10 出自と異文化(1)
「古キャンベル語な」
ジャスパーはうつむいて頭をかき、それから天を仰ぐと、頬から顎にかけて、その豊かな黒い髭を指で引っ張った。
「うん。まあ教えるのは、まったくもってかまわねえんだけどよ」
「あー」とか「うーん」とか。うなりながら、首をかしげるジャスパー。
どうにも歯切れの悪い口ぶりだ。
テレーズの不安がますますつのる。
「あの」
テレーズが震え声で口を開くのと、ジャスパーがふたたび切り出すのは同時だった。
「あんた、気張りすぎてねえか?」
「え?」
なにを問われたのかと、テレーズは目を瞬かせた。
「あ、わりい。あんた今、なにか言いかけたな」
ジャスパーがテレーズの目をのぞきこむ。
「なんだ?」
穏やかで温かい、淡い水色の瞳。
モールパの家族の瞳の色と似ている。
父ユーグに兄ウジェーヌ、姉ウジェニーに弟オノレ。
モールパ一家の瞳の色は、母とテレーズがはしばみ色で、他の面々は淡い水色だった。
テレーズは少しだけ気持ちが落ち着いた。
「いえ、ジャスパー様が悩まれているようでしたから」
テレーズはほほえんで言った。
「どうぞ、お気遣いなさらずに、と。そのように言うつもりでした」
「気遣い?」
ジャスパーは虚をつかれ、目を丸くした。
「そりゃ、あんたのほうだ!」
ジャスパーの突然の大声に、テレーズは面食らう。
「さっきからあんた、やけに迎合しようとしてるじゃねえか。古キャンベル語をしゃべりてえとかよ」
ジャスパーはテレーズへと身を乗り出し、大きな腕を振り回して熱弁をふるった。
「大丈夫か? 別にいいんだぜ。無理しねえでよ。あんたは由緒正しいモールパの、名家のお嬢さんだろうが」
テレーズは呆気にとられた。
まさかそんなふうに思われていたとは。
ジャスパーの憂慮が、テレーズの矜持を慮るものだったとは。
驚いて声を出せないでいるテレーズを見て、ジャスパーは「ほれ、やっぱり無理してるんじゃねえか」と、顎髭を引っ張った。
その口ぶり、顔つきがいかにも寂しそうだったので、テレーズははっとした。
――まるでウジェーヌお兄様に叱られたときのノワールみたい。
テレーズの脳裏に、モールパの屋敷で飼っている大型犬の姿が思い起こされた。
兄ウジェーヌが七歳の誕生日に買い与えられた、黒い毛並みの美しい猟犬ノワール。
そういえば、ノワールの瞳もまた、淡い水色だった。
モールパの家族と、それから老犬ノワールと同じ、淡い水色の瞳が、悲しげに曇っている。
テレーズの胸が痛む。
だが、テレーズが弁明しようとするよりも早く、オウエンが冷たい声でジャスパーに指摘した。
「旦那様が『共通語は苦手』だなんておっしゃるからですよ」
「あっそうか。俺がぼやいたのが悪かったんだな」
ジャスパーは理由の判明したことに気が楽になったのか、顔色を明るくさせた。
それからテレーズに向き直り、がばりと勢いよく頭をさげた。
「すまん。俺が悪かった」
「いえ、そんな」
テレーズはあわてて断る。
年上の立派な貴顕に頭を下げさせるなんて。
おろおろと戸惑うテレーズに、ジャスパーは苦笑した。
「そう気を遣わねえでくれ」
ジャスパーは顎髭をもてあそびながら言った。
「キャンベルは昔から、あんまり序列を気にしねえんだ。身分も年齢も性別も」
ジャスパーの言葉に、ナタリーの眉がぴくりと上がる。
たしかにキャンベルは、他領邦に比べ、いくらか自由な気質ではあるが、序列がないことはない。
騎士団においては特に、序列は強く意識される。
性別に序列がない、とジャスパーは言ったが、女のナタリーが騎士団で鍛錬に加えてもらおうとしたときには、周囲の反対はすさまじかった。
父ロドリックにナタリーがその実力を認めさせ、ようやく鍛錬に加えてもらえるようになったのだ。
そんな経緯があったものを、軽々しく『キャンベルには序列がない』など、知った口を叩かないでほしい。
しょせんはジャスパーも、キャンベル宗家の男で、身分も財もある、恵まれた生まれの人間なのだ。
