3 テレーズとウジェーヌ
テレーズを前にして、ナタリーの頭の中では、いつかの光景が浮かび上がった。
「だいたい、ジークフリート殿下は、ひどいお方です!」
ミュスカデの扈従マルグリットは、淑女らしさをかなぐり捨て、もはや完全なる前のめりで、鼻息荒く叫んだ。
「ご自身はミュスカデ様に、レオンハルト陛下の御許へ嫁ぐよう仰せになられたくせに。ミュスカデ様から私を慰みに寄越されたと勘違いするやいなや、まるで一番の被害者のようなお顔をなさるのですもの」
そこまで一気にまくしたてると、マルグリットはちらりとナタリーへ視線をやった。
ナタリーが話を聞いていると知るやいなや、正義は我にありとばかりにマルグリットは胸をそらした。
「あの方は、ご自分の言われたことが、どれほど残酷なことなのか、まったくわかっていらっしゃらないのです!」
ああ、そうだ。
メロヴィング家のマルグリット。
普段はおとなしいのに、一度興奮すると、とんでもないやかまし屋に変貌してしまう。
それも、女神が如くに、彼女の心酔する敬愛すべき主ミュスカデのこととなれば、そりゃあもう。まったくもって手に負えない。
どれくらいひどいかといえば、ごらんのとおり。
ミュスカデの目の前で、彼女の最愛たるジークフリートについて難癖をつけ始めるほどだ。
まわりが止めなければ、ジークフリート本人に突撃して、説教のひとつやふたつ、ぶちかますに違いない。
一度熱くなったら最後。自分がメロヴィング家の扈従であり、必ずやメロヴィング家に迷惑をかけるだろうことなど、きれいさっぱり忘れてしまうのだ。
熱くてまっすぐな心の持ち主、マルグリット。
気は強いが、体は弱かった。
気の毒なことに、子どもが産めないからと、一人目の夫から冷たく離縁されたこともある。
だけれど、幸か不幸か。それがマルグリットをミュスカデのもとへと導いた。
モールパ公女テレーズの顔に、かつてのマルグリットが重なった。
「そう。あなた、そうなのね」
ナタリーがかみしめるように言うと、テレーズは首をかしげた。
目覚めて以来初めて、ナタリーは心から笑った。
突然抱きしめられたテレーズは驚きながらも、はしばみ色のつぶらな瞳を嬉しそうに細めた。
それからというもの、ナタリーとテレーズは、まるで姉妹のように親密になった。
言葉はやっぱり、互いにそれほどうまくは伝わらない。だが静かな屋敷内を、女二人の笑い声が響きわたるようになった。
他家に嫁いだテレーズの本当の姉、ウジェニーがいた頃のような華やかさに、屋敷の人間ほとんどが喜んだ。
愛らしく、公女らしからぬおてんばなところがあり、使用人にも分け隔てなく優しいお嬢様、テレーズ。
だがしかし、幼い頃から病弱で、兄姉弟とともに外遊びしようものなら、翌日には必ず熱を出し、寝込んでしまう。
茶会に参加しようとしても、体調を崩している日が多く、欠席ばかり。
そんなテレーズなので、婚約者はいなかった。友人もできなかった。
モールパの名に集る蠅のような連中は、もちろん、利用しがいのある薄幸の公女テレーズの存在を忘れることはなかった。しかしそういった輩については、母モールパ公爵夫人に姉ウジェニーがすかさず追い払った。
そんな頼りがいのある姉ウジェニーは五年前に嫁に出て、母公爵夫人は一昨年夭折した。
以来、屋敷は喪が明けぬまま、ひっそりと静まり返っていた。
家族も使用人も、誰もが皆、テレーズの幸せを願っていた。
そこへナタリーがあらわれた。
テレーズお嬢様がこれほど楽しそうであるならば。
先代の先代の、そのまた先代といった具合で百五十年以上続き、ひたすら黒薔薇を栽培し続けたかいがあるというものだ。
庭師は満足した。
モールパ公爵邸の庭の一画。そこに大輪の黒薔薇が植えられていた。
庭師を始めとして、実のところこれまでは、内心疑問であったり、不満をくすぶらせる者も多かったのだ。
ほがらかで陽気なモールパ庭園にそぐわぬ、陰鬱で妖艶な黒薔薇。
庭園の薔薇が開花の時期でないときには、他領から融通してもらう。
どうしても手に入らないときには、黒薔薇の香油をたっぷり。それから乾燥させた花弁を、これまたたっぷり必要とした。
加えて、当主以外の誰も、入室を許されない開かずの間。
そこには、不気味な人形があるのだと、使用人たちの間で、まことしやかにささやかれていた。
