運んで披露するという、非常に重要な役を任されていた。
さて、そんな一大商機を前に、無言無銭で乗ずる、厚かましく怪しい客。
隊商長はためらうことなく、石橋の上から川へと鍛冶屋を放り投げた。
その川というのが、プアスミス川である。
ナタリーがレオンハルトと出会う前。まだ幼い頃に、キャンベルに伝わる昔話として聞いた。
実際にあった故事なのだとすれば、今世より少なくとも、四百五十年は遡るだろう。
キャンベルは、フランクベルト建国時には、すでに、武に長けた家として名を馳せていた。
フランクベルト建国は、今世よりも、おおよそ四百五十年ほど前のことではないかと考えられている。
初代キャンベル家当主の生きた時代となれば、それよりもさらに昔ということだ。
プアスミス川を沿って下流へと向かう馬車道。
ジャスパーがくだらないおしゃべりをぺちゃくちゃ、いっしょうけんめいテレーズに話している。
ナタリーは、退屈でならなかった。
キャンベルの森に似た街道の景色を眺めることで、気を紛らわす。
そうするうちに、天から差し込む幾筋もの光の脚、『精霊の舞』を目にし、百五十年前の記憶が蘇ってきた。
メロヴィング公女ミュスカデが、ナタリーへと横乗りの指南をしてくれた日のこと。
ミュスカデがナタリーに教えてくれたのは、フランクベルト宮廷らしい馬の扱いだけではなかった。
――したたかなひとだったわ。
決定権を持つのが男ならば。決定権を持たぬ女が、意思を通そうとするのならば。
己の望むような決断をさせるべく、女は男を導いてやればいい。
ミュスカデのやり方は、おそらくそういうことだ。
マルグリットはテレーズへと生まれ変わった。ではミュスカデは、今世の誰かに生まれ変わったのだろうか。
生まれ変わっているのなら、会ってみたい。
たとえミュスカデが、ナタリーのことを覚えていないのだとしても。
もちろん、レオンハルトが先だ。
レオンハルトの生まれ変わりが、グレイフォード近くに存在することを、ナタリーはすでに確信していた。
ジャスパーがある日、テレーズに見せた本がきっかけだった。
ジャスパーの兄キャンベル辺境伯アルバートには、三人の子どもがいる。
長男ヒューバート、長女ネモフィラ、次男ハロルド。
そのうち、長男はフランクベルト王太子である第一王子と親しく、長女は第二王子の婚約者である。
百五十年の時を経ても、キャンベル家と王家との因果は切れぬものらしい。
皮肉なことだ。
フランクベルト宮廷はあれほど、キャンベル家――いや、ナタリーとレオンハルトを引き離したがっていたのに。
それともナタリーの父ロドリックは、レオンハルトとの間に生まれた息子ジェイコブの血筋を公にしてしまったのだろうか。
息子ジェイコブは父ロドリックの孫ではなく、息子として。キャンベルの後継とする約束だったはずだ。
わからないわ。
ナタリーは嘆息した。
ナタリーの記憶は、ヴリリエール公爵アンリから、趣味の悪い私刑でいたぶられているところで終わってしまっている。
それ以上のことは、どうしたって探りようもない。
そう思い、あきらめていた。
ジャスパーが自慢げに振りかざす、蝋引き布で装丁された、真新しい写本を目にするまでは。
◇
「テレーズ嬢、読書は好きかい」
ジャスパーは本を頭上にかかげ、にこにことテレーズに言った。
「はい、とても好きです」
テレーズは、ぶんぶんと勢いよく振られる本のゆくえを目で追いながら答えた。
「そんじゃ、こちらをどうぞ」
ジャスパーはテレーズの手をとり、その上に本をのせた。
「甥っ子が俺に贈ってくれたんだ。よくある活版印刷じゃねえ。写本だぞ」
「まあ、甥御さんが」
テレーズは蝋引き布に手を当て、そうっとなでた。
「新しい写本は、もう、なかなか見かけませんものね。写本には、技術も時間も、大変にかかると聞いています。貴重なお品を――」
そう言うと、テレーズは指を止めた。
「あら、王太子殿下が翻訳なされたのですね」
「そうなんだ!」
ジャスパーはテレーズの両肩をつかみ、身をかがめた。
「甥っ子のヒューバートは、兄貴や俺ら、ほかのキャンベルのやつらとは違って、優秀なやつでな! 王太子殿下に気に入られているんだ」
「そ、それはすばらしいことです」
ジャスパーとテレーズ。ふたりの鼻先がくっつかんばかりの距離に、テレーズはとまどった。
「そうだろう、そうだろう」
ジャスパーは嬉しそうに笑うと、テレーズから手を離し、満足げに何度もうなずいた。
ほっとするような。さみしいような。
テレーズは複雑な心地を胸に、ジャスパーにほほえんだ。
「ということは、ヒューバート様は王太子殿下よりじきじきに献本されたのでしょうか」
「やっぱりあんたは、頭がいいな!」
ジャスパーはテレーズをたたえた。
「テレーズ嬢の言うとおりだ。そんでヒューバートがそいつを写本して、俺に贈ってくれたってわけだな」
ナタリーはテレーズの手元をのぞきこんだ。
写本の背表紙には、美しい装飾文字で題名が書かれている。題名は――。
「『新訳 獅子に魅入られた男』、というのですね」
テレーズが題名を読み上げる。
「まあ、編纂者はリシュリューの方なのですか」




