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55 愛らしいオールドローズ




 ヨーハンは庭師にならい、庭園の草花を剪定(せんてい)していた。

 園芸好きな王太子ヨーハンに与えられた、彼だけの小さな庭園。


 ヨーハンが彼の私的庭園に選んだのは、小さな白いつるバラだった。

 ほかには、薄紅色の花弁が幾重にも重なるもの。

 白い一重の花弁に黄色い花芯の素朴なもの。

 花弁の先端がフリル状になったシャーベットオレンジの、可憐な品を感じさせるもの。


 愛らしいオールドローズを、ヨーハンは好んだ。


 ヨーハンはしおれ始めた花を見つけては、その茎の半分あたりに(はさみ)を入れ、切り落とした。

 咲き終わった花をそのままにしていては、養分がそちらにいってしまい、次の花が咲きにくくなる。

 しおれた花弁から病気になったり、虫がついたりする。

 見た目だって悪い。


 (おの)が手でみずから育てた、これらの愛らしいバラを、ヨーハンは心から慈しんでいた。

 美しくない自分が、美しいものを育てることができる。生み出すことができる。


 庭園で咲き誇るバラを眺め、芳香を胸いっぱいに吸い込めば、陰鬱な心は満たされた。


 ヨーハンがせっせとバラに手を入れていると、リシュリュー家の兄妹がやってきた。

 兄ヴィエルジュ。その妹マリー。


 ヨーハンには、二人のほかにも、年の近い幼馴染がいた。

 しかし、ヨーハンが親しくつき合うことができたのは、リシュリュー家のヴィエルジュ。それからヴリリエール家のアンリくらいだった。


 年の差に関わらず、賢愚(けんぐ)に関わらず、美醜(びしゅう)に関わらず、身分に関わらず。

 ほかの何にも関わらず、女とはうまく話せなかった。緊張で体中から汗が噴き出した。

 かといって男ならば誰とでも、うまくつきあうことができたか。といえば、そうではなかった。


 ガスコーニュ家のアルヌールは大柄な体躯の、やや粗暴な少年で、ヨーハンを委縮させた。

 アングレーム家のブノワは、ヨーハンとは折り合いが悪い父王アルブレヒトに心酔していた。

 エヴルー家のロベールは卑屈に過ぎ、ヨーハンのような鈍重王子にまで媚びへつらうさまが、哀れでならなく、見ていられなかった。


 メロヴィング家のオーギュストとオルレアン家のセザールは年が離れすぎていた。

 友というより、教師のようだった。


 かわって、リシュリュー家のヴィエルジュは、神々しいくらいに美しく、ヨーハンとはまるで逆だった。

 ヴリリエール家のアンリは、ふっくらとしたヨーハンとは逆に痩せこけていたが、ヨーハン同様に容貌に優れなかった。


 ヴィエルジュとアンリとでは、まるで異なる容貌と性向だった。

 だがヨーハンは、彼らと奇妙に気が合った。


 ヨーハンにとって友といえば、ヴィエルジュとアンリの二人だった。

 当のヴィエルジュとアンリ同士の相性は悪かったので、三人で集うことは、ほとんどなかった。



「ヨーハン殿下!」

 ヴィエルジュが、つるバラのアーチの向こうから、大きな声でヨーハンを呼んだ。



「よくきた」

 ヨーハンは花がら摘みの手をとめた。


 美しい兄妹が、笑顔でヨーハンに手を振るのを見て、ヨーハンは照れくさそうにはにかんだ。

 ヨーハンの手が、ぎこちなくあがる。

 中途半端に曲がったり伸びたりする指が、小刻みに震える。


 ここに来たのがヴィエルジュだけであれば、あがり症のヨーハンとて、これほどぶざまな出迎えはしない。

 王太子らしい威厳とまでは言えずとも、それなりに応じられたはずだ。


 しかし。



「ヨーハン殿下、おくつろぎのところ、失礼いたします」

