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7 グレイフォード




「ウジェーヌお兄様が手助けしてくれるとは聞いていたけれど」

 馬車から降り立ったテレーズは、あたりをぐるりと見渡した。


 すがすがしい森の香りが、水粒(みつぼ)を含んでいるような、みずみずしい風に運ばれてやってくる。

 いたずらな風が通り過ぎるまで、帽子が吹き飛ばされぬよう、テレーズはその広いつばを両手でおさえた。

 クリーム色のドレスがふくらみ、裾に縫いつけられた白のスカラップレースが揺れる。

 レース編みのウールタイツに包まれていてさえ、骨のかたちがよく見える、うすい脂肪しかのらないテレーズの細い脚が、ちらりとのぞいた。



「もしかしたらモールパの領内で追っ手につかまるかもしれない、とも思っていたのよ」

 そう言うとテレーズは声をひそめ、「お母様が亡くなって以来、お父様の心配性は輪をかけてひどくなったし」とひとり言のようにつけ加えた。


 ふらつくことなく、自分の足でしっかり立つテレーズのうしろすがたを認め、ナタリーはほっと安堵した。

 体の弱いテレーズ。

 ウジェーヌと知り合いの貴族や豪族などの領主館、大商人の屋敷、教会、ときには旅籠(はたご)に寄りながらの道のりではあったが、馬車での長旅は彼女の体にさぞ負担だったことだろう。

 ジョンソン氏の館で、しっかりと養生させなければ。

 ナタリーは館の使用人たちに言い含めること、食事や休息、()()める香の種類、寝具に医師の手配といった交渉すべきことを頭の中に思い浮かべた。

 なんといってもナタリーは、テレーズの扈従(こじゅう)としてついてきたのだ。


 ナタリーは馬車に積んだいくつもの衣装鞄のうち、ふたつを手に馬車から降りた。



「ありがとう」

 テレーズはナタリーに笑いかけ、それからまぶたを閉じた。

 胸に手を当て、深く息を吸い込む。



「ねえ、ナタリー。ここはすばらしいわ」

 テレーズは満面の笑みで、一歩うしろに立つナタリーへとふたたび振り返った。

「なんて澄んだ空気なの! 緑の香りが濃い! まるで妖精があちこちに隠れておしゃべりをしているみたい!」



 ジョンソン氏の館は人里離れた森の奥にあった。

 ジョンソン氏の治める土地一帯の名は、グレイフォード。

 ナタリーの慣れ親しんだ、キャンベルの屋敷とはすこし違う香りがした。だがキャンベルの森によく似ていた。


 グレイフォードの森と同様に、キャンベルの森でも、すこし足を踏み入れるとすぐに、太くてまっすぐな、銀肌の幹が出迎えてくれた。

 あの木は建材に適しているのだと、キャンベルの木こりが言っていた。

 船を作るのにも適していたかもしれない。

 それなのに、百五十年前のキャンベルでは、造船技術が(つたな)かった。

 過去の攻城戦の経験によって、攻城搭ならば、いくらでも作る知恵と技術があったのに。


 あれほど豊かな森だったのだ。

 伐採して船を作り、海戦術を磨いていれば。そうすれば、敵将トリトンを捕らえたトライデントの戦で、総大将エノシガイオス公パライモン八世を取り逃がすこともなかっただろうに。

 そうしていたならばきっと、父トリトンの遺志を継いだパライモン九世――幼名をメリケルテスという――による、あの恐ろしいトゥーニス劫掠(ごうりゃく)が起こることもなかった。

