53 魔物狩り
にぎやかな晩餐会は、翌朝を迎える前に解散した。
時刻は深夜というよりは、明け方に近い。
とはいえ、太陽が水平線に顔を出すには、まだ早い。
晩餐会で提供されたかずかずの美酒美食。その残り香が、空間のあちこちへと侵入していた。
ひとが、堂々と横断するところへは、もちろん。
ひとが、およそ入れないところへも、また。
ひとが、こっそりと姿を隠すところへも、ついに。
宴の浮かれた余韻。
酒に肉、脂の匂いが、柱と壁の狭い隙間にひそむ、ローブ姿の男と理容師ふたりの鼻をかすめた。
夕飯を食いっぱぐれた彼らには、たいそう刺激的な匂いに違いない。
だが、すっかり静まり返った王宮では、いやがおうでも緊張が増し、彼らに空腹を忘れさせた。
「ここから先は、あなた様おひとりでお進みください」
理容師は慇懃に頭を下げた。
「銅板の在り処をお忘れではないですね?」
「ああ」
ローブ姿の男はうなずいた。
「ここまでの案内、感謝する」
男が前方へ体を向けたころには、理容師は姿を消していた。
回廊のまがりかど、理容師の去ったあたりで、ひとりの衛兵が床に伏している。
出血はない。
暗殺用の、細いガラス製のダガーを用いたのだろう。
細くもろい、鋭い切っ先は、刺した瞬間に折れる。
そして中央の管に注いであった即効性の毒とともに、体内に食い込む仕組みだ。
折れた刃が止血の働きをなすため、血は出ない。
透明で細いガラスの刃は、そこに刃が埋まっていると知らなければ、探り出すことは難しい。
鎧を着込んでいては、なおさらだ。
死因が判明せぬうちに、凶器が見つからぬうちに、ガラスの刃は人知れず、肉に、皮膚に、埋もれる。
おぞましく卑しい、暗殺者の剣だ。
男は、正々堂々と、騎士らしい戦いを好んだ。
かつての男であれば、このような卑怯者の剣を用いる輩との共謀など、必ずや拒んだであろう。
しかしいまや、卑しい職業である理容師と同輩。
汚らわしい暗殺者へと、彼は身を落とした。
すべては、愛のためだ。
手段を選ぶ余裕は、彼には残されていなかった。
さて。と、男は胸中でつぶやき、ローブの下の剣を握り直した。
目的の扉まで、等間隔で燃える、壁掛けの松明。
そのとなりに、衛兵。
壁に立つ衛兵は五人だ。
扉の前には二人。
全員が全員、チェインメイルを仕込み、その上から硬革と板金の鎧兜を被って、手には槍。
槍の刃はよく研がれているようで、刃の上で、松明掛けの炎が、いきいきと鮮明にゆらめいていた。
兜の視孔から覗く視界は狭そうだから、すばやく動けば、容易に倒せるだろう。
だが板金と槍がよくない。
衛兵が床に崩れ落ちれば、けたたましい音を立てそうだ。
当初の目標は、音もなく、誰に知られることもなく、全員を始末すること。
これは、手練れの男であっても難しそうだった。
そのうえ近頃では、わけあって鍛錬を怠っていた。
許される範囲で体を動かしはしたものの、貴婦人の散歩程度。
カンも筋力も、なにもかもが衰えているだろう。
しかたがない。
全身が鎧で包まれた兵を、棍棒なしで昏倒させることは、さすがの彼でも困難だ。
できうるかぎりすばやく、鎧の下を突き刺すほかない。
理容師のしたように。
深く息を吸い込み、男は「参る」とつぶやいた。
彼は影に紛れてすばやく移動し、一人目の衛兵に近寄った。
衛兵の被る兜の、その面頬を押し上げる。
衛兵が驚愕に口を開いた瞬間、口から脳天へと、刃を突き上げた。
「がは……っ」
衛兵が崩れ落ちる。
幸運なことに、衛兵は最期、小さくかすれた息を吐き出しただけだった。
どうやら、一番近くに立つ衛兵は、哀れな同輩の死に、まったく気がつかなかったらしい。
なんと間抜けな。
男は鼻で笑った。
浮かれた宴ののちだ。
警護を任された衛兵も、宴の参加者と同様に、気が抜けている向きもあるだろう。
あるいは、全身を鎧で覆うのをいいことに、立ったままで居眠りでもしているのか。
それとも警護に立つ前、しこたま酒をくらってきたのかもしれない。
衛兵の身体が床に叩きつけられ、けたたましい音を立てる前に、男はその体を片手で支えた。
力を失った衛兵が槍を手放す。こちらもまた、すんでのところで受け止める。
慎重に衛兵の身体を床に横たえると、背から手を抜き取った。
同時に、槍を回収する。
男はまた、次の衛兵へと狙いを定めた。
こちらも、音を立てることなく、うまくいった。
そして次。
しかし今度こそ、音もなく、というわけにはいかなかった。
三人目の衛兵は、なんらかの気配を察したのか。あるいは偶然振り返っただけだったのか。