 ヴィエルジュの妹マリーが、ドレスのすそをつまみ、ヨーハンに膝を折った。


 元気のいい動作だったので、マリーの髪が飛びはねた。

 幾本もの細い編み込みを作り、それらをきっちりと束ねるフランクベルト風の、厳格な髪型ではない。

 細く編んだ髪で、残りの髪をゆるやかにまとめる髪型は、リシュリューの流儀なのだろうか。マリーによく似合っていた。

 波打つ黄金の髪は光を浴びて、きらきらと光った。



「――気にするな」

 ヨーハンはなんとか口にすると、シャーベットオレンジのバラに鋏を入れた。


 つぼみが今まさに開き始めたばかりという、みずみずしく可憐なバラ。

 不要な葉を落とし、すべての棘を落とし。指で茎をさすって、見落とした棘が残っていないか、じっくりと確認する。


 ヨーハンの園芸熱を、リシュリューの兄妹はよく知っていたので、王太子らしからぬヨーハンの奇行を二人は見守った。



「来訪の礼に」

 ヨーハンはうつむきながら、マリーへバラを差し出した。



「まあ!」

 マリーはバラを受け取ろうと、差し出されたヨーハンの手ごと、彼女の小さな手で包み込んだ。

「ヨーハン殿下、ありがとうございます」



 ヨーハンはなにも言わず、マリーがバラを抜き取るのを待った。

 王太子の手があいかわらず震えていることに、リシュリューの兄妹は見て見ぬふりをした。


 マリーがバラを抜き取ると、ヨーハンは胸をなでおろした。

 ヨーハンは横目で、マリーがバラを髪にさすのを見た。胸がいっそう高鳴り、頬がゆるんだ。



「あちらで休もう」

 ヨーハンは見渡しがよく、日当たりのいいベンチへとふたりを誘った。


 ガゼボのような屋根はなく、素朴な木製のベンチと、それに対となるテーブルがあるだけだ。

 テーブルの上には、果実酒と干しブドウにチーズがあった。

 庭いじりの前に、ヨーハンみずから用意した品だった。

 ヨーハンは扈従に、追加の杯と皿を持ってくるよう指示した。


 扈従の背中から視線を外すと、ヴィエルジュは干しブドウをつまんだ。



「先日聞いた話なんですが」

 ヴィエルジュが切り出した。

「あまり気分のよくない話です。私の胸にとどめ、ヨーハン殿下のお耳に入れるべきではないのでしょう。しかし――」


 ヴィエルジュは、彼の伝手で得られた事情について、ヨーハンへと報告を持ってきたらしかった。

 先月、リシュリューと縁のある国の人間が、ヴィエルジュの友ヨーハンをひどい言葉で嘲笑したらしい。

 ヴィエルジュはそれが我慢ならなかった。



「あいつら、ヨーハン殿下のことを『牛のように鈍重だ』なんて、ひどいことを」

 ヴィエルジュは悔しそうに眉をひそめた。

「あなたの英知やお優しさを、ちっとも理解していないのですよ。美しく着飾ることは得意でしょうが、彼らの頭の中は空っぽなのです」


「そのように他人を言うものではない」

 ヨーハンはヴィエルジュをたしなめた。

「それに余は、彼らの言う通り、たしかに鈍重であり、醜男だ」


「そのようなことは、決してございません。ヨーハン殿下」

 ヴィエルジュは悲しそうに友ヨーハンを見つめ、友の手を取った。

「あなたの瞳には、英邁(えいまい)な輝きがございます。まさしく建国王の理知がおありです。あなたは獅子なのです。牛ではございません」


「ありがとう」

 ヨーハンは各国使節に評された『鈍重そうな笑み』で、友ヴィエルジュに礼を言った。

「友の期待を裏切らぬよう、鈍重であっても、暗愚な王にはならぬ」



 王太子ヨーハンの頼もしい宣誓を聞き、ヴィエルジュが「その調子です」と嬉しそうに笑った。

 王太子ヨーハンと兄ヴィエルジュのやりとりを、しばらく黙って眺めていたマリーは、そこで口を開いた。