歴代モールパ家当主は、もしかすれば、悪魔崇拝者であるのかもしれない。
そうでなければなぜ、これほど多くの黒薔薇を必要とするのか。なぜ、百五十年も続く、不気味な開かずの間が存在するのか。
気味が悪いばかりだった開かずの間。
とうとう悪魔が放たれたかと思えば、そこから飛び出てきたのは、悪魔でも人形でもなく、生きた人間だった。
それからはもう、不満を抱く者はいなくなった。
――ウジェニーの双子の弟、ウジェーヌを除いては。
長男ウジェーヌはモールパ公爵嫡子として、父公爵ユーグからモールパ家の役目を言い聞かされ、育った。
モールパ公爵とは、愛国の七忠――『新・建国の七忠』との俗称の方が、広く知られている――の一柱である。
現モールパ公爵ユーグもまた、現王オットーの上級顧問の一人だ。
とはいえユーグは、王の上級顧問の役付きにありながら、国政にはいっさい関与していない。
ユーグだけではない。
初代モールパ公爵であった、当時の王兄ジークフリート以外、歴代モールパ公爵の誰一人として、国政に携わっていない。
一方で、初代モールパ公爵ジークフリートは終生、第十一代フランクベルト王レオンハルト二世の摂政を務めあげた。
伝わる話では、レオンハルト二世は兄ジークフリートに共同王を持ちかけることまでしたらしい。だがジークフリートは弟の臣下に留まることを選んだ。
そして二代目以降のモールパ公爵は、国政の関与すらしない。
モールパ公爵の始まりは、宮廷においてそれほどまでの権威を誇っていたにも関わらず、だ。
ウジェーヌは、そんなモールパ家の役割に満足していた。
なぜなら、宮廷で政治を取り仕切る以上の責務を、国家最大機密を、モールパ家は任されている。
それがウジェーヌの誇りだった。
王と王太子、それからキャンベル辺境伯とその嫡子。彼らを除いた誰もが、モールパ公爵の存在意義を正しく知らずとも。
それでも。いや、それだからこそ。
選ばれし家の選ばれし人間として生まれたことが、ウジェーヌは誇らしくてたまらなかった。
わかりやすい名誉と称賛を欲し、声高に憂国の士を騙る、無知蒙昧なる愚者ではなく。
真実、国家に仕える者としてあるべき姿。まさしくそれは、モールパ家の在り様である。
そう信じていた。
それなのに。
大事な預かり人形が目覚めてしまった。
それでは困る。困るではないか。
ウジェーヌはせわしなくあたりに視線をやりながら、扉をたたいた。
「はい。どなた?」
部屋の中から、テレーズの明るい声が返ってくる。
ウジェーヌは返事をせず、ふたたび扉をたたく。
「なぁに? ナタリーなの?」
くすくすと笑いながら、テレーズがやってくる。
「私を驚かせようとしているのね?」
「テレーズ。開けてくれ。僕だ、ウジェーヌだ」
テレーズの足音が扉前で止まったのを確認すると、ウジェーヌは小声でささやいた。
「ウジェーヌお兄様!」
テレーズの驚いた顔つきが扉から覗いたかと思うと、ウジェーヌはすばやく部屋にすべり込んだ。
ウジェーヌは後ろ手で扉を閉め、「静かに」と妹を咎めた。
「どうかなさったの?」
テレーズは兄の奇行に目を丸くした。
「まるで忍んでいらしたみたい」
そう言うと、テレーズは自身の言葉に笑い出した。
「恋しい方の部屋にこっそり忍び込む、そのような恋物語を以前読んだことがあるけれど。ウジェーヌお兄様ったら、よっぽど私に会いたかったのね」
「僕ときたら、どうもそうらしい」
ウジェーヌは肩をすくめた。
「なんてこと!」
テレーズは今度こそ仰天した。
ウジェーヌは優しい兄ではあるが、父ユーグに似て、神経質で気難しいところがある。
口数の多い方ではないし、冗談を言い交わしたことなど、ほとんど記憶にない。
モールパ家の嫡子としてかくあるべしと、兄が勉学に本腰を入れるようになってから、ますます近寄りがたくなった。
ウジェーヌとその他きょうだいとの間には、見えない壁がそびえるかのように感じられた。
「ウジェーヌお兄様、今日は本当に、どうなさったの?」
「まずは座りたまえ」
ぱちぱちと目をまたたかせるテレーズの背に、ウジェーヌは手を当て、椅子へと座らせた。
「テレーズ、君に相談があるのだ」
テレーズのはしばみ色の瞳の中で、兄ウジェーヌが淡い水色の瞳を細めて、ほほえんだ。




