62 持てる者と持たざる者(2)
「名はフィーリプ。第四王子だ」
自身の黒くうねった髪をつまみ、フィーリプという青年はフランクベルトの言葉で名乗った。
「そしてこちらは兄の第三王子ハンス」
フィーリプは、体を斜めに向け、背後の兄ハンスをトリトンに紹介した。
ハンスはトリトンに一瞥もくれなかった。
岩を思わせるゴツゴツと無骨な顔つきに体つき。武人らしいたたずまいのハンスは、あきらかに不機嫌な様子だった。
英雄トリトンを前に、気圧されるのでも阿るでもないハンスに、トリトンは内心好感を抱いた。
この青年ならば、彼の率いる部隊のいずれかで従騎士をさせてやってもいい、とさえ思った。
一方でフィーリプという青年は、やや軽薄な調子で油断がならない。
それだけならば、エノシガイオスと縁深いリシュリュー家のヴィエルジュにも、似たような性向はあった。
だが目の前の青年からは、なんの経験も裏打ちもない、実の伴わない無知な傲岸不遜さが感じられた。
生死が一瞬で決まる戦場で、自軍の兵を率い、敵兵を倒し。数多の兵を見てきたトリトンだからこそ、わかる。
フィーリプという青年は、信念や理想といった、真摯に打ち込む己の核を持たざる者だ。
信用に値しない、企みごとを共有するには危うい人物だ。
「たずねてもよいか」
トリトンはしかし、目下会話が成り立つフィーリプへと、フランクベルトの言葉で問いかけた。
「なにをだ?」
フィーリプは口の端をゆがめた。
「フランクベルトの王子であり、ヨーハンの息子であるはずの、おまえがなぜ。とでも問われるのかな?」
トリトンは口をはさまず、フィーリプのしゃべるがままに任せた。
フィーリプのような人種は、得意げに自説を披露することが好きなのだ。おしゃべりの舞台を与えてやれば、こちらが何もしなくても、勝手に自滅する。
「王の子が玉座を欲して父王に謀反を起こすことなど、過去に幾度も繰り返されてきたことだ。珍しくもない」
フィーリプはぺらぺらと上機嫌でおしゃべりした。
トリトンは視線をフィーリプからハンスへと移した。
「母を王太后にする」
トリトンの視線を受け、ハンスは口を開いた。
「そのためだ」
「そうか」
トリトンはハンスの端的な答えに納得した。
愛のためなのか。
それならば理解できる。政治にさほど興味のなさそうな彼ら二人が、敵将トリトンと一時、手を結ぶことに。
フランクベルトの王子がエノシガイオスの公子を自国の宮廷中枢へと手引きする。その真の意味を、彼らは理解できていないようではあったが。
「そのためにも、ヨーハンが持つ王冠と、長持にしまわれた古い長剣を持ち出し、我らに渡せ」
フィーリプは得意顔で、トリトンに指図した。
「それが条件だ」
「承知した」
トリトンはうなずいた。
王冠に古い長剣。
おそらくそれらが、フランクベルトの王たる証なのだろう。
敵国の次期君主に、自国の重要機密をやすやすと打ち明けるとは。トリトンは目の前の王子ふたりを気の毒に思った。
彼らは王位継承者たる王子としての教育を施されていない。
彼らの稚拙な交渉から判明する浅慮によって、それは明らかだ。
マリーの息子である、フランクベルト王太子ジークフリートであれば、こうも容易に、トリトンの都合いいように話を運べまい。
だが彼らはリシュリューの血脈を継がない。
マリーの関与しないフランクベルト家の父子関係について、トリトンが口出しすることではない。
悪く思うな。トリトンは胸中で詫びた。そなたらの母を王太后にはできぬ。
そこに座するべき人物は、すでに決まっているからだ。リシュリュー家のマリー。エノシガイオスの血脈を汲む、トリトンの長年の恋人。
長く温めていた企てが効を奏し、いずれエノシガイオスの版図は広がるだろう。
たとえこの首が討ち取られようとも。
「母と、もうひとりの兄ルードルフは、ヨーハンを殺すな、と言っていたが」
フィーリプは笑った。
「殺せばいい。存分に恨みを晴らせよ」
ハンスはしかめつらで、沈黙をつらぬいた。
この場においてヨーハン討伐に乗り気であるのは、トリトンとフィーリプの二人に限られるようだった。
◇
ヨーハンの構える長剣が、トリトンに向かって震えている。
トリトンは槍で叩き落した。長剣は、あっけなく床に転がった。
「うっ」
手放した長剣と同様に、ヨーハンが床に膝をつく。
屈みこむ巨大な頭には、フランクベルト王たる証の冠。
ハンスにフィーリプというフランクベルト王子たちが、トリトンに戦利品として所望した品だ。
まるで道化だ。トリトンは戸惑った。
トリトンによる打撃は、ヨーハンの手を直接打ってはいない。
ヨーハンの醜態の主なる原因は、慣れぬ剣をかまえたことだろう。手が痺れ、身体の融通がきかないのだ。
妻や息子、臣下からの信頼。そして尊厳に力も、何もかもを持たざる王。
これほどまで哀れな者から生命までも奪うことは、強者としてあってはならぬ姿なのではないか。
なにごとにも誇り高く、公正であるべく己に課してきたトリトンにとって、ヨーハンの惨めな姿が、彼の矜持に疑問を呈した。
だかしかし。トリトンの脳裏に、失った部下たちの最期が蘇った。
打ち壊され、焼き払われ、血にまみれ。勝利の証として、あちらこちらにフランクベルトの旗が揚々と掲げられ。
無敵の要塞であったはずのトライデントが、無残にも打ちのめされた姿。
それらは決して消えぬ烙印として、彼の記憶に刻まれていた。
屈辱と憤怒と憎悪。激情がふたたび呼び起こされた。
それに、トリトンには息子がいる。
彼と彼の愛しいマリーの間に生まれた、エノシガイオスの希望を託す子が。
フランクベルトの地を、いずれエノシガイオスの手中とするはずの、息子メリケルテス。
父を裏切り、あまつさえは生命すら狙うような、愛も智も義もない息子ではなく。愛と勇と信頼に足る息子を、トリトンは持っていた。




