閑話 太子の座を追われた王子と、その婚約者の別離(1)
「あなたとの婚約は白紙に戻す。メロヴィング公も承知だ」
ジークフリートは顔色を変えず、淡々とした口調で告げた。
覚悟をしていたのだろう。
ミュスカデもまた、淑やかな彼女らしく、たおやかにほほえんだ。
「かしこまりました」
「――あなたには、これまで大変に尽くしていただいた」
それまでどんなときでもミュスカデから目をそらすことのなかったジークフリートが、うつむいた。
「私の不甲斐ないばかりに、このような迷惑をかけることとなり、申し訳ない」
「いいえ、ジークフリート様。わたくしは、あなた様とともにあった時間が、なによりも幸福でございました」
ミュスカデはジークフリートへと詰め寄った。
「迷惑だなんて、そのようなことがございましょうか」
彼女の声に、うるんだ瞳に。熱が帯びる。
「そのようにおっしゃるのなら、もし、ジークフリート様がわたくしを――」
ジークフリートは「いけない」とミュスカデの肩に手をおき、軽く押し戻した。
「私達はもう、そのような距離にあってはならない」
ジークフリートの手が、ミュスカデの肩から離れた。
ミュスカデの華奢な肩を覆う、繊細なレースが揺れる。
ジークフリートの手は、かたく握りしめられていた。
「……はい」
ミュスカデはうつむいた。
「しつれいいたしました」
「いえ」
ジークフリートもまた視線を落とした。
「改めて、このたびはご愁傷様にございました。ヨーハン先王陛下の御魂が、神の御許にありますよう」
ミュスカデは胸の前で両手を重ね、先王ヨーハンのために祈った。
祈りの形を解いたミュスカデの手が、ジークフリートの手の上にのる。
ジークフリートがぴくりと手を動かした。
「ジークフリート様が、ヨーハン先王陛下を慕っていらしたことは、存じております」
ミュスカデはせき込んで言った。
ジークフリートは結局、ミュスカデの手を振り払わなかった。
「あなたの言う通りだ」
ジークフリートはミュスカデにほほえみかけた。
「父と私は、王族でありながら、卑しく、呪われた固有魔法の担い手であったから」
苦渋を感じさせるジークフリートのいびつなほほえみを見て、ミュスカデは手に力をこめる。
「しかし、それでさえ失った今は――」
ジークフリートはミュスカデから、ふたたび視線をそらし、青白い月を見上げた。
静寂があたりを包みこんだ。
回廊には柱の影が長く伸び、ジークフリートが羽織る青いビロードのケープには、月明かりと柱の陰とが落ちた。
彼の横顔と、ケープを留める金細工、その獅子の横顔は、青白い月光で浮き上がっている。
しばらくすると、ジークフリートはミュスカデへと向き直った。
「レオンハルトはよき王となるだろう。民から慕われている」
ジークフリートは、彼が元婚約者を見るときの常であった、おだやかな顔つきに戻っていた。
「レオンハルト殿下は、トライデントの戦における英雄ですものね」
ミュスカデが同意する。
「ああ。気難し屋の私が王となるより、弟が王となれば、熱狂的な歓声に国中が沸くことだろう」
ジークフリートがめずらしく、あからさまな自嘲を口にする。
ミュスカデはジークフリートの碧い双眸を見つめた。
そこには冷酷そうな女の顔が映っていた。
たおやかで優美と讃えられることの多い、メロヴィング公女ミュスカデ。
しかし元婚約者の前に立つ彼女の顔つきは、寛大な慈母というよりも、裁きの目を持つ厳母のようだった。
法の番人。公平なる裁きの担い手、メロヴィング家。
ミュスカデもまた、メロヴィングの娘だ。
「ものごとの表しか知らされない民は、ジークフリート様をレオンハルト殿下のようには好まないでしょう。それが道理です」
ミュスカデの厳しい顔つきが、やわらぐ。
「けれど、『気難し屋』なジークフリート様が、どれほど民を思われているか。その慈愛と熱き信念において、レオンハルト殿下はもちろん、建国王や、そのほか伝説上のどのような英雄にも劣ることがないことを、わたくしが存じております」
「ありがとう」
ジークフリートはほほえんだ。
長き付き合いの元婚約者のほほえみに、ミュスカデの勇気が奮い立った。
「ジークフリート様がもし――」
「あなたには、その寛大さをもって、我が国の慈母となってほしい」
ジークフリートはミュスカデをさえぎり、言った。
「そしてあなたの英明でもって、弟を助けてやってほしい」
ミュスカデの手をそっとはらうようにして、ジークフリートは手をおろした。
ジークフリートの手を追うようにして、未練がましく、ゆっくりとミュスカデの手がおりていく。
ミュスカデはうつむいた。
それから彼女は、その細い手を腹の前で組み合わせた。
「かしこまりました」
ミュスカデはうなずく。
「けれど」
勢いよく顔を振り上げるミュスカデに、ジークフリートは目を見開いた。
「レオンハルト殿下には、すでに最愛の寵姫ナタリー様がいらっしゃいます」
ミュスカデの細い指が、鬱血するほどの強さで、きつく絡み合う。
「そしてレオンハルト殿下が、キャンベル家のナタリー様を側妃に迎えることは、おそらくかなわないでしょう」
「それはそうだが」
ジークフリートは嘆息した。
「だから私が、弟の代わりに彼女を娶るべきだと?」
「そうです。そして、レオンハルト殿下の妻にわたくしが」
ミュスカデは必死に言い募る。
「そうすれば、ジークフリート様とナタリー様、レオンハルト殿下とわたくしでそれぞれ法的な夫婦を装い、真実の夫婦は別に――」
「それはあまりに、不誠実だ」
ジークフリートはきっぱりと断った。
「いいえ! 不誠実ではございません!」
声を張り上げるミュスカデの目には、涙が浮かんでいたが、力強い意志がみなぎっていた。
「真心はそれぞれが、ほんとうに愛する者にだけ捧げるのです! 皆が幸せになれるはずです!」
「はかりごとは、どれほどたくみに隠そうとも、いずれ暴かれる」
ジークフリートはうなずかなかった。
「父母と同じ轍を踏む気はない」
ミュスカデは声もなく泣いた。
絶望に染まった元婚約者の瞳。そこから涙が、とめどなくあふれては流れ落ちる。
涙にぬれる頬へと、ジークフリートは手をのばした。
ジークフリートの指先がミュスカデの頬に触れる。
ミュスカデの瞳に、希望の炎がともる。
ジークフリートはうつむき、目をつむった。
愛する女の涙で湿った指先。ジークフリートは握りこぶしの中に、ミュスカデの涙、その名残りをしまいこんだ。
あまりに力強く握ったので、彼のこぶしはぶるぶると震えた。
「では」
ジークフリートはミュスカデに背を向け、きびすを返した。
ミュスカデは棒立ちでジークフリートの背を見送った。