 結果、愚かしくもナタリーが蛇の罠に陥ることさえ、起こらなかったはずだ。


 これまで幾度も悔やんでは、憎悪を燃やした。そしてその都度、すでに過ぎ去った遠い昔のことである、と振り払ってきた悪夢だ。



「どうかしたの?」

 テレーズが、けげんそうにナタリーの顔をのぞきこむ。



「なんでもないわ」

 ナタリーはテレーズに笑顔を向ける。



「私には、あなたの言葉を理解できているのか、自信がもてないの。努力はしているのだけど」

 テレーズは残念そうに言うと、ナタリーの頬を両手でつつみこんだ。

「だから、あなたの表情と声色で判断する」



 テレーズの折れそうなほどに細い指は、とても冷たい。

 血液が指先までうまく循環していないのだ。

 ナタリーは、テレーズの指先を温めてやろうと、荷鞄から手を放し、テレーズの指先を握った。



「悩みごとがあるのね、ナタリー」

 テレーズのはしばみ色の瞳に、ナタリーの取りつくろった笑顔が映り込んでいる。

「大丈夫。私があなたを守ってあげる」



 テレーズの、そのか細い指とは対照的な力強い口ぶりに、ナタリーの胸は温かくなった。

 テレーズの言葉。その意味について、正確なところはわからない。

 だが、テレーズがなにを言わんとしているのかくらい、その勇ましい顔つきを見れば、ナタリーでなくとも、誰にだって知れるというものだ。

 それでなくともテレーズは、ナタリーが長い眠りから目覚めて、初めて心を許した友人だ。

 好きな相手の言うことは、関心のない人間のおしゃべりより、ずっと理解できる。



「頼もしい友人がいてくれて嬉しいわ」

 ナタリーはテレーズの指先をぎゅっと握って、笑いかけた。

「でもここには、あなたのお見合いのためにきたのだし、それにあたしはあなたの扈従でしかないのだから」

 ゆっくりとテレーズの手を下へおろす。

「あんまりあたしにばかりかまっていてはダメよ」


「『お見合い』」

 テレーズはナタリーの言葉から、『お見合い』の言葉を聞き取り、繰り返した。

「そうね、お見合いなのよね」



 不安なような、待ち遠しいような、怖いような、嬉しいような複雑な心地でうつむくテレーズ。

 憂いに沈むテレーズを前に、ナタリーは百五十年前のマルグリットを思い出した。


 マルグリットは再婚にいたるまで、再婚相手と見合いをすることはなかった。

 結婚の誓いのために神官の前に並び立ち、そこで初めて互いの顔を合わせた。完全なる政略結婚だ。


 恋愛結婚をする貴族のほうがずっと少ないのだ。

 そのうえそれぞれの領地が遠く離れていることも珍しくないし、貴族の全員がかならずしも、祭典だ社交シーズンだなんだと王都に集まるというものでもない。辺境に居をかまえるキャンベル家など、王命がなければ誰一人、王都に出向こうとはしなかった。

 それだから、結婚するまで肖像画以外で相手の顔を見たことがないなど、よくある話だ。


 だが、ナタリーは、代々恋愛結婚で血を繋いできたキャンベル家に生まれた。

 そのうえ、百五十年前のレオンハルトしか、男を知らない。

 心を通わせてから婚姻を結ぶのではなく、顔を合わせる前から家同士の事情で政略的に伴侶が決まるというやり方には、どうしたってなじむことができない。

 大切な相手が、そういった結婚を強いられるというのは、見るに堪えない。


 百五十年前のマルグリットが、見ず知らずの、そのうえ一回り以上年上のやもめ男に嫁いで、穏やかな夫婦関係を築くことができたのは、あの時代、稀にみる幸運だった。



「気の合わない相手なら、断ることができるわ」

 ナタリーは気づかわし気に言った。

「今回はお見合いでしかないのだし」



 ジョンソン氏はキャンベル家の人間だ。

 百五十年前と家風が変わっていないのであれば、好意を寄せてくれぬ相手に結婚を無理強いすることはないだろう。そんな性根の腐った男は、キャンベル家の男ではない。



「大丈夫。心配しなくていいの、ナタリー」

 テレーズは顔をあげ、ナタリーの不安を払拭するように、にっこりと笑った。

「だって結婚は、私のひそかな夢だったのだもの」



 ナタリーはなおも眉を寄せ、テレーズの瞳をさぐるようにのぞきこむ。

 テレーズはこてんと首をかしげた。



「それにしても本当に、緑が深いのね」

 クリーム色のドレスをひるがえし、テレーズはくるりと回った。

「モールパも暖かく緑豊かな土地だけれど、グレイフォードの森には古代の精霊があちこちに宿っていそう。なんて清らかなの」



 胸いっぱいに空気を吸い込むテレーズを見て、ナタリーもまた息を吸い込んだ。

 キャンベルの森の匂いだ。

 懐かしいキャンベルの森が、まだここにある。



「ウジェーヌお兄様ったら」

 テレーズはとつぜん、くすくす笑い出した。


 その声に、郷愁に浸っていたナタリーの意識が呼び起こされる。



「グレイフォードがこれほどまで深い緑に恵まれている土地なら、ここを訪れる理由をジョンソン氏とのお見合いではなくて、療養のためだとしてもよかったのかもしれないのに」

 心から幸せだとばかりに、テレーズは言った。

「あなたにはわかりにくかったかもしれないけれど、ウジェーヌお兄様はとってもお優しい方なの」


「私、ウジェーヌお兄様を信じているわ」

 テレーズはとまどうナタリーの手を引いた。

「ウジェーヌお兄様が私のために選んでくださった方となら、幸せになれる。きっとよ」



 はたして、ウジェーヌが妹テレーズと魔女ナタリーの逃避行の名目として、病弱な妹の療養ではなく名家同士の見合いとしたことは、完全に功を奏した。




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― 新着の感想 ―
[良い点] >「私、ウジェーヌお兄様を信じているわ」 うーーーーーーん。いいのかな、信じていいのかなあ。 ジョンソン氏なる人がよき人間だといいんだけどなあ。 百五十年前のマルグリットが幸せになれた…
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