57 唯一の友(1)
ときはさかのぼり、エノシガイオス公国との開戦が秒読みとなった頃。
火蓋が切られる前に、ヨーハンは急ぎ、ヴィエルジュをリシュリュー侯爵領から王都へと呼び寄せた。
ヨーハンの指示した密会の地は、フランクベルト家がかつて居城としていた、西の塔。
雪の降り積もる石造りの砦は、いかにも寒々しい。
あたたかなリシュリューの地から馬を走らせ、馳せ参じたヴィエルジュは、身体を震わせた。
ヴィエルジュの同伴者は、一人だけだった。
城門を抜けると、ヴィエルジュらは馬から降りた。二人の乗ってきた馬を繋いでくるよう、ヴィエルジュが扈従に指示する。
扈従が去れば、ヴィエルジュを待ち構えるのは、ヨーハンただ一人。
王らしい威厳もなにもなく、肥満体の中年男が、防寒用の毛皮のマントを身体に巻きつけ、のっそりと立っている。
「客人を招きながら、この歓迎ぶりはいかがなものかと思いますよ、ヨーハン」
ヴィエルジュは肩に積もる雪を払い落とし、マントを脱いだ。
城の主ヨーハンを置いて、客人ヴィエルジュは城内へ、すたすたと歩き去る。
ヨーハンはしばらくその場に留まり、ヴィエルジュの扈従が城内に入るのを見届けた。
それから棚の上の手燭をつかみ、緩慢な動きで、ヴィエルジュを追った。
ヨーハンの背後で堅牢な鉄の扉が、重そうな音を立てて閉まった。
「それとも私は、あなたにとって、それほど重要人物ではないのでしょうか。親友だと思っているのは私一人」
ヴィエルジュは、追いついた扈従にマントを手渡した。
振り返れば、ヨーハンは扈従よりずっと遅れ、十歩ほど離れたところにいる。
ヴィエルジュは腰に手を当て、立ち止まった。
「片思いとはかくも切なく、悲しいものです」
ヴィエルジュは芝居がかった様子で、首を振った。
「おまえの口は、あいかわらずよく回るな」
ヨーハンは肩で息をしながら、両手を広げた。
「よく来てくれた、ヴィエルジュ。我が友よ」
男二人は、再会の抱擁を交わした。
ヴィエルジュの扈従は、抱き合う貴顕二人に向かって礼をした。
彼は主のマントを抱え、誰に指示されることなく、すぐ手前の部屋へと消えた。
そこが使用人たちに与えられた控えの間であることを、扈従は知っていた。
彼は彼の主とともに、これまで幾度となく、この廃城へ訪れたことがある。
「おまえの言う通り、もてなしはできぬが、うるさい外野はおらぬ」
ヨーハンは重い身体をゆっくり動かし、手燭で回廊を照らした。
「他人の視線を気にせず、愛する友と過ごせる時間ほど、贅沢なものはあるまい」
松明掛けが途絶えたところ、その目の前の部屋へと、ヨーハンが先導する。
ヴィエルジュも、すぐあとに続いた。
ヨーハンは、燭台の並ぶテーブルの上に手燭を置き、両手をついた。小山のような王の背中が浮き上がる。髭で覆われた口元から、「ふぅ」と大きな息が吐き出された。
それから王は、丸太のように太い足をどうにかして持ち上げた。
とたん、王は「ううっ」とうめく。足を攣ったのか、太い足をなでさすっている。
「おお、苦しい」
ヨーハンは石造りの冷たい椅子に、やっとこ腰掛け、荒い呼吸を整えた。
「年々、身体が思うように動かぬようになる」
「ヨーハンこそ、王となってから、ずいぶん口が回るようになった」
ヴィエルジュは華奢な身体で、ひょいと椅子を飛び越え、座った。
「それにひきかえ身体の方は、王となってから、ますます回らぬようだ。貫禄が増しすぎです。摂生をなさい」
「何を言う」
ヨーハンは恨めしげにヴィエルジュを睨めつける。
「園芸まで奪われた余が、食以外の何に楽しみを見い出せばよいのか」
「運動でもされてはどうです。まずは散歩から」
ヴィエルジュは冷たく返した。
「レオンハルト殿など、あなたの息子とは思えぬほど、血気あふれていらっしゃる」
「あれは余の息子ではあるが、エノシガイオスの血が濃く出たのであろう」
ヨーハンはぽつりと言った。
王ヨーハンの表情は、誇らしげでもあり、寂しげでもあった。
一方で、エノシガイオスに縁深いリシュリュー家のヴィエルジュは、露骨に嫌悪を示した。
「やめてください」
ヴィエルジュはぴしゃりと拒絶する。
「もしレオンハルト殿が、本当にエノシガイオス贔屓になられるのであれば、私は決して、彼に協力いたしません」
「リシュリュー宗家の嫡男ながら、おまえはエノシガイオスに染まらないのだな」
ヨーハンは疲れた目で、親友を見上げた。
「おや。ヨーハンまで、私の道化に惑わされるつもりですか?」
ヴィエルジュは大仰に嘆いてみせた。
「親友のヨーハンならば、私の本心を見誤ることはないと信じていたのですが」
「信じている」
ヨーハンはうつむいた。
「信じるからこそ、余はおまえに託すのだ」
髭に隠れて、ヨーハンの幾重にも重なる顎肉が揺れた。
二人の間を窓からのすきま風が吹き付け、燭台の炎のひとつが消えた。
丸くくり抜かれた窓を塞ぐ板は、丁寧な仕事ぶりとは、とても呼べない出来だった。
不均一な板の並びを目にして、ヴィエルジュは口元がほころぶ。
ヨーハンがひいひい言いながら、壊れた鎧戸に修繕の板を打ちつける姿が、目に浮かぶようだった。
それはきっと、ひとかけらの疑いもない、ヨーハンからヴィエルジュへの友情だ。
ヴィエルジュの、唯一の友。ヨーハン。