「国教のほかにも、リシュリューでは、お祈りする神様がいます」

 マリーは宝石のような碧い瞳で、ヨーハンを見つめた。



「そうらしいな」

 ヨーハンはうつむき、小声で応じた。


 美しい少女のまなざしに、すっかりどぎまぎしていたのだ。

 小心者のヨーハンは、いつものように内にこもり、会話にまったく乗り気ではないように見えた。

 こういったふるまいがヨーハンの評価を下げ、人を遠ざけ、求心力を低下させる一因であった。


 だが、マリーは気に留めず続けた。

「神様は一柱ではなく、たくさんいらっしゃいます」


「我が家の信仰について、突然語りだすとは、いったいどうした?」

 ヴィエルジュは怪訝そうにたずねた。



「黙ってお聞きください」

 マリーはぴしゃりと兄をはねつけた。

「なかでも天空の男神様、海の男神様、冥界の男神様は、三大男神様と呼ばれ、たいへん敬われています」


「冥界の男神か」

 ヴィエルジュはにやりと笑った。

「たしかに、ヨーハン殿下にぴったりのお方だ。さすがマリー。我が妹は機転が利く」


「冥界の男神様の容貌は、言及されることがほとんどありません。そのため多くのひとびとは、冥界の男神様は、それほど美しくないのだと考えています」

 うつむいたヨーハンの顔を、マリーが下からのぞきこむ。


 ヨーハンは仰天した。

 すっかり油断しきっていたところで、目の前に、神の御子のようにまぶしく美しい顔があらわれた。

 神の御子のように美しい碧眼が、自身の醜い顔を見つめていたのだ。


 マリーの美しさは、まるで神の御子のようであった。

 罪を正しく見極めるような厳格さと、罪を赦してくれる慈愛とが存在するような、天上の美しさだった。



「冥界とは、おまえたちの信仰において、死した人間の向かう地なのであろう」

 ヨーハンは陰気な顔つきを、さらに暗くさせた。

「そのうえ、醜男。まさに余に『ぴったり』だな」


「そういう意味ではありません」

 あわててヴィエルジュが訂正する。


 ヨーハンはテーブルに額がつきそうなほどにうつむいた。

 ヴィエルジュはヨーハンの肩に腕をまわし、「冥界の男神は、マリーの言った通り、三大男神のひとりです」と訴えた。



「偉大なる神で、我々の信仰において、重要な神なのです」

 ヴィエルジュは真摯に言った。



「おまえたちの信仰を愚弄するつもりはない」

 ヨーハンは小声で言った。

「だが、つまりは死神ということだろう」


「はい。冥界の男神様は、人の死をつかさどります」

 マリーはおびえるヨーハンへ、さらに踏み込んだ。

「死に至れば、誰もが等しく冥界へとまいります。すべての人間の魂を受け入れてくださる、救済と慈愛の、偉大な男神様。それが冥界の男神様です」



 ヨーハンは顔をあげた。



「まさしく、『ヨーハン殿下にぴったり』ではありませんか」

 マリーはほほえんだ。


 シャーベットオレンジのバラが、ゆるく編まれたマリーの髪の上で揺れていた。




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― 新着の感想 ―
ヨーハン、純愛だった……。 可愛らしいくらいにマリーに夢中じゃん……。
[良い点] うううう。ヨーハンよ。 君が愚鈍で横暴なだけの君主だったら、トリトン様を応援できるんだけどなあ。 でも、そういう単純に悪のみな人物は、このお話はいないだろうなあ。 実際の社会にも、そうい…
[一言] 画を見るような御作! 本当は『勉強になります!』にしなきゃいけないのに、『お勉強』は忘れ去って、ただただ楽しんでしまっています(#^.^#)
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