50 正しきこと
生まれながらの王ジークフリートとの対話。
その記憶はアンリにとって、いつ取り出しても甘美なものだった。
自制せねば、際限なく浸りきってしまう。
「アタシは、愚父から一族魔法を許可されずとも、真理にたどりつくことができた」
アンリは陶酔から抜け出し、つぶやいた。
「それだからアタシは、ヨーハンに協力した。おそろしい罪を――」
しばらく思い出の中にあったせいか、アンリは常より感傷的だった。
「無能を取り除くことは、我がヴリリエールの尊厳を守るのに必須です」
父アンリの両肩に置いた手に、ジャンヌは力をこめた。
「お父様は正しきことをなされました」
「そうです。正しいことをしました。しかし」
アンリは娘ジャンヌにもたれかかり、細く長く、息を吐きだした。
「アタシとしたことが、メロヴィング家のオーギュストに先を越され、ジークフリート殿下を奪われてしまいました。なんたる失態でしょう!」
「私がそのとき、お父様のお力になれるくらいに成長していたのでしたら、きっとお役に立ちましたのに」
ジャンヌは悔しそうに言った。
「もちろん、ジャンヌでしたら、そうしたでしょうね」
アンリはひとかけらの疑いなく、娘に同意した。
「あの愚母めが、お父様の邪魔などして」
ジャンヌは父アンリの肯定を得て、苛烈さを増した。
「そうでなければきっと、お父様は手筈どおり、ジークフリート殿下を我が家へとかくまうことが叶いましたわ」
今より十数年前のこと。
王宮では、愛妾として召し上げられたカトリーヌが側妃へと、その地位を確実にさせようとしていた。
彼女が、健康な男児をつぎつぎに産んだからだ。
正妃マリーも男児を産んだ。しかし、ジークフリートひとりだけ。
また正妃マリーは虚弱ゆえに、たびたび生家リシュリューで療養した。
療養のための滞在期間は長く、王宮にはめったに帰ってこなかった。
天資俊邁なジークフリートといえど、母を恋しがる情はあった。
王宮にて居心地の悪い思いを強いられていれば、なおのこと。
七忠は正妃の子であるジークフリートを大事に扱った。
一方で、七忠に反目する新興貴族は、側妃カトリーヌやその息子たちの取り巻きと化した。
フランクベルトの廷臣は、第一王子ジークフリートを旗頭とする七忠派と、側妃カトリーヌを旗頭とする新興貴族派とで分断していた。
幼いジークフリートは、母を慕うあまり、母王妃マリーの情事を覗き見てしまった。
彼は事の重大さを認識し、ただちに父王ヨーハンへと、母の裏切りを知らせた。
それこそが、ジークフリートが初めて固有魔法を発現させた、記念すべき日のことだった。
当時のアンリが、ヴリリエールの一族魔法によって見た未来。
それは、妻マリーの不貞を知った王ヨーハンが、怒り狂う姿だ。
そして王は理不尽にも、彼の息子ジークフリートを廃そうとする。
さて、ここから述べることは、アンリの推測に過ぎない。
ヴリリエールの一族魔法が見せるのは、不確定な情景だけだ。個人の心情まではわからない。
建国王がヴリリエールの人間だけに許す、いずれ来るやもしれぬ未来、あるいは警告。
一族魔法によって見えた景色を分析考察し、よりよい未来へと国家を導くため、王へと具申する。
それが、ヴリリエール家の伝統的な役割だ。
自身の固有魔法を「呪われた」と称し、魔法の断滅を望む、第十代フランクベルト王ヨーハン。
偉大なる建国王の直系子孫である現王ヨーハンは、リシュリューの毒蛾マリーに夢中であった。
そして王の幼馴染であるアンリは、王の顧問、扈従、その他の誰よりも、王の近くにいた。
王もアンリも、親子間の確執があった。
王もアンリも、美貌に恵まれなかった。
だからアンリは、王が親愛王と齟齬を起こすたびに寄り添った。
だからアンリは、王の報われぬ愛欲と渇望に同情した。
果てには、王殺しに親殺し、七忠殺しといった大罪にまで、手を貸した。
王とアンリは地獄をともにした共犯者だ。
そういった具合に、身近なる王の胸中について、予見を受けたアンリが推測したことは。
こっそりと人の秘密を覗き見るような、薄気味悪い固有魔法を発現した息子ジークフリート。
己自身の固有魔法さえ嫌悪してやまぬというのに、息子までもが厭わしい性質を引き継いだ。
母への信頼を失い、高貴な身上ながら、卑賎な固有魔法を発現させた、不幸な王子ジークフリート。
この哀れな息子を口止めできれば。
さすれば、王妃の裏切りを誰に知られることもない。
今ならば、まだ。
愛妻マリーを姦通罪で裁かずに済む。
王ヨーハンが真実そのように考えたのかは、アンリの知るところではない。