立場の弱い女の、そのうえ体も弱いテレーズの味方になってやれるのは、ジャスパーではない。ナタリーだ。
キャンベルからフランクベルトの王宮へと居を移し、慣習と言葉の違いから、出自と教養をさんざんバカにされ、悔しい思いをしたことなど、男のジャスパーに想像できるはずがない。
ナタリーは、そういった類の屈辱を味わった。
ナタリーなら、テレーズの心細く不安な気持ちに寄り添うことができる。
憎たらしいことに、テレーズの話す共通語に比べて、ジャスパーの話す共通語のほうが、ナタリーにとって聞き取りやすかったため、ジャスパーの浮かれ切った様子がよく理解できた。
だがジャスパーは、ナタリーの反感に気づくことなく、知ったかぶりで偉そうに、キャンベル語りを続けた。
「それから、昔からキャンベルは、いろんな出自の人間が出入りするからよ」
そう言うと、ジャスパーは目の前のカップを持ち上げた。
「たとえばこいつ」
ジャスパーの示すカップは、客人へのもてなしとしてテレーズに出されたカップと揃いだ。
光にかざされ、純白色の器がうっすらと透けて見える。
「こいつなんかは、グレイフォードの職人が焼いた磁器なんだが」
ジャスパーは磁器を軽く指で弾いた。
かつん、と涼やかで軽快な音が鳴る。まるでガラスのような。
「少し前まで、キャンベルには陶器しかなかった。あんたも知っていると思うが、陶器はもっと鈍い音がする」
「ええ」
テレーズはうなずく。
「モールパで用いる食器は主に銀やガラスですから、あまり陶器は所有しておりませんが」
前置きを述べた上で、テレーズは賛同した。
「モールパでの焼き物は、こちらのような、ガラスのように滑らかではございません」
「そうだろう」
ジャスパーは得意げにうなずいた。
「こいつは磁器っていう、グレイフォードの新しい産物だからな。これから売り出すつもりだ。流行るぜ、きっと」
ジャスパーはグレイフォードの領主らしく、領地の産物を誇らしげに語り始めた。
「ガラスの都と呼ばれた亡国ミルフィオリの職人が、グレイフォードに流れ着いてな」
ジャスパーの太い指が、カップに取りつけられた華奢な取っ手をなぞる。
「それで、そのミルフィオリのガラス職人と、うちの陶器職人がいっしょになって考案したのが、こいつだ」
「そのような経緯があったのですね」
テレーズはカップを手に取り、あらためてよく眺めた。
「ミルクのように滑らかで、ガラスのような透明感があって」
薄く繊細な飲み口を指でなぞる。
「美しいだけでなく、器の端の薄さが味を引き立て、羽根のような軽さが手に馴染む」
テレーズはジャスパーの目を見て、にこりとほほえんだ。
「素晴らしいお品です、ジャスパー様」
「べた褒めだなあ、こりゃ」
ジャスパーは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
テレーズがほほえみ返す。
そこへ、機を見計らっていたオウエンが、空になったジャスパーとテレーズのカップへと、黒褐色の液体を注ぐ。
ジャスパーのカップにはミルクをたっぷり。
テレーズは備えつけのジャムをスプーンにすくってカップに浸し、くるくると回しながら溶かし始めた。
ジャスパーはテレーズの様子を見守っている。
健やかに成長した姪を見守る、親戚のおじさんのようなまなざしだ。
ナタリーは二人を冷めた目つきで眺めた。
たしかに、ジャスパーとテレーズには、それくらいの年齢差がある。
妙な下心があるよりはましだ。
ナタリーはジャスパーを信用せず、厳しく精査し続けることを心に決めた。
それにしても、ジャスパーのうしろに立つ、家令の視線がうっとうしい。
ジャスパーはカップを一口飲むと、しまりのない顔つきを少しばかりひきしめた。
「あんたはこいつを褒めてくれたが」
ジャスパーはカップを持ち上げ、切り出した。
テレーズが顔を上げる。
「他でも流通させるには、ちょいと素朴すぎるだろう」
ジャスパーは身を乗り出し、テレーズに問いかけた。
「あんただったら、これをどう飾る?」




