閑話 太子の座を追われた王子と、その婚約者の別離(2)
自室に戻り、椅子に腰かけたジークフリートは、ぼんやりと室内を見渡した。
そして立ち上がり、壁にかけられたフランクベルト家の旗を乱暴な手つきで剥がし取った。
「私の血は赤く、もはや魔力はない」
ジークフリートは旗に顔をうずめ、うめいた。
「あなたの夫として、ふさわしくないのだ……」
そこへ扉の外から衛兵のはり上げる声が、ジークフリートの耳に届いた。来客だ。それも女。
衛兵の告げる名のうち、固有名に聞き覚えはない。一方で家名に聞き覚えは、ありすぎるほどにある。
己の家名フランクベルトに次いで、馴染みのある家名。メロヴィング。
こんな時間に、なぜ。いぶかしみながらもジークフリートは、来客の入室を許可した。
驚くことに、女は一人だった。夜分に女が一人きり、王子であるジークフリートのもとへ。
「ミュスカデ様のお言いつけで参りました」
ジークフリートの私室に、女が一人で辿り着くことのできた理由が、これであきらかになった。
女はミュスカデに仕える扈従だった。女の主であるミュスカデが帰りしなに、なにがしかの理由でこの女を置き去り、ジークフリートの扈従か衛兵にでも言づけたのだろう。
ミュスカデの扈従を名乗る、見覚えのない女。
ジークフリートは片肘をつき、扉前に立つ女を見下ろすようにして眺め、その言い分を黙って聞いた。
女はメロヴィング家庶流の女で、子供を産めない体であることを理由に、夫から離縁され生家に出戻ったという。
だが、生家はすでに兄夫婦が継いでおり、義姉が女をうとんじた。そのため女は生家を出て、メロヴィング宗家のミュスカデのもとへ、最近扈従として仕え始めたばかりなのだと。
「私は子が産めません」
女は言った。
「どうぞ殿下のお気晴らしに」
ジークフリートは目の前の女を凝視した。
目の前で起きたことが信じられないようで、彼は驚きに目を見開いていた。
「あの……殿下?」
おそるおそる、女がたずねる。
「ミュスカデは、私がそのようにしたところで、かまわぬということか」
ジークフリートはそうつぶやくと、突然大声をあげて笑い出した。
「そうか! そうだったな! 過去にも彼女は私に、他国の姫を正妃とするよう言ったのだったな!」
「おそれながら、ミュスカデ様は殿下のためを想って――」
女は慌てた様子を装い、ジークフリートへとにじり寄った。
女の声には、あきらかな媚びが滲んでいた。
ジークフリートは伸びてきた女の手にふれぬようにして片手を挙げ、女を静止させた。
「悪いが、帰ってくれ。たとえミュスカデに望まれようと、私があなたを慰みの相手にすることはない」
ジークフリートは女を気遣うようにほほえんだ。
「あなたでなければよいということではないので、他の女性もよこさぬよう、あなたの主人に伝えておいてくれ」
ジークフリートを思いとどまらせよう、その気にさせようと、女は言葉を尽くした。果てには衣服を脱ごうと手までかけた。
たがジークフリートは取り合わず、扉外に立つ衛兵に向かって声をはり上げた。
ジークフリートの求めに応じ、衛兵が板金鎧を耳障りにガチャガチャ鳴らしながら入室する。
「彼女をメロヴィング公の館まで送るように」
ジークフリートは扈従に一瞥もくれず、衛兵に命じた。
「かしこまりました」
主の命を受けた衛兵が、退出の気配を見せない扈従の腕を乱暴に引いた。
「まいるぞ」
衛兵と扈従。二人が揃って退出していく。
名残惜しそうにジークフリートを見つめて礼を言う女に、ジークフリートの関心はもはや残っていなかった。
「そうか――。私は愚かにも、この舞台を恋人たちの悲劇と信じ、実のところは喜劇を一人、踊っていただけだったのだな」
誰もいなくなった部屋で、ジークフリートは笑った。
「滑稽だな」
ジークフリートがひそかに敬愛していた父王ヨーハンも。
ジークフリートが幼き頃、その裏切りに傷つけられた母王妃マリーも。
ジークフリートが心から愛するただひとりの女性ミュスカデも。
ジークフリートが重荷から逃れることなく責を負い、憂い慈しむ民も。
結局のところ誰もが、弟レオンハルトを選ぶ。ジークフリートではなく。
ひとしきり笑うと、ジークフリートは大きく息を吐き出した。そして彼は、「もし、人生にやり直しがきくのなら」とつぶやいた。
ジークフリートは呼び鈴を振り鳴らし、近くに控えているだろう扈従を呼んだ。
「ワインを」
主の求めに応じ、扈従はすぐさまデキャンタと杯を手に戻ってきた。
それらを受け取ってすぐに、ジークフリートは扈従を退室させた。
ジークフリートの足元には、彼が投げ捨てたフランクベルト家の旗があった。丸まったそれを足でよけ、彼は改めて壁を眺めた。
旗が剥がし取られ、むき出しになった壁。そこには、くっきりとした色の違いがあった。