だが、きっと。
「あの女はメロヴィング庶流の出自でしたからね。アタシとしたことが、すっかり油断してしまいました」
アンリは娘ジャンヌのなぐさめを受け、弱音を吐いた。
予見によって、行く末を知っていたアンリは、すばやくジークフリート保護に動いた。
だが、アンリよりも先んじて、彼の計画を阻んだ者がいた。
その者とは、メロヴィング庶流の人間。
かつてアンリの妻だった女だ。
アンリが当主を務めるヴリリエール家。その双璧をなすメロヴィング家。
フランクベルト王国において、比類なき強権を誇る七忠だが、その中でも最も高位な、ふたつの名家。
それが、蛇のヴリリエール家と、鷲のメロヴィング家。
蛇と鷲の当主が対立を望まずとも、家門が大きくなればなるほど、周囲は身勝手に派閥をつくる。
つまらぬボヤ騒ぎも、放っておけば、大火事になる。
アンリの婚姻は、ふとした隙に反目しかねない大家同士の絆を、平和に築くために結ばれた。
そのはずだった。
「すべてはアタシの失態です。かつてジークフリート殿下を保護しそこねたことも」
アンリは疲れた様子で、嘆息した。
「アタシ達の予見能力の前に、ヨーハンが霧を仕掛け、それらを晴らせぬことも」
「先ほどのことは、八つ当たりです。すまないことをしましたねぇ」
アンリは、弱弱しい口ぶりで言った。
入室そうそう、娘ジャンヌを咎めたことについて、アンリは謝罪したのだ。
「まぁ、お父様」
ジャンヌは目元をやわらげた。
とはいえ、それがジャンヌのほほえみだと知るのは、父アンリくらいのものだ。
ジャンヌの糸のように細い目は、さらに細くなった。
「娘の私に対しては、いくらでも八つ当たりなさってよいのです。私だけはお父様の味方です」
「おお、ジャンヌ。真実、ヴリリエールの娘」
アンリは差し出された娘の手を取った。
「ええ、そうです。私はお父様に生き写しの、真なるヴリリエールの娘です」
ジャンヌが父の手を握り返し、枯れ枝のような父娘の手が合わさる。
「おいたわしいことに、ジークフリート殿下が毒蛾マリーの所業を目撃なさったとき。本来ならば、お父様へとジークフリート殿下が預けられるはずだったのでしょう?」
しゃれこうべに皮を貼りつけたようなジャンヌの顔が、激しい憤りで歪んだ。
「あろうことか、ジークフリート殿下の乳母であった愚母が、すかさずメロヴィングに密告するとは! なんと薄汚い売女でしょうか! 我がヴリリエールへと嫁いだ身でありながら!」
烈火のごとく怒るジャンヌに、父アンリは「もういいのですよ」となぐさめた。
「あの女はすでに罪を罰せられました。故人を責め続けるのはよしましょう、ジャンヌ」
アンリは引き出しから、折りたたまれたハンカチを取り出した。
灰色の絹が広げられると、そこには灰色の、乾ききった干し肉がふたつ載っていた。
父アンリがひとつつまみ上げ、娘ジャンヌが、もうひとつをつまんだ。
「汚物は始末せねば、ヴリリエールの、ひいては建国王の築いた尊き我が国の尊厳を守れません」
ジャンヌは怒りを腹におさめ、満足げに言った。
「お父様はやはり、正しきことをなされました」
父娘の手にする干し肉は、人間の耳の形に、よく似ていた。
「そうです。汚物は始末せねばなりませんねぇ」
アンリはうなずき、そして眉をひそめた。
「汚物といえばですよ。エヴルー家のロベールが、あろうことかジークフリート殿下の発現の儀という大事で、カトリーヌのような取るに足らぬ者を売女と評して貶めたのを、おまえは聞きましたか?」
「いえ。しかしまさか、そのような」
ジャンヌは、いかにもおぞましいというように身を震わせた。
「エヴルーがいかに愚かな豚であろうとも、それほどまでに下賎であるとは思いもよりませんでした。よりにもよって、ジークフリート殿下の発現の儀でだなんて!」
「まったくです」
アンリはうなずいた。
「そもそも、真の売女はあの毒蛾マリーでしょうに」
「自らも同様に毒蛾の粉にかかっているようでは、卑しい豚のエヴルーとて、毒蛾を売女呼ばわりはできないのでしょう」
ジャンヌは軽蔑するように冷たく言った。
「我が国最悪の売女が王妃だなんて。王妃を娼婦代わりに用いて、我が国の中枢を腐らせ崩そうとするヨーハン陛下の策は、それなりに当たりましたが」
「美しくありませんねぇ」
アンリは愉快そうに笑った。
「美しいどころか!」
ジャンヌは嫌悪あらわに吐き捨てた。
「どれほど容貌に優れても、売女の醜悪さは隠しきれません」
リシュリューの美姫マリーへと向ける、ジャンヌの侮蔑。
灰色の干し肉を手に、父アンリは満足げにうなずいた。