男が懐へ忍び込んだその時、衛兵と侵入者の目が合った。
「貴様! どこから入った!」
衛兵は叫んだ。
と、同時に衛兵は槍をかまえた。
衛兵の名誉のために、記そう。
彼はすかさず、油断することなく、槍を構えたのだ。
だが、彼の咆哮は、ただちに絶命に途絶えた。
それまで注意深く、静かに、確実な致命傷を一突きするだけだった、ローブ姿の侵入者。
ここにきて彼は、派手な立ち回りで、衛兵の首を串刺した。
凶器は、衛兵と同輩の血を吸った槍。
青い鮮血が、勢いよく壁や床へと弾け、殺人という芸術を描く。
ローブ姿の侵入者――正体不明の殺人鬼は、飛び散った青い血を目にし、嫌悪をあらわにした。
「血が青いとは。おぞましいことだ」
殺人鬼は己の頬に、手を触れた。
指先をすべらせれば、生あたたかく、ぬるりとした青い液体。
「これが人間の身体を巡る血だというのか」
殺人鬼は、みすぼらしい上着で、指先の液体をぬぐった。
「これは、魔物の血だ」
殺人鬼の灰色のローブに、青い染みができた。
前へ向き直ると、彼は四人の衛兵に囲まれていた。
ひとりが剣をふるう。
殺人鬼の手から、槍が打ち落とされる。
「これで仕舞いだ!」
衛兵が勢いづく。
「動きが遅い」
殺人鬼は、衛兵らの背後に回った。
全身を重い甲冑に身を包む衛兵の動きは、彼の指摘どおり、緩慢だった。
彼はひとりの衛兵を蹴り倒す。
すると間の抜けたことに、衛兵は順々に重なって倒れていく。
がしゃん、がしゃん、と耳障りな金属音。
手前で倒れた衛兵の兜を蹴飛ばす。衛兵が腰に佩いていた長剣を奪い、それで首を一突き。
ごぽり、と貫かれた喉から水音が立ち、崩れ落ちる。
刀を抜けば、一匹が立ち上がりかけている。
おっと、いけない。
そいつを蹴り倒す。兜が外れる。こめかみを串刺す。呻いて、倒れる。
かと思えば、槍を杖がわりに、やっとの思いで立ち上がったらしい、別の魔物が巻き込まれる。尻もちをつく。
つくづく間抜けなやつらだ。
兜と鎧の間に、長剣を突き刺してやる。魔物らしい青い血が噴き出す。
残るは、あと一匹。
「貴様ァアアアアッ!」
槍の切っ先が、殺人鬼の頬近くをかすめた。
肉は切れなかったが、灰色のローブが破れた。
殺人鬼の顔があらわになる。
濃い黄金の巻き毛が、松明掛けの炎に照らされ、あかあかと輝く。
「貴様……い、いや、あなた様は、もしや……!」
衛兵がたじろぐ。
「おまえが最後だ」
殺人鬼は、死した衛兵が床に落とした槍を拾った。
「魔物狩りは、つまらぬ」
殺人鬼が、兜の視孔へと槍の切っ先をねじこむ。
「ぐわぁあああああ!」
衛兵は絶叫した。
衛兵がとっさに後退ったことで、槍の切っ先は眼窩から外れたようだった。
だが殺人鬼は槍を抜くことなく、さらに切っ先をぐりぐりとねじこんだ。そのまま突き上げ、兜が外れる。
目を潰され、赤い鮮血に塗れた衛兵の顔が、空気にさらされた。
「おまえは――貴君の血は、赤いのか」
殺人鬼は、驚いているようだった。
「この魔宮にも、赤い血を流す人間が、まだ存在していたのか!」
「ぐぅうううっ! な、なにをほざくか……っ!」
衛兵はうめきながらも、剣を両手で握り、殺人鬼へと向けた。
「赤い血を流す貴君は、騎士だ」
殺人鬼はほほえみ、槍を捨てた。
「ならば、名誉ある死を」
殺人鬼もまた、剣を構えた。
◇
侵入者の男は、扉の前に立った。
青と赤の絵の具が、扉というキャンバスに飛び散っている。
男は、ほっと息を吐きだした。
それから彼は、扉ちかくの壁をこぶしで叩いた。
あちこち叩いてまわる。すると、ある場所で音が変わった。
男は音の変わった場所で手を止めた。そこで手のひらを強く押し当てる。
なんの変哲もない壁。
しかし男がある一点を押せば、石が動いた。石は煉瓦ひとつ分の大きさだった。
これ以上奥には押し込めない、という場所まで石を動かす。
手を突っ込んだまま、男はせまい洞の中で、指先をあちこちに動かして探った。
男の大きな手では、動かすのに難儀したが、男の指先は、とうとう目当ての品を探し当てた。
太い指先を不器用に動かし、とうにか、銅板を抜き出す。
松明掛けの下で眺めてみれば、銅板には、男にはよくわからぬ紋様が描かれていた。
「子供騙しのらくがきに見えるが」
男は眉をひそめた。
「しかし、まあ、彼らの忠告を無駄にすることはあるまい」
気休め程度にはなるだろう。男は銅板を傷つけた。
すると銅板と剣先との間に、青い光が弾けた。
まるで刀を火にかざし、鍛錬するときのように。男の持つ剣と銅板は、内部から発光する様子を見せた。