煤汚れでくすんだ壁と、何物からも侵されることのなかった壁。
「誰の事情も構うことなく、ひたすら己が心のままに」
ジークフリートは錫の杯にワインを注ぎ、一息に飲み干した。
◇
「そうか。ご苦労だった」
帰館したミュスカデの扈従を、クロヴィスがねぎらう。
「ジークフリート殿下はやはり、受け入れられなかったか」
「力及ばず、申し訳ございません」
女は屈辱に唇をかんだ。
「いや。そうなるだろうとは予測していた」
クロヴィスのきっぱりとした口ぶりに、女は顔をあげた。
何かを問いたげな女の顔つきに気づいたクロヴィスは「おまえが力不足だというのではないよ」と慰めた。
「殿下は生真面目な方だから」
そうではない、と女は思った。
そういうことではないのだ。
ジークフリートもクロヴィスも、女が傷つかぬよう、優しげな口ぶりで女に言い含めた。だが女にとって重要なこととは、まるきり的を外している。
持参金をたっぷり持って嫁いだ男には石女をうとまれ、離縁された。今度こそ、石女である自身を生かせるかと身を差し出せば、さりとてまた拒まれる。
これではつまり、女としての価値、魅力を一つも持たぬ女であるとの証ではないか。
この世に存在することを許されるには、そのための価値、つまりは生の対価を支払うべきであるはずなのに。
「妹には明日、おまえがジークフリート殿下のお手つきとなったと伝える。明日以降は妹に近寄らぬよう」
だがクロヴィスは、女の惨めな心地には気がつかずに続けた。
「承知いたしました」
女はドレスの裾を握りしめ、うなずいた。
「おまえには約束通り、じゅうぶんな持参金を持たせ、後妻として嫁がせてやろう」
クロヴィスは女をいたわるように、優しく言った。
「家格はもちろん、穏やかで人柄がよいと評判の方だ。彼の嫡子も既に成人しているから、子を産むよう求められることもない。安心しなさい」
「ありがとうございます」
女は礼を述べ、静かに退室した。
女が出ていくと、クロヴィスはフランクベルト家から預かった衛兵のもてなしについて、考えを巡らせた。
第一王子私室護衛を当直していた衛兵。ジークフリートが律儀にも、女へと付き添わせた衛兵。
今宵に先立ってクロヴィスが声をかけ、抱き込んでいた衛兵。
彼には礼を弾まなければならない。彼がクロヴィスの企てたことに不審を抱かぬよう、この館でしばし心地よく過ごしてもらわなければ。
あからさまなジークフリートへの口止め料というのではなく、彼のジークフリートへの忠誠や同情をくすぐるような、そんなやり方をつらぬかなければならない。
衛兵は弟王子によって太子の座を追われたジークフリートに、ひどく同情していた。
王位を譲るばかりでなく、最愛の婚約者まで弟レオンハルトに譲ることを望まれた兄王子ジークフリート。
耐え難い夜の慰みに、適当な女をあてがうことは、傷ついた男につかの間の逃避と癒しを与えるだろう。そのように衛兵を言いくるめたのはクロヴィスだ。
今頃衛兵は、不安と後悔にさいなまれていることだろう。
なにしろジークフリートは、けんもほろろに女を拒んだのだ。
ジークフリートの潔癖さを考えれば当然の帰結であったと、衛兵はうろたえているに違いない。
それだからクロヴィスは、衛兵が不安のままにジークフリートへと余計な告白をせぬよう、彼の心が穏やかなるよう、再度説得し、彼のジークフリートへの忠義とそれゆえの行動を肯定してやらねばなるまい。
だがそれまでに、すこしだけ休ませてほしい。
クロヴィスは壁を見上げた。
そこにはメロヴィング家の旗が掲げられていた。
赤地に青い一本線の旗。
上底中央から下底左端へと、青い一本の斜線がまっすぐに引かれる、メロヴィング家の旗。
「今はつらいだろうが」
クロヴィスは王宮から帰館以降、部屋にこもりきりの妹ミュスカデを思った。
「未練なく別離させることが、ついには二人のためになる」
そのはずだ。
「そうでしょう、父上」
クロヴィスの問いかけに応える声はなく、彼は両手で顔を覆った。
クロヴィスの片方の手には、白い絹のハンカチが握りしめられていた。
垂れ下がったハンカチの端に、密集した亜麻色の刺繍糸、その合間にはところどころ、黒や黄色の刺繍糸が見えた。
いつの日だったか、ミュスカデが兄クロヴィスの修学を称えて贈った品だった。
刺繍の意匠は両翼を大きく広げた鷲。メロヴィング家の象徴だ。
真実と正義を求めるメロヴィング家。その嫡男クロヴィス。
だが今日、彼がしたことといえば、卑劣で陰湿な謀略にほかならない。
メロヴィングとは真逆の性質である、ヴリリエールの人間がごとく振る舞いだ。
他の誰でもない、クロヴィス自身がよくわかっていた。
(閑話 「太子の座を追われた王子と、その婚約者の別離」 了)




